嵐をも静めるお方(9月11日礼拝)


ルカによる福音書8章22節~25節

要 旨

 ゲネサレト湖(ガリラヤ湖)は、山からの強烈な突風を受けやすい。ガリラヤ湖の船は突風に備えた設計であり、元ベテラン漁師たちも、風には慣れていた。
 しかし、それらをも越えてしまう嵐に遭遇した。弟子たちはあらゆる手を尽くしたが、自分たちが「破滅する」時は間違いなく近づいていると判断し、同じ船の上で「寝て」おられるイエスを起こしに行った。「一蓮托生だなぁ。この先生も強運の持ち主ではなかったなぁ」とでも内心思いながら…。
 誰も予想しなかったことだが、イエス様は起き上がって、風や波に「静まれ」と命じた。すると凪になった。弟子たちは互いに、「“これ”は一体何者なのだ」と、イエス様のことをまるで化け物のようにささやき合った。しかしこの出来事が、引き続くレギオンの出来事、ヤイロの娘の生き返りの出来事と共に、「あなたは神からのメシア(救い主)です」(9:20)というペテロの信仰告白へと導いていく。
 イエス様が一緒に船に乗っておられて本当に良かった! イエスが「向こう岸に渡ろう」とおっしゃったなら必ずそうなる。それがイエスに従う者の心構えである。問題が起こったらもっと早くイエス様に訴えれば良かったのに、とも言える。「あなたの信仰はどこにあるのか」とイエスはお問いになる。

 今朝は、「嵐をも静めるお方」という題でお話しさせて頂きます。
 前回に引き続いて、ガリラヤ湖(ゲネサレト湖)が舞台です。
 ゲネサレト湖で嵐が吹き荒れた。それをイエス様が静められた出来事です。
 
◆ガリラヤ湖の凶暴な突風
 嵐といいますのは、お読み頂いた23節に、
 「突風が湖に吹き降ろして来て」
 と書いてある、これです。
 強い、凶暴な風が湖に吹き降ろして来まして、高い激しい波が立ちます。そうすると、その湖に浮かんでいる船と、乗っている人々はどういうことになるでしょうか。大揺れに揺れて、ひどい場合は沈没する可能性だってあります。お読み頂いたのは、正にそういう場面です。
 
◆人生に襲いかかる“嵐”を思いつつ
 私たちも実際に船に乗っているわけではないが、突風、嵐がやってくるような環境の変化といいますか状況の変化に遭って、船がひっくり返って沈みそうになるような時があるかも知れません。そんな時に、イエス様への信仰がどのように助けになるのか。そのことを思いながらお読みしたいことと思います。
 
◆「ガリラヤおろし」が吹きやすい地形
 さて、このゲネサレト湖(ガリラヤ湖)は実は、突風、嵐のたいへん起こりやすい場所なのです。
 といいますのが、
 ガリラヤ湖は、すり鉢の底のようなところにあるからです。前回お話ししましたようにこの湖は、東と西を高地に挟まれ、しかも、海抜マイナス213メートルとさらに低いところにあります。加えて北の方には標高2800メートルのヘルモン山がひかえています。

 ですから、六甲おろしならぬ、「ガリラヤおろし」とでも言うべき強い風が、高いところからゴゴゴゴーッ!と吹き下ろしてくることが、起こるのです。
 特に夕方など、山の方の空気が急速に冷えて、もう湖を震動させるような突風が吹き付けることがあるそうです。これまで静かだったはずの湖面に次の瞬間、大暴風が猛り狂い、大波がうねるということが起こるのです。
 
◆YouTube動画で見たガリラヤ湖の大波
 YouTubeで、ガリラヤ湖、暴風、嵐と、英語で検索して見ますとたくさんの動画がありました。現在21世紀のガリラヤ湖ですね。
 そのなかの1つに、木造の船の上で、強い風の日に録った動画がありました。横幅3メートルくらいの船で、その真ん中あたりから舳先(前の方ですね)をずっと映したものでした。船がこのように(ジェスチャー)前後方向に、上下に揺れまして、そのたびに、遠くの景色が周期的にゆらーゆらーと浮いたり沈んだりするのです。
 その木造の船はギー、ギーと船体をきしませる不気味な音をさせながら、1メートル、2メートルではきかないくらい、ゆっくりと上下に浮き沈みしておりました。それでも空は明るく、そんなに緊迫感がただようような感じでもありません。けれども、船に弱い人なら確実に船酔いする、いやそれどころではないレベルの揺れなんですね。

