パンを取り、感謝の祈りを――あるいはイエスの最後の闘いを覚えて


(33分)

パンを取り、感謝の祈りを――あるいはイエスの最後の闘いを覚えて
(4月9日礼拝メッセージ)

聖書箇所 ルカによる福音書22章7節~20節

170409礼拝メッセージ

要 旨

 パームサンデーに民衆は、「ホサナ!ホサナ!」とイエス様を大歓迎します。ローマ帝国のくびきから解放してくれる指導者と、イエスを見ていたからです。
 宗教指導者たちはイエスが邪魔です。なぜならローマに取り入ってこそ、自分たちの地位は安泰だから。また、パリサイ人にとっては、イエスが自分たちのローマ転覆の戦略に同調せず、かえって心の狭い自分たちに悔い改めを迫ることが邪魔で仕方ない。
 それでローマのその筋に働きかけ、ローマの権限のもと、イエスを十字架による死刑に追いやります。
 しかしイエス様にとって、十字架の死は違う意味を持っていた。それは人類の罪のための身代わりの死であることを、何度もお話になった。木曜夜の最後の晩餐も、それを深くお教えになるものでした。
 「弟子たちと共に過越の食事をしたい」(14節)と仰れば、ルカの第一読者がすぐにピンと分かったのは、出エジプト記の過越の出来事です。
 出エ11章に記されているように、ユダヤ人を自由にすることを拒むエジプトを10番目の災いが襲います。家ごとに人が死ぬ。ただ、羊を殺して玄関の柱にその血を塗っておけば「過越し」があって人は死なない。
 その身代わりの、羊ならぬ実体がイエス様であり、神を神とせず自己中心に生き、悪事をなす人間の罪の赦しのために、身代わりとなって死んで下さったことを私たちは忘れてはならない。
 それで、イエス様の十字架で裂かれた肉だと思ってパンを食べ、血だと思って杯を頂く。食べるとはあまりにもシンプル。そのように神は救いを備えられた。

おはようございます。
すっかりと春めいてきました。

◆来週はイースター
もう来週はイースターです。
イースターはイエス様の復活を記念し、喜ぶ日でありますが、そのイエス様の復活、およみがえりの喜びの前に何があったかというと、イエス様の苦難があり、そして十字架におかかりになっての死があり、そして葬りがあったわけです。

◆毎週の日曜日も復活を記念
復活されたのは日曜日の早朝です。私たちは一年を通して、毎週日曜日に集まって礼拝を捧げます。それは、イエス様がよみがえられたことを覚えて、喜んで、神様に感謝し礼拝しているわけですね。私たちは毎週毎週、日曜日に礼拝をして、イエス様のおよみがえりを感謝しています。そして、特に年に一度、イースター、復活祭を覚えるわけです。

◆イースター1週間前のパームサンデー
さて、イースターに到る一週間の間に何があったかというと、一週間前の日曜日(今日に当たる日ですね)にイエス様は、首都エルサレムに堂々と入城なさいました(入城の「じょう」というのは「しろ」と書く方の城です)。イエス様は子ロバに乗って、弟子たちは従って行く。その時に、群衆も沿道に立ち並んで、自分たちの上着を脱いで道に敷き、シュロの葉を振って「ホサナ、ホサナ!」と叫んで歓迎します(ルカによる福音書の19章35節だとかヨハネ12:12に書かれている通りです)。
ですから、この日曜日は、しゅろ、パームの日曜日だと言うことでパームサンデーと呼ばれています。
今日は、パームサンデーと言うことになります。

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◆イエス様のイースターへの最後の対決
それから後の一週間のなかでイエス様は、エルサレムにおいて、最後の対決をなさることになります。
それは直接的には、時の宗教指導者たちとぶつかることになったわけですね。

◆対決のテーマ
何がどのようにぶつかることになったか。非常に簡単にいいますと、
何が本当の救いで、人々はどうやって救われるか。また、どういう人が、誰が本当の救い主なのか、というテーマを巡ってぶつかったことになります。

