イエス様は根本を見失わない(9月25日礼拝)


イエス様は根本を見失わない(9月25日礼拝)

ルカによる福音書4章1節~13節

要 旨

 公職にある者が、自らの使命を踏み外して、賄賂を取ったりすれば社会は傾く。
 イエス様が担っておられるものは、「使命」という言葉でも言い足りない。だから、「根本」という言葉で言い表してみた。その「根本」とは、巨大建造物が、地面に対して垂直に建っているのと似ている。
 建物が巨大であるほど、0.1度の狂いも許されない。シンプルな下げ降りによってその垂直は知られる。しかしそれは自然現象に過ぎず、そこに意志などない。
 イエスは生身の人間として、ご自分の自由において“垂直”を守って下さった救い主だ。悪魔の誘惑の場面には、そのありさまが鋭く描かれている。
 イエスは特別な意味で神の子“なのだから”何をしたってかまわない。この悪魔の見解の前半は正しいが、後半は、イエスにとっては間違っていた。人として、父なる神に対してのみ従順であられた。それは、イエスが父を愛し、ご一体であるからこそそうできた。人祖アダムの失敗をリカバーすることができたのだ。
 そして、悪魔を1回だけでも拝むなら、世界の権力を与えよう、という誘惑。もしこの密約にイエスが乗っていたら…? ハレルヤ!そうはなさらなかった。
 どんなに外から良く統治されても。人の内面は変わらない。そうではなく、魂の奥底から変革し、それが外にまで表れるようにして下さるのが神のやり方で、それは、イエスご自分が十字架にかかって下さることによってのみ道が開かれた。

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今朝は「イエス様は根本を見失わない」と題してお話しさせて頂きます。
 はじめは、「イエス様はご自分の使命を見失わない」という題にしようかなと思っておりました。あるいは「イエス様はご自分の役割を見失わない」ということでもいいかも知れません。
 人が、自分の使命や役割を忘れてしまったら大変です。

 たとえば、警察官の使命は、警察法という法律に次のように規定されています。
 「警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当る」
 もしも警察官が、そういう使命、役割を踏み外して、よそのどこかの国のように賄賂を受け取ったりしたらどうでしょうか? その国の治安は乱れてしまいますね。
 日本の国においてはそういうことはない。警察の方たちが使命に則って役割を果たしていて下さることは、まことに高い評価に値すべきことだと思います。

 では、食べもの屋さんの使命や役割は何でしょうか?
 いろいろ考えてみましたが、お客が食べたいと思う食べ物を、安全に、適正な値段で提供する、ということでしょうか。

 しかし、お客さんのことより、実はラーメン店が大繁盛して大もうけするとか、あるいは、ラーメン界のカリスマになって有名人になることが目的の人だっているかも知れません。
 でも、悪いということはないですね。
 考えてみれば、美味しいラーメンを出さなければ店は繁盛しないのだし、当然のことながらラーメン界のカリスマになることもできません。そうなると、お客様が真に必要とするラーメンを提供することが、自分にとってはどんなことなのか、深く考えてみる人も出てくるのかも知れません。

 警察官や、飛行機のパイロットや、電車の運転手さんなどの場合、食べ物やさんに比べてもっと、使命感という言葉を使うことがぴったりな感じがします。社会が求めるものと、その人自身がそうありたいと願っているものが重なりやすい仕事かも知れません。
 それだけ、社会に対する影響が大きく、責任が重い、ということが言えそうな気もします。

 政治家の場合はどうでしょうか? 何が使命であり役割でしょうか? 果たすことはできるのでしょうか? 民衆から求められることがいつも正しいのでしょうか?
 いろいろと考えてみると面白いかも知れません。しかし今日は、深入りしないでおきたいと思います。

 さて、イエス様の場合、使命とか役割とかという言葉では足らないようなものを担っておられるお方です。
 その担っておられるものの重さ、責任の度合いが、使命とか役割という言葉では足りないように感じるのです。

 それで、「根本」という言葉を使ってみました。
 どういうことが言いたいかと言いますと、
 たとえば、巨大な建造物が、地面に対して垂直に建っているようなことをイメージしています。

 巨大建造部、たとえばあべのハルカスは地上60階建てで、高さが300メートルあります。また、JR大阪駅のプラットフォームの上に高さ50メートルの大屋根がかかっている。
 そういう建物はとても巨大ですから、少しくらい小さな傾きがあっても大丈夫、影響はない、と思うでしょうか?
 そうではありませんね。
 小さな掘っ立て小屋ならば、多少傾いていても規模が小さいので、つっかえ棒なんか簡単にできてしまいますから、逆に倒れないでしょうし、また倒れたとしても被害は小さいことでしょう。

 しかし建物が巨大であればあるほど、地面に対して正確に、垂直に建っていなければなりません。ほんの1度の狂いが、大きな傾きとなってしまい、後で修正することもできず、ついには崩壊することになります。もしもそうなった場合、その被害はどんなに大きなことになってしまうことでしょうか?

