イエスの言葉は権威がある(10月30日礼拝メッセージ)


ルカによる福音書4章31節~44節

要 旨

 ここで権威と訳されているのは「エクスーシア」という語。日本語で「権威」が持つ意味に加えて、「神様や神的なもの、それに類するものに源泉を持つ」という意味あいが強い言葉である。

 だから、イエスの言葉には「エクスーシアがある」(4:32)というのは、「他を服従させるような威力」があり、「その道で第一人者としてみなされる(例:聖書学の「権威」)」ということであった。

 「新約聖書神学事典」(通称キッテル)は、新約聖書におけるエクスーシアのコンセプトについて、次のようにまとめている。(1)全ての世界の力や道理の源は神である。その神だけに固有(プロパー)の活動は絶対に実現する実現性(2)自然の力(火を支配するエクスーシア=黙示14:18)。
 (3)神の意志はサタンの支配圏を取り包んでしまっている(天の父は私たちを暗闇のエクスーシアから救い出して=コロ1:31)。悪自体が強力なものである、それ以上に、にもかかわらず悪は、神がもうそれを凌駕してしまっているところにその最後の秘密(ファイナルミステリー)がある(荒野の誘惑)。
       ◇
 「エクスーシアと力をを以て汚れた霊に命じると、出て行く」(36)とも記されている。
 悪霊問題に関する解釈は、幅が広く分かれる(「悪霊など存在しなく、それはものの喩えに過ぎない」「積極的に悪霊を“追い出す”ことをすべき」etc)が、みことばにしばしば出ることだからまじめに考えなければならないだろう。エクスーシアの定義の(3)を考えてみなければならないと思う。

 前回のお話しは、ルカ4章16~30節から、イエス様の生い立たれたナザレにおいて、故郷の人々から拒絶されたところをお話ししました。
 それは、「異邦人に対する報復はもうないのだ」とイエス様は宣言なさって、狭いユダヤ民族中心主義的な考え方でなく、世界の全ての民族、人々を対象として、その心がその奥底から、父なる神様に帰っていく。そういうところから来る救いを宣べ伝え始められた。それが、ユダヤ人が本来、神から委ねられてきた考え方、使命である、という理解にお立ちだったわけです。

 生まれ故郷のナザレの人々はイエスのことを、自分たちの地元が出んだ、いわば民族解放運動の強力なニューリーダーとして、期待を寄せ始めていましたので、自分たちに圧政を加えているローマ人への報復を放棄したイエスの宣言に疑念を抱き、
 裏切りと感じ、怒り狂って、イエスを町の建っている山の崖まで追いやって突き落として殺そうというところまで行った。そして、その箇所が、ルカの福音書全体のいわば綱領であり要約版になっているということを申し上げました。

 そして、それにすぐ続く、今日の箇所と言うことになります。イエス様はカファルナウムに歩を進められました。
 カファルナウムは、9月の私の方からのメッセージにおいて何回も名前が出てきた町ですが、ゲネサレト湖(ガリラヤ湖)の北にある町ですね。
 イエス様と弟子たちの活動の一つの拠点となった場所で、シモン・ペテロの出身地でもあります。
 4つの福音書のなかで、何回も名前の出て来る町です。
 
 ルカの福音書で、一番最初にカファルナウムという言葉が出て来るのは、この箇所かなぁとも思うのですが実はそうではありません。
 ここより前に、カファルナウムという地名が出てきます。それはどこだと思いますか?
 そうですね。4章23節ですね。
 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。
 と記しております。ですから、今日の箇所に進みます前、すなわち、ナザレの町における説教や討論の前に、カファルナウムでの活動が既にあったということが分かります。
 4章に入ってすぐに荒野の誘惑の記事があり、その次に「ナザレで拒絶された」事件があり、その後、今日のカファルナウム入りの記事となるわけですが、
 荒野の誘惑に引き続いてすぐ、そしてナザレ事件の前にさり気なく、14節に、
 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。
 とも記されている通りです。カファルナウムはガリラヤの「周りの地方一帯」のなかの一つの町と言うことです。

 さて、今朝の箇所31節から再びお読みします(32節まで)
 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。
 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。