◆民衆が望んでいるのはローマからの独立
当時、ユダヤ人の多くの民衆が待ち望んでいるのは、ローマ帝国の支配からの解放してくれる、そういう救い主、メシアでした。自分たちを属国として支配する憎きローマをやっつけて、再び独立を果たし、かつてのソロモン王の時代のような繁栄をもたらしてくれる指導者を待っていました。それこそが救いで、そうすれば自分たちの人生も幸せなものになると思っていました。

◆イエスを危険視し邪魔者とする宗教指導者
ユダヤ人の宗教指導者たちにとってはどうでしょうか?
大ざっぱに言って、さっき申し上げたような意味での、ローマ帝国からの解放者は、自分たちにとって都合が悪いのです。なぜならば、自分たちの階層は、先代、先々代の時からローマ帝国に取り入って、今の自分の立場を得ているからです。

◆ローマあっての地位と安泰
ローマ帝国の支配下に取り入っているからこそ、秩序が保たれており、自分たちの地位も安泰である。それをひっくり返すような人物が出てくると困るわけです。

◆敵をも愛せよと言うイエスは邪魔
あるいはパリサイ人たちなどは、自分たちのやり方に民衆がついてくればローマに抵抗してひっくり返せると思っている。しかしイエスはその自分たちのやり方を認めない。かえって、自己中心的な、独り善がりな心を入れ替えて、真の意味で神様に立ち返って悔い改めるように、また敵をも愛するべきだ、とイエスが主張するわけですから、イエスが邪魔なわけです。
イエス様は民衆に人気があり、「ホサナ、ホサナ」と支持されておりましたから宗教指導者たちにとって、対ローマ対策という点で危ない人物だということになる。あるいは、将来においてローマと一線を構えるのに、戦略上、邪魔な人物なので、何とか排撃してしまいたいということになったわけです。

◆ついに十字架にまで
それで、イエス様が公の活動を始められて以来、イエス様を丸め込もうとしてみたり、また脅しをかけたりしてきた。そのことがついには、イエス様を十字架にまで追いやる動機となっていったわけです。

◆イエス様ご自身のお考えは?
イエス様ご自身のお考えはどうだったでしょうか。イエス様は、ユダヤ民族の一員としてお生まれになり、ご自分の民族を深く愛しておられたけれども、武力などによる、また政治的な、ローマ帝国からの解放を以て、それが救いになるとは思わなかったし、またそれを、ご自分の使命とは思われなかった。いや、ご自分をお遣わしにになった父なる神様からの使命とは思わなかった。

◆一人一人の魂の深いところでの悔い改め
イエス様が願っておられるのは、人々の、一人一人の魂の、心の深いところで、まことの父なる神様を神様として認め、お従いする生き方に変わること、方向転換をすることでした。
そして、ユダヤ人だけではなく、全ての民族、国々の人々が、人類にいのちを与えた父なる神様を認め、お従いする。そういう悔い改め、心の方向転換をして、生き方が変わることを求め、
ユダヤ人にはまず、自分たちがそういう悔い改めをして、その生き方を以て良いお手本を示し、他の人々に影響を及ぼして欲しいと求められたわけです。

◆ホサナ!ホサナ!と叫びはしても
そのイエス様のメッセージをお受け止めして、だんだんと分かった人、信じた人もあった。しかし、分からない、勘違いしている人も多かった。
ですから、ホザナホザナとお迎えする時に、イエス様のお心が分かって、自分の心が、神様のみこころを喜ぶ生き方に変えられることを求め、またそのことを喜んで「ホサナ」と叫んでいる人もいるし、
そのことは分からないで、政治的なリーダーとしての期待を以て「ホサナ」と叫んでいる人もあり、また、訳も分からずに、周りの人が叫んでいるからただ単に一緒になって「ホサナ」を叫んでいる人もいたわけであります。