 どんな巨大建造物でも垂直をとるために使う道具はシンプルです。
 「下げ降り」ですね。長い糸の下におもりを垂らして、垂直を確認するわけです。あまりにシンプルです。

 ここで「イエス様は根本を見失わない」と申し上げましたのは、
 どんなに高い、巨大建造物であっても、いや、そうであればあるほど、シンプルな下げ降りによって垂直をきちっととって根本を守っている。そのように、
 そのように、イエス様は、大きな世界に対して根本を守って下さったことを申し上げたいのです。

 下げ降りが地面に対して垂直なのは単なる自然現象であって、自分の意志などありません。しかし、
 イエス様の真っ直ぐさは、人格的なご存在において、しかも生身の人間であられる時に、ご自身の自由な選択、行動においてそうして下さったという点で、イエス様は根本を「見失わない」という表現をさせて頂いたわけです。

 三位一体にして、創造主なる神のお働きは、世界と関係します。
 というより、この全世界、全宇宙は神がお作りになったものです。子なる神であるイエス様も、創造の御業に参画されました。

 その、神が創造なさった世界は元来、非常に良いものでした
 創世記1章1節に、
 初めに、神は天地を創造された
 と記され、27節には、人についても、
 神はご自分にかたどって人を創造された
 ことが記され、31節で
 神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。
 と宣言されている通りです。

 しかし、創世記の3章に記されている通り、最初の人、アダムとエバが、悪魔の誘惑を受けて、神様がおっしゃったことよりも蛇の言うことを信じ、受け入れてしまって、
 自分が「神のようになる」ことを望んで、神に背き、罪あるものとなってしまったのでした。

 そして、その「人の堕落」によって、全世界の被造物も呪われたものになったと聖書には記されています。
 創世記3:17で、堕落した人間に対して、神様がおっしゃったことの中に、大自然が「とばっちり」を食ったことが記されています。
 お前(人のことですね)のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる

 また、新約聖書のローマ8:20には、
 被造物(これは全世界の作られたものこと)は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、

 とあります。さらに被造物について、
 「滅びへの隷属」「共にうめき」
 といった表現もされています。
 これらのことは今日、大気や水の汚染(それらは大規模で、しかも致命的なものも含めて)が私たちの目の前で、正に人間の罪の故にますます引き起こされていることを見るときに、切実に実感させられるものです。

 しかし聖書は同時に希望を語っています。
 先ほどのローマ8:21に、
 被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。

と記されている通りです。

 これはすなわち、人間が罪を犯し堕落したが故に、他の被造物も呪われてしまったけれども、
 神は人の罪を赦して下さり、その結果被造物も本来あるべき輝かしい姿に回復される約束を記しているのです。

 そのような赦しや回復がなされる要(かなめ)として、
 被造物ではない、神の子である救い主イエス様が、人となってお生まれになり、罪のないご生涯を送り、十字架にかかって全ての人の身代わりに死んで、よみがえられ、完全なる永遠の大祭司になられる。そのようにして、罪の赦しが成就し、人の救いは成し遂げられる。そして、他の全ての被造物も虚無から解放されて救われる、ということが聖書には一貫して記されているのです。

 何百メートルもある巨大建造物が厳格に垂直を保っていなければならないそれ以上に、大きな大きな世界、また人類の購いや救いの基盤を真っ直ぐに据えるため、イエス様は厳格に、ご自分の使命、役割を踏み外すことなく、根本を見失わないで、人として、十字架に到るまで地上の生涯を生き抜いて下さったのです。

 今朝お読み頂いた、この荒野の誘惑の記事は、そのエッセンスといいますか、イエス様が根本をきっちりと守って下さったことが鋭く記されているのです。

 ルカ4章を見ます前に、3:21を見ておきたいと思います。
 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 これは、8月14日の礼拝で「荒れ野で叫ぶ者の声」と題してバプテスマのヨハネについてお話させて頂きました。その時にお読みした、最後の部分です。

 バプテスマのヨハネは水で洗礼を授けるが、イエス様は聖霊と火でバプテスマをお授けになり、心の奥底まで作り変えて下さるお方である。
 また、バプテスマのヨハネはイエス様に、旧約聖書の時代からの救いの約束のバトンを、きちんとイエスさまにお渡しする役割を果たしたことを申し上げました。