 ほかの動画では、船ではなく岸から録ったものですが、もっと空が曇って暗くなって、波が激しいものもありました。
 
◆丈夫にできた船と、ベテランの漁師たちでも・・・
 ガリラヤ湖で突風が来ることはデフォルト、お約束ですから、イエス様の時代から、船はガリラヤ仕様の設計になっていたようです。
 風で走るための帆柱が立っているわけですが、漁をしていて、網の重みにぐっと耐えている時に突風がやってきてもひっくり返りにくいように、また、そういう時に帆に風が吹きつけても,壊れないように堅牢に、そういう構造に作ってあったのだそうです。
 そういう、風への備えがされ、なおかつシモン・ペテロを始め、漁師出身者も多かったイエス様の弟子たちは、ガリラヤ湖のベテランなわけですから、その動画に出たくらいの、上下に1、2メートルゆっくり浮き沈みする程度の風や波は、まあまあ普通に乗り切れたのかもしれません。
 
◆人の能力を凌駕してしまった出来事
 しかし、ここに記されておりますのは、それを越えてしまっている事態です。

 8:22からお読みしてみましょう。
 「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。
 渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。
 弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。」

 
◆「船に乗ろう」と主導権をとったのはイエス様
 「イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り」とあるのですが。これは、
 「イエスが船へと乗り込んで、そして、彼の弟子たちも」と書いてありまして、イエス様が強く、主導権を握って、今回の動きがあったことが分かります。
 そしてイエス様が「湖の向こう岸に渡ろう」とおっしゃった「ので」船出したのですね。

 ガリラヤ湖の水で産湯を使った、ベテラン漁師だった弟子たちは、自然の状況を観察して、「これは嵐が来るぞ」と思ったのだけれどもイエス様に押し切られたのか、
 あるいは彼らでさえも予想がつかなかったのか、そこのところは定かではありません。
 
◆ガリラヤ湖を渡らざるを得なかった
 しかし、一つ言えることは、どうしても船に乗ってガリラヤ湖を渡らなければならない状況だった、ということですね。

 家でじっとして、何もしないでいれば、リスクは生じないのかも知れませんが、そういうわけにはいきません。それが人生というものです。

 イエス様が「行くな」とおっしゃってるのに強引に出発して、嵐に遭ったというわけではありません。
 弟子たちは、イエス様が「行こう」とおっしゃたので、船に乗って乗りだしたのですね。
 それならば、はじめから、嵐なんかに一切遭わないようにしてくれたらいいじゃないか、と思うのですが、神様のお考えは違うようです。
 
◆船上で眠ってしまわれたイエスさま
 しかも、23節にありますように、
 「渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。」
 そうしたらその間に、
 「突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。」
 という状況になったわけですね。

 同じ出来事が、マタイ、マルコの福音書にも記されているのですが、
 マルコの方を見ますと4:38に、
 「しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。」
 と書かれています。
 
◆艫のようで枕をして
 艫(とも)というと船の一番後ろですね。船の大きさにもよるのでしょうが、大きく揺れる先端の舳先に比べて、揺れが少ないのです。当時の枕は、粗い布を縫い合わせた間に藁のようなものを詰めたものであったようです。
 イエス様が「マイ枕」を持って旅をなさったわけでもなさそうですし、船に備え付けの、船頭さんや漁師さんが寝るための枕でしょうか。非常に旅慣れたイエス様でいらっしゃいます。
 
◆最善を尽くしただろう弟子たち
 そこへ、激しい嵐が吹き降ろして来、波が荒れ狂いまして、弟子たちは右往左往の状況になったわけです。正にこういう風に(大揺れのジェスチャー)大揺れになりました。
 帆は降ろしましたし、場合によっては帆柱を切ってしまったかもしれません。この風と波の状況では、漕いで岸に着けるのも不可能です。
 
◆板1枚の下は深い水という恐怖
 甲板の板1枚の下は地面ではないのです。下は、そして前も後ろも右も左も水ばっかりです。深さは30メートルも40メートルもあって、足は立ちません。もしも船から放り出されたら一人で、大波が荒れ狂うなか、助かるまで浮き続け、泳ぎ続けなければなりません。それが続かなくなった時、死が待っています。
 船に慣れた漁師たちも、恐怖に打ち震えたことでしょう。

 実は船に乗っているということは、足は薄い甲板の板の上に立っているのであって、いつでも、いったん嵐のような緊急事態がやってくれば、即座に危険にさらされるのです。
 人生は、そういうものかも知れません。
 平穏な、「波が静か」なときは、平気な顔をしているけれども、いったん嵐がやってくれば、どんな大ベテランであっても大慌てをするのです。