 これは安息日、今日の土曜日ということになるわけですけれども、カファルナウムでイエス様は、何回かの安息日の時に、人々に教えをしておられたのだ、ということが分かるわけです。
 そして人々は、彼の(イエス様のですね)教えに非常に驚かされていたものだ、と書いてあるのです。一回だけええことを言うた、というのではなく、何回もバッターボックスに立って、そのたびに「打点を上げて」おられたわけです。
 それはイエス様の言葉が、いつも権威があったものだからだ――、という書き方がしてあるのです。
 まぐれ当たりではありません。イエスが語るところはいつも権威があり、だからカファルナウムの人々はいつもびっくり仰天驚かされていたというわけです。
 
 この時点でイエス様はまだ一人で活動しておられます。弟子たちはまだおりません。9月に学びましたように、今日の箇所にすぐ続く5章において、ゲネサレト湖で「たくさんの魚が捕れた事件」を通してシモン・ペテロたちをゲットして、彼らと一緒に活動していくようになるわけです。
 今日の箇所の中に、ペテロのしゅうとめさんの病をイエス様が癒された話が含まれているわけで、そのこともペテロがイエス様のお弟子になる伏線でありました。
 
 思い返してみましょう。なぜペテロはイエスさまに着いていくことになったか?
 それはイエス様が人生を賭けてついて行くに足りる人物、お方であることが分かったからです。
 そのついて行くに足るというのは何だったのか? お金があるからか? 学歴があるからか? 有力な派閥に属しているからか? 有力者にコネがあるからか? 親の七光りなのか? 皆違いますね。
 そういうものにペテロは魅力を感じたり引き寄せられたわけではありません。
 こんにち的な言い方をすれば、イエス様に、着いていきたいという思わせるだけの実質があり実力があったから、です。
 それが、「権威があった」という表現の仕方にここではなっているととることができると思います。

 「権威がある」という言葉が今日の箇所には2つありまして、一つは先ほどお読みしたところでした。
 そしてもう一つは36節にある、
 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」
 というところです。

 日本語で権威、と言いましたときに、たとえば産業用ロボットの権威とか、播州地方の郷土研究の権威とかいった言い方があります。
 これは、その権威と呼ばれている人がその分野について、たとえば、産業用ロボットとか、播州地方の郷土研究について非常に良く知っている。スミからスミまで知り尽くしている人である。そういう意味の言葉です。
 今朝登場した権威と訳されている言葉は、元の言葉でエクスーシアと言いまして、聖書にはたくさん出てきます。
 じゃあ、一緒に回転寿司に食べに行って「行く寿司屋」などとダジャレを言っている場合ではありませんが、そのエクスースシアと、日本語でロボット工学の権威という場合の権威と、語感が非常に重なっているところが多いと感じます。
 「この人は何かの権威だ」と判断、認定することができるのは、自分たちもある程度、事柄について知っている人々であるに違いありません。
(省略可)
 新しいタイプの産業用ロボットが開発されて、新聞記者が、それはいったいどういうものなのか、どんな役に立つのかということなのか話を聞きに行くとすれば、産業用ロボットのことを良く知っていて、分かっていて、きちんとした説明をしてくれそうな人のところへ行くでしょう。「ああ。その話なら〇〇大学の〇〇先生に聞いてください」ということになって、産業用ロボットの権威である先生は誰なのか分かるわけです。
(ここまで省略可)
 産業用ロボットや播州地方の郷土史について少しは知っている人ならば、そのテーマで話している人の話を聞いて、この人はちゃんとしたことを言っているのか、それともいい加減なつけ焼き刃の知識や技能しかない、しどろもどろのことを言っているのか、ある程度判断することができると思います。
 
 イエス様は、神の国や福音や神様のことについてお教えになったけれどもそれは、そういうものの権威であったという言い方ができると思います。
 カファルナウムで会堂に集まってイエス様の話を聞く人々はほとんどがユダヤ人で、しかも宗教心ある人々でしょうから、イエス様のお話の“程度”が、各人それなりに吟味できただろうと思います。
 将棋を指す人が、巧い人の将棋を観戦していて、自分はそういう手は指せないにしても、巧い人が「巧いということ」は分かるみたいなものですね。

 それに、これまで触れたことがありませんでしたが、ルカの2:41に、少年時代、12歳のイエスがエルサレムの神殿で、学者たちと議論をして、それを聞いていた人々は皆、イエスの受け答えに驚いていた、という出来事が記されています。
(2:46~47)
 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。

