荒れ野で叫ぶ者の声(8月14日礼拝)


荒れ野で叫ぶ者の声(8月14日礼拝)

ルカによる福音書3章1節~22節

要旨

 バプテスマのヨハネは荒れ野で叫ぶ者の声(イザヤ40:3)と呼ばれた。旧約聖書において荒れ野は、試練や失敗の場所であると共に、だからこそ神様の救いの御業が示された場所である(出エ16、ヨハネ3:14)。

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 「荒れ野」で生きて行かざるを得ないお互いは、バプテスマのヨハネと同じような可能性を秘めている。

 イエス様の「前」に、道を備えるのだ。世の人々は、私たちを通して、「クリスチャンってこういう価値観なんだね」「こういうものの考え方なんだね」と知る。そういう証し人なのであり備えられた道である。

 しかし、どんなに立派な証し人(たとえばマザーテレサやヴォーリーズさん)でも、自分自身が救い主なのではない。バプテスマのヨハネが告白したように、自分は救い主イエス様を指し示す者に過ぎず、「イエス様の履き物の紐を解く値打ちさえない」。

 バプテスマのヨハネの水の洗礼は、実は心の奥底まで変革するものではなかった。それをするのはイエス様だ。聖霊が人の心に触れて下さる時、火に喩えられるように人の心に浸透し、作りかえてしまう御業が起こり得る。キリスト教の歴史はそういう変えられた人々を生み出してきた。

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 250年前、ウェスレーのリードによって起こったリバイバルにおいても、どうにもならない酒飲みの労働者や、強欲な資本家が、人生をすっかり変えられ、退廃していたイギリスの社会は危機を脱した。

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 私たちも荒れ野でおいて、父なる神さまに必要を訴え、御業を見せて頂き、日本にリバイバルが引き起こされるほどの救いを見たいものである。