 その中で、イエス様はヨハネから水のバプテスマを受け、その時に聖霊が目に見える姿で、鳩のようにイエス様に降って来られ、また、天から声が聞こえた。
 イエス様は、父なる神様から直接、また公に、「あなたは私の愛する子、わたしの心に適うもの」と承認される出来事があったわけです。

 そのことがあった直後の4:1です。お読みします。
 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、
 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」

 イエス様は聖霊に満ちて、聖霊に導かれて荒野に入り、悪魔から誘惑を受けたことが分かります。
 ある意味、イエス様が悪魔の誘惑をお受けになって、それを退けることがなければ、神の子イエス様の救い主としての真価は分からなかったし、その後の歩みの根本的な備えともなる出来事だったのです。

 ここまで縷々お話ししましたようにイエス様は、絶対に根本を見失ってはいけないのであり、アダムとイブが犯したような失敗を絶対に繰り返す、すなわち誘惑に負けるわけにはいきません。
 そういうイエス様がお受けになった誘惑は、ただ単に自分が楽をしたいとか、楽をしながらいい目に遭いたいということを遥かに超えています(深いところでそれを含んでいるわけですが)。
 全人類と全被造物が救われるのか救われないのか。罪人として滅びに放置され、虚無に服したままなのか、贖われるのかがかかっています。

 悪魔はイエス様の救い主としての使命を良く知っている上で、「こういう風にしたって人は救われるではないか?」あるいは、「こうした方が、もっと救われるのではないのか」という誘惑を持って来たわけです。
 先ず4:3。
 「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
 という誘惑と、その意味するところ、そしてそれをどのようにイエス様が退けられたかを見ていきたいと思います。

 イエス様は40日間何も食べなかったのです。当然、お腹が空きます。
 私も、3日間だけの断食を、断食道場でしたことがありますが、なかなか大変なことでした。断食の期間の後、補食と言って、ごく薄いお粥さんを最初は1日1食だけ頂くのですが、それが待ち遠しくてたまらないわけですね。
 食事の時間になりますと、「誰々さんと誰々さんと誰々さんは食事ができていますから食堂にお出で下さい」とアナウンスがあるのです。小さな食堂に、よく噛んで食べて下さいね、といってお粥さんや、梅干しや味噌汁が出る。
 補食の2日目に入って、私は2食食べられると思っていたら1食だったのです。ですからお昼ご飯の時間、「誰々さん・・・」のアナウンスの時に私の名前がない。おや?何かの間違いかなと思って食堂まで行って、食事する人のリストを確認するんですけどやはりないんですね。
 人間は感情の動物ですね~(笑)。その時の何とも恨みがましい気持ち! 祈祷院のスタッフが私に意地悪をして食事を出してくれないのか、と思うくらいでした。

 断食は、きちんと健康管理して行えばからだのためにも良いですし、クリスチャンなら特に、祈りに集中できる方法のようです。ネットなどで調べても、40日の断食でも行う人はわりとおられるようです。
 そういう方たちの場合は、私みたいなだらしないことはないでしょうし、
 ましてやイエス様の場合、私みたいに、食べ物の恨みは怖ろしいみたいなことはないと思うのですが、
 しかし、完全に人となって下さったお方です。人間としての弱さをお持ちになって、誘惑をお受けになって下さいました。

 ヘブライ4:15に、
 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
 と記されている通りです。

 ルカ4:2にイエス様は、
 空腹を覚えられた
 と単刀直入に記されています。

 正にその絶妙のタイミングにおいて悪魔は、
 神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ
 と誘惑してきました。

 イエス様以外の人に、この誘惑は意味がありません。なぜなら、石をパンにすることは絶対にできないからです。それは、イエス様のように神の子では「ない」からです。
 悪魔は、「あなたは」神の子なの「だから」この石に、パンになれと言ったらどうだ、と言ったのですね。
 3:21でイエス様は、父なる神から、あなたは特別な意味で神の子だと言われたばかりです。悪魔が、「あなたは神の子なのだから」と言っていることは合っている。
 それに、石をパンにしたって誰に迷惑がかかるというのでしょうか?