 その学者たちは、首都エルサレムでやって来たプロの学者たちです。少年イエスは喩えて言えば、数学の得意な子どもが、小学生に時から微分積分、いやそれ以上を完璧にマスターしてしまっているようなものでしょう。
 そういう物語の布石をルカは先にちゃんと記しておいて、今朝の箇所で、イエス様が教えについて権威であったことを言っていると言えると思います。

 また、さらに日本語で権威という言葉を調べますと、「他のものを押さえて服従させる威力」という説明が出ておりました。これは「新明解国語辞典」という辞典に載っているもので、「権威」という言葉についての解説の実は1番目がそう言う説明です。
 もっと権威がある国語辞典と言われる「広辞苑」においても、1番目の、「権威」という言葉への説明はそれです。「他人を強制し服従させる威力。人に承認と服従の義務を要求する精神的、法的威力」と記されております。
 ロボット工学の権威、播州地方の郷土史の権威という方の意味は、広辞苑でも第2番目の説明として、「その道で第一人者として認められている人」という風に解説されているわけです。

 新約聖書で使われている「権威」という言葉の、元のギリシャ語であるエクスーシアの意味を、「Theological Dictionary of the New Testamant」(新約聖書神学辞典、監修者キッテルという人の名を取って、通称キッテル)という辞書がありまして、それが神学辞典の権威だというわけで、読んで学んでみました。
 紙にすればエクスーシアの項目だけで10何ページにもなるものです。それで、そのキッテルのさらに「濃縮版」というのがあって、私はそちらを読みました。エッセンスをぎゅっと濃縮しているわけですがそれでもA4に小さい字で3、4ページあるわけです。エクスーシアが、聖書以外の昔のギリシャ語の文献のなかではどういう風に使われているかから始まって、旧約聖書のギリシャ語訳においての使い方、ある時期のユダヤ教の文献における使い方、そして新約における使い方が解説されております。

 読んでみて、日本語の権威という言葉と非常に重なり合う言葉だなと確認しましたが、大きな違いがありまして、それは、聖書における権威、エクスーシアは、「神様」とか「神的な存在」ということが、その力の源泉となるものとしてある、という意識が常にあるということです。
 日本語で「権威」と言えば、それは単にそれだけで“偉い”というか、何故かは分からないけれども「威力のあるもの」で「第一人者」なんしょうけれども、
 聖書の世界において、エクスーシアは、神様や、それにまつわるもの、類するものが源泉にあるから、そこにその権威というものがあるのだ。そういうコンセプト、概念であることが分かります。
 キッテルの「新約聖書におけるエクスーシアのコンセプト」という項目を読みますと、
 エクスーシアの意味するところの第1として、「全ての力(パワー)や、物事の道理の源泉は神様である」と言っておいて、その「神様だけに固有の(プロパーの)活動というものが、絶対的に実現するその実現性(ポシビリティ)のことをエクスーシアというのだ」と記されておりました。
 2番目に、「神のエクスーシア(権威)は、自然界において見られる」「自然の力は神からのものである」とありまして、その聖書のなかで使われている例として、黙示録14:18「火を支配するエクスーシア」、黙示録9:10「人間に害を与えるエクスーシア」などの例を挙げています。
 キッテルの解説の3番目は、「神様のご意志(will)は、サタンの支配する範囲を包括したものである」とあり、コロサイ1:13が参照されています。それは「天の父は私たちを暗闇のエクスーシアから救い出して天の国に入れて下さる」という箇所です。また、使徒言行録の26:18「彼らの目を開いて、闇から光に、サタンのエクスーシアから神に立ち返らせる」が挙げられています。
 そしてキッテルは、悪の問題について触れ、「悪に関する最後の秘密(ファイナル ミステリー)は、それ自体、力があるものだというより、にも関わらずこの敵の力は、神が実はそれを凌駕し、しのいでしまっているというところにある」と解説しております。そして、ルカ4:6にあるイエス様の荒野の誘惑で、サタンが「世界を治めるエクスーシアを自分が持っている」と主張した例を挙げています。
(省略可)
 そして4番目に、「キリストのご人格と働きにおけるエクスーシア(権威)は、それによって自由がもたらされるその自由と、共に働く力であり権限のことを指し示す」とまとめてくれています。そして続けて、「それは、宇宙的な、しかし一人の人の中に表れた力である。地上のイエスは限定された枠組みのなかであるけれどもそれを用いられ、それはたとえば罪を赦す、悪霊を追い出す、教えることなどであった。この力――エクスーシアのことですね――は天の御国が非常に近づいていることと不可分なのである」とまとめてくれています。
(ここまで省略)
 そういうこと全てを踏まえたエクスーシアという言葉でありまして、岩隈直(いわくま・なおし)という方の著した「新約ギリシヤ語辞典」という辞典ではエクスーシアを、1)ある事柄をする自由、権利、資格、2)能力、力、3)権威、権能、全権、4)支配権、主権、5)勢力範囲、管轄 6)権威・権力の所有者として(イ)地上の主権者、当局、官憲、(ロ)霊・天使の名称や階級などと記しています。