◆ローマ帝国と結託してイエスを十字架に
宗教指導者たちのなかでも、ニコデモのように、そのイエス様のお心をどうやら深く分かって、密かにであってもイエス様を信じお従いする心を持つようになった人々も少ないながらあったようですが、多くは、そういうイエス様のおこころが分からなかった。いや、分かろうとはしなかった。
そして、民衆に大歓迎されているイエス様を、除き去るべき邪魔な存在と見ているわけです。そして彼らのとった手段は、ローマ帝国のその筋に働きかけて、その権限の元に、イエス様が十字架の刑を受けて死刑になるように持っていくことでした。

◆イエス様ご自身による十字架の意味――あがない
しかし、イエス様にとっては、そのような経緯でご自分が十字架にかけられることになり、お死にになることは、もっと違う、深い意味を持っていた。

それは購い、身代わりの死、ということであります。イエス様はご生涯を通してずっと、そのことをいろんなかたちで、言い方でお教えになりました。
そして今朝のメッセージの部分は、そのことをご生涯の最後にお教えになった場面であります。
そして、それは、こんにち聖餐式として知られる「かたち」を通して、私たちが体験し、自分のものとして味わって、自分のこととして頂いていくことの出発点、根拠となった出来事なのです。
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◆2階座敷での聖餐式
先ほどお読み頂いた、ルカ22:14。
この場面は木曜日の出来事です。
場所はエルサレムの街の中にある家の、二階の広間、二階座敷です。22:12に「席の整った二階の広間」と記されている通りです。
では14節をもういいちどお読み致します。

◆十字架の前の過ぎ越の食事を
時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。
 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。

苦しみを受ける前に、と記されています。
これはイエス様は、ご自分が十字架につけられて殺されることをあらかじめご存知で、そうおっしゃったのです。十字架のお苦しみの前に弟子たちと一緒に過ぎ越の食事をしたいと、切に願っていた、というのです。
過ぎ越の食事といいますのは、過ぎ越の祭というものがありまして、その食事を家ごとにとること自体が大事な祭なのです。そのために1週間ほどかけて入念に準備がなされ、また付属する他の行事もあるわけです。
エルサレムの町中が過ぎ越の祭の雰囲気に包まれるわけですが、イエス様も、その時をエルサレムで迎えることができるようにと、向かって来られたのでした。

◆過ぎ越の祭とは――出エジプトの感謝の記念
過ぎ越の祭はユダヤ人にとって非常に大切な年間行事です。自分たちの民族の存在そのものを確認するような厳粛な大切な行事であったのです。
これはそもそも、モーセに率いられてエジプトを脱出した、主エジプトのことを記念して行う行事です。
家族や親族が家に集まりまして、過ぎ越の食事ということを一緒にするわけですね。

◆エジプト脱出を願ったユダヤの民
このイエス様の時代からさらに1200年以上前のこと、ユダヤ人たちはエジプトの地に奴隷として住んでおりました。そして、エジプト人の王から重労働を課せられ大変に苦しんでおりました。
それで、自分たちが解放されて自由になることを願い求めた。そこにモーセという人物を、神様が出エジプト、エジプト脱出の指導者としてお送りになりました。
モーセは、イスラエルの民を指導し、エジプトの王と交渉して、イスラエルの民をエジプトの地から脱出させ、約束の地に導きます。

◆何回も妨害された出エジプト
その時に、エジプトの王は何回も何回もイスラエルの民が出て行くことを拒みます。その度に神様は災いを送ります。エジプトの地にイナゴの大群を送って農作物を食べ尽くしてしまうとか、
ナイル川の水が赤くなって飲めなくなるとか、かえるが異常発生して家々に入り込んで苦しめられるとか、
疫病が起こって馬や牛、らくだといった家畜が死ぬとか、巨大な雹が降るといった9つのわざわいを起こされる。
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◆エジプトを襲った10番目の災い
それでもエジプト王、ファラオは心が頑ななままで、イスラエル人を自由にすることを許しません。
最後に、10番目の災いがエジプトに送られることになります。
その10番目の災いの時に起こったのが「過ぎ越し」という出来事になります。