 しかしこれは、イエス様が使命を全うすることを妨げ、地面に対して真っ直ぐ垂直に救いという建物を建てなければならないのに、傾いているようにさせる正に悪魔の策略でした。

 イエス様はあくまでも、父なる神様に対してのみ従順であられる必要があります。
 アダムとエバが、父なる神様のみこころを疑い、結局、「自分の考えが正しい」という結論を出して、木の実を食べたような失敗は絶対に繰り返してはいけませんし、実際、イエス様は失敗なさいませんでした。
 父なる神様が「あなたは私の子」とおっしゃったからといって、いや、だからこそ、
 「自分は神の子なの『だから』スゴイのだ」と言って、父なる神から離れた、「自分の」素晴らしさ、能力によって何かをするということは、誘惑に負けて、最初の人、アダムとイブが犯した失敗、罪を再び繰り返すことになってしまうのです。
 イエス様は、父なる神様をこよなく愛し、父とご一体であられるから、その誘惑を退けて下さることがおできになりました。

 それは4節に、
 「人はパンだけで生きる者ではない」とお答えになった。
 と記されている通りです。

 これは申命記8:3のみことばを引用なさいました。これはモーセに率いられて出エジプトをし、40年間荒野をさまよってイスラエルの民に向かって、モーセを通して言われた言葉です。申命記8:2からお読みします。

 あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。
 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。

 飛んで5節。
 あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。
 あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。

 その苦しい状況の中で人の本心が分かってしまう荒れ野です。そこにおいて 神様は人を、
 苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされ
 その続きとして、それは、
 人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
 と記されているのです。

 イエス様は、
 「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある
とおっしゃいました。すなわち、すでに「書いてある」ことは誰も好き勝手に変更できない。神様ご自身もそうはなさいません。聖書に記されたみことばに照らして父なる神様のみこころを求めるイエス様の態度です。

 さて今日はもう結びにしなければなりませんが、5節から先を少しだけ見ましょう。
 二つ目の誘惑ですね。
 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。
 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。
 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」

 世界の全ての国々の権力と繁栄。ものすごい言葉です。
 当時のローマ帝国の権力と繁栄だけでもすさまじいものです。ローマ帝国は非常に広範な領土と多くの民族を治め、巨大な政策を実行し、港湾や道路網を整備したり、数々の巨大建造物を造ったりしました。
 もしもイエス様がローマ皇帝、いや、それよりも上の支配者になって、この世の中の権力を手中に収め、
 そのうえで、正しいことだけを行い、弱い人貧しい人に行き届く政治をして下さったらどうでしょうか?

 いくら良い理想を持っていたって、負け犬の遠吠えでは仕方ないのです。
 世的な権力を握って、思う存分、良き世を作るために手腕を振るって下さいな。これが悪魔からのオファーでした、

 イエス様にあっては、この誘惑はリアルな切実なものだったでしょうか? そう思います。
 何故ならイエス様は、神の右の座におられたのだから、人々の上に立って当然のお方です。大きな指導者として、巧みに采配を振るうセンスも当然おありだったでしょう。
 素質のない人がそういう座に座っても上手く行かないでしょうが、素質は十分なのです。

 何よりも、イエス様は、人類を救いたいのです。それならば影響力の大きな立場に立って、天才的なやり方で国を治めればよいではありませんか。

 しかしイエス様はこの悪魔からの誘惑を退けなさいました。
 なぜでしょうか?
 悪魔はこう言いました(4:7)。
 「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。
 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」

 何と図々しい言葉でしょうか?
 そして、何とリアリティ、現実に即した言葉でしょうか。

 悪魔を礼拝するなら、国々の権力と繁栄を与えよう――!

 もしこの悪魔との密約を、イエス様が飲んでしまったらどうでしょか?
 一度だけで良いのです。一度だけ礼拝して、後は神様のみこころに従ったような権力の振るい方をすればいい……。
 イエス様はそのようにはお考えになりませんでした。
 イエス様は、人類の救い主として、1ミリでも0.1度でも間違って、傾いていてはいけないお方なのです。
 イエス様は、ご自分の使命を、正しい根本を貫き通して下さいました。

 たとえ世的な権力によって治めたとしても、人々の心の中までは変革できません。
 イエス様の、そして三位一体なる神の選ばれた道は、人の心がその奥底から、神を愛し隣り人を愛するものに変えられる。それが外にも表れる、そういう道でした。
 それは、神の子イエス様にとっては、ご自分が十字架にかかって身代わりとなることで人々の罪が赦される、ご自分にとっては苦難の道でした。そしてイエス様は実際に、地上のご生涯を、その根本を見失うことなく、十字架に向かって真っ直ぐに歩み抜いて下さいました。
 私たちは、その神の子、救い主の有り難さを心の底から感謝し、信仰を以て受け入れするのみなのです。

 お祈り致しましょう。