 ですから今朝の32節でイエス様の言葉には
 権威があった
 36節で、
 権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行く
 とあります時に、先ほど説明しましたような、岩隈の説明で言うならば自由、権利、資格、能力、支配権、勢力範囲といった全てのニュアンスを含んだエクスーシアというものであり、そんなエクスーシアを持つ言葉を発されるイエス様であることを思い描けばよろしいかと思います。
 口先だけの言葉ではないのです。宇宙的なまでの力です。実力があるのです。イエス様のお言葉は、本物の、本来的なエクスーシアを持っているそういうお言葉なのです。

 どうも今朝のお話しは、料理に喩えて言いますならば、大根とか牛肉とかにんじんとか素材をそのまま並べて、ざくっざくっと切っただけで、まだちゃんと料理しきったものをお出ししていないような感じで、申し訳ない感じが致しております。
 ただ、何時の料理であっても、ちゃんと牛肉が入ってますよ、野菜も新鮮で、鰹節を削るところからやって手間暇かけてますよ、ということでありたいと心がけていることをご理解頂きたくて、今朝だけはこういうお話しの仕方になったということでご容赦頂きたいと思います。
 脱線ついでに加えて申しますと、そういう学術的なものも含めてワードスタディというか聖書の学びをして、正しい言葉の解釈を求めて説教の準備をすることも大事ですし、それ以上に、祈り、神様との交わり、それは日常生活のなかでいろんな試練や体験もあってそのなかでまじめに信仰者として生きていく格闘の中からみことばへの体験的な理解が生まれ、説教が生まれるようでありたいと願っています。
 そのようにして、皆さんの信仰生活の役に立つみことばの営みを、ご一緒にさせて頂いているということになると信じるからです。
 さらに祈りと信仰のあるメッセージができますようにと、執り成しのお祈りに覚えて頂ければ幸いです。

 さて、もとのお話しに戻ります。
 ルカ4:33から引き続いてお読みします(~37)。
 ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。
 「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」
 こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。
 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。

 これは、悪霊というものに「取り憑かれた」男からイエスがそれを追い出してやったという記事です。
 これもなかなか一筋縄で、「こういうことなんです」と言えないところです。
 何故なら、悪霊、もとの言葉でデーモンと書いているわけですが、それは目に見える物質的な存在ではないからです。
 ですから実際は、悪霊というものなど存在しない、それは単なるものの喩えであるという解釈をする人さえいます。
 また、悪霊と言いますとき一方では、昨今、「霊の闘い」ですとか、そういうことが日本の福音派の教会でもいわば言われまして、この21世紀においても、悪霊という目には見えないが存在しており、その悪い霊を積極的に追い出すというようなことがあるんだ、と言う人々もいるからです。右から左まで、非常に幅広い解釈があって、それらが皆、結構、センシティブなものを含んでいるわけです。
 ですから、単純に「これはこういうことです」と断言できない、また安易にしてはいけない事柄のように思うのです。
 しかし、みことばに記されていることで、大事なことの一つでしょうから、それを無視して避けて通るというわけにもいかないことかと思います。