◆エジプトを襲う死の災いの予告
出エジプト記の11章、12章あたりに記されていることですが、まずモーセは、エジプトの王、ファラオに通告しました。11:4ですね。

モーセは言った。「主はこう言われた。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。
 そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ。
 大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない。』
 しかし、イスラエルの人々に対しては、犬ですら、人に向かっても家畜に向かっても、うなり声を立てません。あなたたちはこれによって、主がエジプトとイスラエルを区別しておられることを知るでしょう。
 あなたの家臣はすべてわたしのもとに下って来て、『あなたもあなたに従っている民も皆、出て行ってください』とひれ伏し頼むでしょう。その後で、わたしは出て行きます。」

エジプトの国じゅうの長男が、王様から奴隷階級、また家畜に到るまで、超自然的な神様からの手段によって死んでしまう。しかしイスラエル人の間においては人が死ぬことがない、ということをモーセは王に向かって予告したわけです。そして、実際にそのようになった。
また、イスラエル人が死ぬことなく救われるために、過ぎ越しという手段を神様が定め、前もってお知らせになったんですね。

◆死の災いからの救いのための「過ぎ越し」の予告
そこを読んで見たいと思います。12:21

 モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。
「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。
 そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。
 主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。

家ごとに羊を、神様に向かって犠牲として殺して捧げる。そして、その羊の血を鉢に取り、その血を、家の入り口の鴨居と二本の柱に塗る。そうすると

 主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがない
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◆実際に起こった死と「過ぎ越し」
という約束を神様がして下さり、実際にそのようになったことが記されているのが29節ですね。

 真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、
 ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。
 ファラオは、モーセとアロンを夜のうちに呼び出して言った。「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。
 羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい。」
 エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。

◆過ぎ越の出来事を思い出すための過ぎ越の祭
その時に、イスラエル人たちは過ぎ越を行った故に、誰も死ぬものがなかった、助け出されたのですね。
その時の出ことが、出エジプト記に記され、またその出来事を子々孫々までも覚えて決して忘れることがないように、そしてそれをして下さった神様を忘れてしまうことがないようにと、「過ぎ越の祭」というものの規定を定められ、その内容も出エジプト記などに記されているわけです。

◆血を流した犠牲の羊を覚える
ですから過ぎ越の祭は、そもそもは、各家ごとに羊を犠牲として殺して捧げたということであったのが変化して、
羊についてはすねの骨の部分だけ使うとか、あるいは血の代わりに葡萄酒であるとか、種入れぬパンであるとか、また他の食べ物を使って、それを、決まった形式に従って食事を進めていくというやり方で過ぎ越の祭を行うようになっていたわけです。
しかし、その意味あいとしては、出エジプトの時の過ぎ越を忘れない。ずっと記憶して子どもたちにお話しをする、ということが祭の中でなされ続け、今日でも、ユダヤ人たちは過ぎ越の祭を行っているわけです。
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◆過ぎ越を受け継いでの聖餐式――真の犠牲はイエス様
そして今朝の聖書箇所においてイエス様は、ご自分の十字架と、その死による罪の赦し、人類の真の解放ということを、出エジプト、過ぎ越に重ね合わせて弟子たちにお伝えになった。それを今日、私たちも受け継いで守っているのが聖餐式なのです。

◆過ぎ越の感謝を代々語り伝える祭
過ぎ越の祭の中では子どもたちがお父さんに祭に由来を尋ねるんですね。
そうするとお父さんは、小羊が身代わりになって死んだので、私たちユダヤ人の家族のいのちは救われたのだよ、ということを毎年毎年語り継ぎます。

◆ルカの第1読者は「過ぎ越し」と言えば分かった
イエス様は過ぎ越の祭をここで祝われたとき、
その身代わりの羊のことと重ね合わせながら、ご自分こそ、真の意味で、全ての人類にとって、永遠の死、滅びから救われるための身代わりの羊、犠牲の捧げ物なのだよということを、弟子たちにお語りになったのですね。

ルカによる福音書がこのようなかたちで「イエス様が弟子たちと過ぎ越をお守りになった」と書いてあれば、読者はそういうことがちゃんと分かったわけです。そういう旧約聖書の背景を良く知っていたり、そういう習慣を守って生きている人々や、そういうことに興味を持っている人々が最初の読者だったわけですから。

