イエスと一緒の宴(うたげ)


(30分)

イエスと一緒の宴(うたげ)
(4月23日礼拝メッセージ)

聖書箇所 ルカによる福音書5章27節~39節

おはようございます。
桜の花の盛りもすっかり過ぎてしまいました。
皆さんは、桜の花の下で花見は楽しまれましたか?

要 旨

 宴会は喜び楽しむために開かれる。
 レビ(マタイ)が開いた「イエスのための宴会」は正にそういうものであった。
 レビはなぜ喜んだか? それは自分が、イエスの弟子とされたからだ。
 レビは徴税人だった。それは人々から半端なく忌み嫌われる立場であった。ローマ帝国の手先となって、同胞から税金を徴収するだけでなく、強欲に私腹を肥やすのが徴税人だったからである。

 同じ町(カファルナウム)の住民としてレビは、大自然を相手に腕一本で生きる漁師のペテロがイエスの弟子となった(5:1)事件に、深く思うところがあった。また癒された中風の男(:17)が、喜びで顔を輝かせ、神を賛美しながら歩くのを目撃しただろう。
 そして、内心うらやましかったに違いない。「自分は病気こそしていない。しかし、本心でこう生きたいと願うように生きられず、人々に憎まれる生き方しかできない。イエス様に着いていけば、自分の人生だって変わるのではないか」。

 ペテロや中風の男のことの「後で」、イエスはレビを訪ねて来た。「友情や、助けになりたいという意向をベースに、会いに来てくださった」のである。
 「私に従いなさい」という単刀直入なオファーに、レビはイエスとこたえ、喜びを人々と分かち合うために宴会を開いた。イエス様はしばしば、神の国を宴会に喩えた。罪を赦し、人生を変革し続けて下さるイエス様が共におられれば、楽しい宴会の人生である(詩23:5)。

◆花見を楽しみましたか?
冬から抜け出して、温かい気候の中で、
きれいに咲き誇る花を見ながら、一緒に食事をしたり楽しんだりするのは、心を陽気にしてくれますね。

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さて、今朝のメッセージは、昨年11月までお話ししておりました続きの、ルカのシリーズに戻りました。
そして、今日の箇所はお花見ならぬ宴会がその場面です。

◆宴会は楽しむためにある
悲しんだり怒ったりすることを目的にして宴会を開く人はいません。
大いに喜び、楽しみたいと思って開くのが宴会です。
結婚披露宴なんかは正に披露「宴会」でありまして、
喜ばしいこと、嬉しいこと、素晴らしいことの喜びを、参加者と一緒に分かち合いたい。一緒に喜び楽しんで欲しいと思って開くわけです。
宴会、うたげは楽しみや喜びのための場所です。

◆イエスのために開かれた盛大な宴会
さて、今朝お読み頂いたのは、29節にありますように、「イエス様のために開かれた盛大な宴会」にまつわる話です。
もう一度27節から32節までお読みします。

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 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。
 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。
 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

◆宴会の出席者確認
 この宴会に出席した人々は喜び楽しんだでしょうか? その前に、この宴会に出ていたのは誰だか確認してみましょう。
 イエスのために盛大な宴会を催したのですから、主賓のイエス様は当然、出席者です。
 また、お弟子さんたちも一緒に出席していたことでしょう。
 そして、宴会の主催者ですね。27節に出てくるレビという名前の、徴税人をしてきた男が自分の家で宴会を催しました。ですからレビも、出席者です。
 そして29節にあるように、
 そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。

というわけです。レビさん以外の徴税人たちや、ほかの人々が大勢出席しているわけですね
さらに、30節に出てくる
 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たち

も、この宴会に同席していたんだ、という説もあるし、いやいや出席していなくって、宴会の済んだ後のある時に別の場所で、イエスの弟子たちに向かって文句を言ったんだという説もあるようです。

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◆この宴会は楽しかったか?
さて、この宴会は楽しいものだったか、出席者たちは喜び楽しんだか?
「盛大な宴会」ですから、食べ物や飲み物もふんだんに出たでしょう。心を陽気にするような音楽や踊りも出たことだと思います。
しかし、盛大なご馳走を食べたって、一緒に宴を共にしている顔ぶれで、楽しさも違ってくるかも知れません。
楽しいはずの宴席でも、たとえば結婚式の披露宴で一緒になった親戚が、過去のいざこざのことを言い出して、口論になったりしたらどうでしょう。
あるいは、「あなたの暮らしぶりはだらしない」とか、お説教されてしまったりしたら・・・。楽しいはずの宴席も、嫌な場になって帰って来なければならなりません。