 そして、嵐がいつやってくるのか来ないのか、私たちには分からないのです。正に人生は、一寸先は闇なのです。私たちはそういう「人間である」ことを思い知らされます。
 
◆イエス様を起こしに行った
 この嵐の状況になった時に、イエス様はまだ、ずっと寝ておられたのですね。びっくりすべきことです。

 弟子たちは嵐に対処して、できることを必死で行いました。
 そして、嵐が静まってくれることを期待したのですが、静まる気配はありません。

 23節後半に、
 「彼らは水をかぶり、危なくなった」
 と記されている通りです。
 水でいっぱいいっぱいになっている、という状態です。
 そして、「危なくなった」とは、彼らは一緒に、危険の中に居続ける状態になっている、リスクを冒し続ける状態になっているということなのです。

 そして24節。
 「弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。」
 この近寄って行ってというのは、「目的の地点に動いて行く」という言葉なのですが、強風と大揺れの最中に、しかも水の入った船の上を、そろそろと、それこそ這うようにして、艫で寝てらっしゃるイエス様の方に近寄って行ったのでしょうか。
 
◆覚悟を決めて、「先生。もうダメです」
 もうこれは、万一、船がひっくり返ったり沈んだりしたときにどうしたらよいか、次の行動の準備をしておかなければならないと思ったのでしょうか。
 大事なお客様であり先生であるイエス様にも覚悟して頂かなければならないと思ったのでしょうか。

 イエス様を、「先生! 先生!」と言って起こしたんですね。
 ここで「おぼれる」と訳されているのは、「何かを壊す」とか「失う」とか、あるいは「死ぬ」とか「失われる」という言葉が使われているのです。主語は「私たち」です。
 すなわち、私たちは、船を壊すことになるし、失うことになる。そして、自分たち自身が死ぬことになる、そういう抜き差しならない状態が今、ずっと続いています、ということを言っているのです。
 
◆「この先生も強運の持ち主ではなかったなぁ・・・」?
 自分たちにはどうしようも状況下で、「先生! 先生! 私たちはもう破滅しそうです!」
 この時の弟子たちの気持ちはどのようなものだったでしょうか?

 この先生が、こんな日に船で行こうなんて無茶振りするからこうなったんだよ――。
 俺たちゃ、運が悪いな~。こうなったら一蓮托生だな。この先生も強運の持ち主ってわけでもなかったな――。
 いろんな感情が交錯したことでしょう。
 
◆誰も予想しなかった大どんでん返し
 そんななかで、誰も予測していなかった大どんでん返しが起こります。24節後半。
 「イエスは起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。」
 イエス様は正に。風と、水の波を叱った。これは非常に強い不満を表明するというニュアンスが込められています。あるいは命令した、と訳すこともできます。同じ場面をマルコ4:38では
 「イエスは・・・風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。」
 という風に記しております。
 
◆風や波をしかりつけると静まって凪になった
 そうすると、嵐や波は止まって、静かになった、凪になったというのです。

 いったいどういうことなんでしょうか?
 考えることができないような、びっくりする、唖然とするような出来事です。

 それは、この時、現場にいた弟子たちにとっても全くそうだったんですね。
 彼らにとっても、「イエス様だからそんなことできても当たり前だ」ということではなかったのですね。驚くよりほかはない出来事でした。
 
◆いったいこの方は何?
 ですから、
 「弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。」(ルカ8:25後半)
 ということになったのです。「この方は」というのは、元の言葉を見れば「これは」ということです。「これは誰なのだろう」。もう普通の人間扱いじゃないですね。

 イエス様は特別なお方です。
 
◆完全に人となって下さったが、嵐にお命じになり得る方
 普通の人間が、風や波を叱って、命令して静めることはできません。
 イエス様はおできになりました。
 地上にいらっしゃるイエス様は、日頃のお働きのお疲れが出たのでしょうか。船の上でぐっすりとお眠りになられる方です。私たち人間と全く同じになって下さったお方です。
 しかし、風や嵐を従わせることもおできになる方でした。
 