 私自身は結論から申しますと、悪霊というものは、目には見えないけれども霊的な、悪の側の存在として存在していると個人的には思っております。そして、特殊なやり方を含めて人間を苦しめたり害することがあると思います。しかし、何でもかんでも悪いことは悪霊のせい、という風にも思いません。
 そして、福音書においてイエス様が悪霊を追い出すということをなさったのは、単なるものの喩えではなく、実際に独立した人格的な存在としての悪霊というものが人に着いているという現象もあって、それをその人から追い出すということをなさったのだと受けとめています。
 さて、40~42節に、
 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。
 悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。

 とも記されてています。
 病気ということと、悪霊ということに因果関係があるのか。病気の件と悪霊つきのは別ものとしてあったのか。この原文を読む限りでは判別が着かないように思います。
 当時の人々は病ということの背景に悪霊の働きを見たという文化的な解釈も成り立ちますし、ある人々は、他の箇所も参照しながら、「いつでも病が悪霊の影響によるということはない。しかし、明確に悪霊の働きによるものであることもある」という説の人々もいます。それはその人々の、21世紀における体験的事実にも基づいてそれを言うのでしょう。
 絶対にどの解釈が正しいと言い切ることは出来ないと思います。
 しかし、35-36節にありますように、イエス様が、
 「黙れ。この人から出て行け」
 とお叱りになったその言葉は、そういうこともできる権威(エクスーシア)と力があり、そのエクスーシアとは宇宙的なものであり、サタンの悪の領域を実は神様の方が取り囲んで、しのいでしまっているということを含んでいるようなそういうものである、ということが含まれている、いうことが言えるのではないかということ指摘しておきたいと思います。

 さて、ここで、イエス様は高い熱で苦しんでいるペテロの姑を癒してあげた。また、多くの人々に手を置いて癒してあげた。38節ですね(~40)。
 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。
 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。

 イエス様の優しいお気持ちが伝わってくる、美しい情景だと思います。
 しかしイエス様は、可愛そうに思って、優しいだけではない。
 小説家の遠藤周作について私はたくさん知っているわけではありませんが、遠藤のイエス観は、「イエスは優しくて、病や苦しんでいる人に一晩中でも寄り添ってくれた方ではあるけれども、実際に癒したり治したり助けたりはできない無力なお方であった」ということを言っていると思います。
 私は聖書を読んで、遠藤のようには思いません。
 イエス様は、実際に病をお癒しになることもできるお方であったし、悪霊を追い出すことの出来る方であったと信じております。
 そのことによって、イエス様の言葉は、またイエス様ご自身が、真の権威のある方だということが分かるからです。
 
 それにしても、40節を見ますと、イエス様は日暮れから始まって42節にありますように、一晩中、朝に到るまで癒しの業をして下さった。これをどのように思うか。お大変なことであられた。有り難いことであると思います。
 結びに、42節からお読みします(~44)。
 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。
 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」
 そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。

 カファルナウムの人たちはイエス様を自分たちの町に引き留めておこうと致しました。ナザレの町の人々が追い出し、殺そうとしたのとは逆の反応です。
 しかし、それは何故でしょうか?
 そんな病を癒したり、悪霊を追い出したり、自分たちが悩み苦しんでいる問題に“解決”を与えてくれる人としてイエス様が、自分たちのところにいてくれるというのは、たいへんに心強い、便利なことであると思ったからではなかったでしょうか?
 けれどもイエス様は、
 「私は、
 ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ
 」とおっしゃって、カファルナウムからいったん去って行かれます。
 そうでなければ、イエス様にとっては意味がないのです。といいますか、
 病が癒され悪霊が追い出されることを以て、人間の究極の幸せや救いであるとイエス様は思っておられない、ということかと思います。それをして下さることもできるし、して下さるけれども、それをイエス様は、私たちに与えて下さることの出来る一番大事なものとは思っておられない。
 しかし、その一番大事なものを私たちが求めるようになるように、イエス様は不思議な御業をも行われるということかと思います。

 大事なことは、神の国が、私たちのところにもう来ていて、その良い知らせを私たちは知ることが出来る。また、知らせなければならない。そのためにこそイエス様の言葉は、エクスーシアを持つものであったということです。
 ペテロも、そういうイエス様であることが分かり、だからこそ弟子として着いていくことになりました。
 私たちとも聖書のみことばを日々頂き、聖霊に導かれて神の国の福音を知らされながら知らせながら生きていきたく願います。