◆ニコニコと楽しむイエス様
イエス様と一緒の宴会は楽しかったでしょうか? また、イエス様は楽しまれたでしょうか?
私は、イエス様も楽しまれ、主催者のレビも嬉しく楽しかったんじゃないかなぁと思います。
想像してみて下さい。
イエス様が大らかに、にこにこしてらっしゃって、
語り合ったり、一緒に歌を歌ったり、おどったりもして楽しんでらっしゃる。その無邪気さを見ていると、一緒にいて、みんなが何と言うかとっても嬉しい楽しい気分になっている。そんな風に思われてならないのです。

◆しらけきった宴会になった可能性
この宴会が、しらっとしらけきった宴会になってしまう可能性は十分あったと思います。また、そもそも、この宴会自体が開かれない可能性だってあったと思うのです。

◆宴会が開かれた経緯
この宴会が開かれることになった経緯や目的を見てみましょう。
宴会が開かれることになった経緯はまず、イエス様がレビという人をリクルートした、招きのことばをかけたことに始まっています。招きというのは「わたしに従いなさい」と仰ったんですね。
それをレビは受け入れて、「そして、自分の家で盛大な宴会を催した」ということになったのです。

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◆それはイエス様の招きに始まった
イエス様が声をかけなきゃ何も起こらなかったし、またレビが前向きに応えなければ、ここに書かれているような展開にはならなかった。

イエス様が
「わたしに従いなさい」
と仰った、「従う」という言葉は、「行くべき方向や道筋を決意していて、そこに導いていくその人に従う、連れ添う」という意味を持った言葉です。イエスという人物が、「こういう風に行くんだ!」と決意した確固たる方針があるわけです。

◆イエス様の決意する方向に従うか
それに連れ添いますか、従いますか? そうして欲しい、そうしてくれますか?という提案を、命令形という非常に強いことばでイエス様はガツンと言ったわけです。もちろんそれを拒むことだってできたわけです。
しかしレビは28節にあるように
 何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った
のです。

◆レビは大変な決断をした
これはいろんな意味で、かなり大変な決断であったことと思います。
といいますのが、「何もかも捨てて」とあります中に、経済的に非常に豊かであったこと、そういう楽な生活、ライフスタイルも含まれていただろうからです。

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◆レビ=十二使徒のマタイ
ここで出てくるレビという人物は、実は十二使徒の一人、マタイのことなのです。それはマタイ9:9に、同じ出来事を記した記事があるとおりです。
お読みしてみます。マタイ9:9。
 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。

◆人生をかけてイエスに従いきったレビ(マタイ)
 このマタイという名前は、ペテロが元々シモンという名前だったところを、イエス様からペテロ(あるいはケファとも訳されていますが)と名付けられたのと同じように、
 レビも、マタイという新しい名前をイエス様から頂いたのだと言われます。
 レビは、「わたしに従いなさい」と言われて、それから人生の最後まで、イエス様の弟子として、使徒として生ききりました。そして、マタイの福音書を著すという役割をも果たしたのです。

◆徴税人として裕福だったレビ
レビ、またの名をマタイが、出身が徴税人であったのにイエスに従ったというのはなかなか大変なことでした。
まず、先ほどレビは大変経済的に恵まれていた、裕福だっただろう、ということを言いました。
なぜレビが裕福になったか。それは、職業が徴税人だったからです。徴税人というのは、ローマ帝国のために税金を集める役割です。

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◆ユダヤ人の同胞に売国奴と思われたレビ
実はそれだけでも、ユダヤ人である同胞たちから軽蔑され憎まれる立場です。なぜならば、ユダヤ人であるならば、ローマからの解放を望んでいるはずなのに、あろうことか徴税人らは、ユダヤ人でありながら、いや、ユダヤ人である立場を利用して、ローマの手先となっているわけですからです。

◆私腹を肥やし憎まれていたレビ
それだけではありません。徴税人は、ローマに収めるべき分を収めさえすれば、人々から税を集める際に、決まった金額以上に、強欲に上乗せして、いくらでも私腹を肥やすことができました。ローマの絶大な権力を笠に着てそれをやったわけです。
そうやって裕福になることができるです。
だからこそ、人々の軽蔑や憎しみを受ける代償を払ってでも徴税人になったのだ、と言えるかも知れません。

◆レビという皮肉な名前
その点レビというのは全く皮肉な名前だと思います。
ユダヤ人たちが神殿で神様にお仕えすることの、大事な役割の部分を代々取り仕切る祭司という人々がおりました。その祭司を補佐して、神殿のこと、そこでの礼拝のことに、これも代々携わっているレビ人という人々がおりました。
レビという名前はそこからつけられたのでしょうか。
代々、イスラエル民族の信じるの神様に特別にお仕えする家に生まれたのです。それなのに、ローマ帝国の手先とも言うべき徴税人になってしまっている。

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◆つきまとう屈折した感情
どうして、そうなってしまったのか。生きていくためには仕方がなかったのか。いろいろと深い事情があるのか。
徴税人のレビ、というときに、この人はレビのはずなのに徴税人なんかに、ということをいつもいつも感じてしまう、複雑で屈折した感情があったのではないでしょうか。