◆過ぎ越を行わなければユダヤ人でも救われなかった?!
ここで大事なことを考えてみましょう。
過ぎ越の時に神様が、羊を殺してその血を家の入り口に塗っておけば、過ぎ越があって死ぬことはないよ、と教えられていたとしても、
「へん。そんなことあるもんか」「そんなこと馬鹿馬鹿しい」「信じられない」と思って、実際にその通りにしなければ、たとえ民族的にユダヤ人であったとしても死ぬことになったわけです。
イエス様の十字架の場合も全く同じことです。

◆信じて受け入れることが大切
イエス様が十字架にかかって血を流して死んでくださったのは、私たちの、私の罪のための身代わりなのですよ、といくら教えられても、そのことを自分自身が信じ、感謝して受け入れるのでなければ、救いは自分のものになりませんね。
いや、逆の言い方をしましょう。誰でも、イエス様の十字架の死というものが、私の罪のため、自分中心で、父なる神様のことなんて感謝もしない、隣り人への愛なんてないような生き方を赦して下さって、方向転換できるようにして下さるために備えて下さったものなのだ、と信じるなら神様からの救いが頂けるのですね。

◆犠牲の羊のように殺されるイエス様を忘れないためのパン
そのことを思いながらルカ22:19~20をもう一度お読みしましょう。

それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」

パンは、殺された羊ならぬ、イエス様ご自身の体を表しています。
「わたしの記念として」の「記念として」という言葉は、何かや誰かのことを覚えているための方法として、という意味です。
イエス様が、私たちの自己中心的な生き方の罪の身代わりとして十字架にかかって死んでくださったことを忘れないで、覚えているために、そのパンをイエス様ご自身の肉だと思って食べなさいと言うのです。

◆身代わりに流して下さった血を覚える杯
そして20節。
食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。
杯は、葡萄酒や葡萄液の入った杯ですね。

羊ならぬ、神の子のイエス様が、ご自分が十字架の上で、血を流して死んでくださって、私たちの罪の身代わりになって下さったことを忘れないように、子々孫々にわたって覚えているように。
そのためにイエス様は、使徒たちに、杯をとって、そして、イエス様の犠牲の死を思い出して飲みなさい、と命じられたのです。

◆食べることは誰でも分かる!
私たちは、イエスさまの十字架による身代わりについて教えてもらってそれを聞き、信じるようになっています。そして信じて、私は父なる神様に赦されて、受け入れられて生きていることを信じ実感しています。
しかし時として、本当に自分は、ちゃんとした信じ方をしているんだろうか? 本当に受け入れられているんだろうか?と変に突き詰めて考えてしまうことがあります。

◆シンプルな救いの根拠を示して下さった
真面目な人であればあるほど、そうなることが多いかも知れません。
しかしイエス様は、パンを「食べる」、杯を「飲む」という方法でイエス様による救いへの信仰を確認する方法を、聖餐式として定めて下さったのです。

食べることは誰でも分かります。
食べるって何? 食べるってどうやるの?といって分からない人は、世界中捜しても誰もいないでしょう。
それくらいシンプルなことなんです。イエス様の十字架による救いを信じることは。そのことを教えるために、イエス様は聖餐式を定められました。

◆神様の側の備えの確かさに信頼しておゆだねする
自分の信仰はあやふやだと思っても、いいかげんだと思っても、「いや、私はイエス様の肉を食べたんだ。だから赦されているんだ」「イエス様の血を飲んだんだ。だから救われているんだ」ということをしっかりと心に受けとめて、神様の方がそう定めて下さったのだから安心していよう。そうですね神様と祈って、更にそうであるように導いて下さい。私の信仰と生き方を導いていて下さいとお委ねすればよいのです。
私たちも、イエス様が教えて下さったように、

過ぎ越の、また聖餐式の「パンを取り、感謝を」ささげる者たちなのです。
お祈り致しましょう。
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