◆十字架で死ぬご使命以外で死ぬことはないという信頼
 イエス様は地上のご生涯において、父なる神様にお従いになり、「天のお父さん」と毎日、祈りにおいてコミュニケーションしながら、導きと助けを頂きながら生きておられました。
 そして、ご自分がどのように死ぬか。そして十字架で死んだ後、復活なさって、そのようにして人々の罪の身代わりとなり、人類の救いを成し遂げられるご自分の使命をよくご存知でしたし、
 ですから、ご自分が湖でおぼれて死ぬことなどあり得ないことを知ってらっしゃいました。
 ご自分はエルサレムにおいて、十字架にかけられて殺されて死ぬということ以外の死はあり得ない。
 その使命が全うされるまで、自分は死ぬことがないとご存知であったということでしょう。

 そのことはたとえばルカ9:31
 「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」
 同じくルカ13:33
 「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。
ですから、嵐の中で、平気で寝ておられたのでしょう。自分がどうしようもないことについては、父なる神様にお任せになってらっしゃったのです。」

 などのもことばからもうかがい知ることができます
 
◆最初の弟子たちも、初代教会の異邦人クリスチャンも驚いた!
 私たちは今、この出来事から2000年が経って、イエス様が救い主キリストとして世界中で知られ、信じられている世の中に生きております。そういうなかで、今朝の物語も、日本語で聞いたのです。

 そうなる前に、ルカの福音書が書かれた頃、聖霊の豊かな働きのなかで、選民ユダヤ人ではない異邦人たちが新たに、続々とイエス様を救い主として信じ、イエスの弟子として生きていくことが起こっているなかで、
 イエス様がどういう方であったのか、どういうことをなさったのか、異邦人クリスチャンたちは、ルカの福音書を、「そうだそうだ」また、「そうなのか!」と思いながら読んだのですね。
 ルカの福音書は、イエス様の十字架と復活とご昇天の出来事がすべて完結した後に、イエス様の救いの御業の全貌が姿を現したものを書き記したのです。

 初代教会の人たちは、目の前で、びっくりするような聖霊の豊かな働きがなされている状況の中におりますから、
 ルカの福音書に記された、イエス様が波や風までも従えなさった姿は当たり前と思ったことでしょうか? それとも、彼らにとっても、それはあまりに驚きでだったのではないでしょうか。
 
◆イエス様は一緒にいて下さる
 いずれにしても、このガリラヤ湖の嵐の時、弟子たちはイエス様とご一緒に船に乗っていて良かったです。

 イエス様が一緒に、イエス様にお話しすることができたのです。
 そうするとイエス様が立ち上がって、嵐や波を静めて下さった。
 
 イエス様はご自分がそういうお方であると、この機会を通じて弟子たちに示すことになったのでした。
 それは理屈をくどくど述べるのでなくって、起こってくる状況に対して、ご自分のありのままで対処したらそういうことになる、というやりかたを以てですね。
 
◆あなた方の信仰は「どこに」あるのか
 そして、弟子たちにこうおっしゃいました。
 「あなたがたの信仰はどこにあるのか」

 信仰はあるに違いない。イエス様に着いてきているのだから。
 しかし、弟子たちは忘れてしまったのか? イエス様は、船に乗られる前に、「湖の向こう岸に渡ろう」とおっしゃったのであって、おぼれ死のう、とおっしゃったのではない。まだ、ご自分の死に場所ではないのです。
 ですから、イエス様にとっては、この度、無事に岸に到着することは当然である。そういうものです。イエス様の使命を共にする弟子たちにそういうところが分かって欲しかったのでしょう。
 
◆もっと早くイエス様に言えばヨカッタのに
 また、なぜ危機的な状況の中で、ずっと一緒にイエス様がおられたのに、最後の最後になって言いに来るのか。もっと早く私に頼れば良いではないか。

 この出来事以前にも、イエス様がなさったことを見、助けを与えられたことがあったのに、それを忘れてしまったのでしょうか?
 このことはイエス様にも無理、と弟子たちは思ったのでしょうか?
 
◆祈りの必要性と有効性
 もちろん私たちは、祈っても、自分のすべきことを、自分の手足を動かして真剣になさねばなりません。
 しかし、それをするときに、神様の導きがあるように助けがあるように祈りながらなすことができるのです。

 また、どうしても人間の及ばないことをも、イエス様はして下さることがおできになるのです。
 
◆せっかく与えられている信仰なのだから・・・
せっかく与えられているイエス様に対する信仰です。
 「あなたがたの信仰はどこにあるのか?」とイエス様は私たちに問うて下さいます。
 私たちも、イエス様に信仰を働かせて、必要な助けを頂いて行きたいことと思います。そういう有効な祈りのあり方は、自分にとってはどういうものでるのか開発と言いますか、身に着けさせて頂きたい。
 そのようにして、与えられた人生を全うして行くことができるようにと願います。