◆絶妙のタイミングでのリクルート
イエス様は、そのレビにあえて、「私に従いなさい」と声をお掛けになりました。
この声をお掛けになったタイミングは、いろいろとお考えのあるものであったような感じが致します。
といいますのが、27節の冒頭が、
 その後、

と書かれてから、この、レビのリクルートと宴会の話が記されているからです。

◆ことの順番を間違わなかったイエス
「その後」というのは、元の言葉では、「そして、これらの後で」と書かれているのです。ことの順番が意識されているのです。
これらの後で、の「これら」って何でしょう。
先ずは直前の記事に書かれた内容のはずです。
これは11月の礼拝でお話しさせていただきました。

◆直前の出来事=中風の男の癒し
中風で寝たきりの人が、床に寝かせたままイエス様の前に運ばれてきて、イエス様はその人に「あなたの罪は赦された」と仰った。
ファリサイ人や律法学者たちは「それは神への冒涜だ」とぶつぶつ言った。イエス様は「人の子が地上で罪を赦す権威(エクスーシア)があることを証明するために」と言って、「起き上がり、床を担いで家に帰れ」と言われた。そうするとその人は起き上がって癒された。そういう出来事でした。

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◆イエスの使命感と、それをする実力が明確に
イエス様にとっては、罪を赦すことこそ大事だし、それをしてやりたい。
そしてイエス様は中風の人に対して赦しの宣言をなさった。けれども赦しは目には見えませんから、目に見えるしるしとして、中風が治って立ち上がることができるようにされた、そういう出来事です。
イエス様が何をなさりたいか。また、それをなさるために、机上の空論ではない、力のあるお方であることが遺憾なく示された場面です。

◆レビはこの目で「驚くべきこと」を見た
レビはイエス様が来られる前に、すでにその出来事を知っていたわけです。
単に知識として知っているのではなく、27節の直前の25、26節を見て下さい。
 その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。
 人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

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 このことが起こったのは、レビが住んで、徴税人をしていた同じカファルナウムでのことなのです。ですから、中風で寝たきりだった男が自分の足で立ち上がって、嬉々として、神を賛美しながら歩いているのを、レビはその目で見たのではないでしょうか。その輝くように嬉しそうな笑顔をこの目で見たのではないでしょうか。
 また民衆が、神を賛美し、「今日は驚くべきことを見た」と口々に言い合うその中にレビその人もいたのではないでしょうか?
 そしてレビはそうしながら、心底うらやましかったのではないでしょうか?

◆癒された男が心底うらやましかったレビ
自分は中風のような病気こそしていない。しかし、自分は本当はこんな風に生きたい、生きるべきだと思っているように生きられない。人々に憎まれ恨まれる生き方しかできない。そこからの脱出なんて思いもよらず、しがらみや環境に捕らわれきってしまって、惰性で生きている。

◆漁師のペテロの召命に対し感じるところ
またレビの耳には、5章1節から記されている、ペテロがイエス様の弟子になった出来事も入っていたでしょう。
これは8月の礼拝で、「人間をとる漁師」という題でお話しした場面ですね。
レビは、同じ町に住んでいるあの漁師が、身一つで、大自然を相手にして、自分の腕一本を信じて、おべっかなんて使う必要のない漁師が、ついにイエスの弟子になったことに感じるところがあったと思います。

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◆この方に着いていくなら!
イエス。ああ、こういう方なら、自分だって着いていく価値があるのではないか。人生を変えてもらうことができるのではないか。
そう思ったのではないでしょうか。あるいは、ひょっとしたら、レビの方からそれとなくサインをイエス様に送っていたのかも知れません。

◆私には声をかけてくれないのか?
イエス様は、私にも声をかけてくれないのか?
いややっぱり、自分なんてダメだ。
ユダヤ人でありながら、ローマの手先となり、私腹を肥やして人々に憎まれる人生を送ってきてしまった。しがらみに縛られて、人生を変えることなんて思いも寄らなくなってしまっている私なんて・・・。

しかし、そこへイエス様はお出で下さったのです。

◆狙いを定めて会いに来てくださったイエス
27節に、
 イエスは・・・レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、

とありますが、ここで「見る」と訳されている言葉は、
単に、ぱっとあるものを見たとか、偶然に見かけたということではなくて、実は、「友情であるとか、助けになりたいという意向をベースにして、その人に会いに行く」という意味の言葉が使われているのです。
狙いを定めて、レビのところにおいでになったのです。

◆イエスに従う表明をしたレビ
そして、単刀直入に、「わたしに従いなさい」と仰った。
レビは、すでに心を固めていたのでしょう。即座に、
何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った
のです。そして、
イエスのために盛大な宴会を催した。

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◆宴会をしたいほど嬉しかったレビ
宴会を開きたいほど、レビは嬉しかったのです。嬉しくて嬉しくて、この喜びを人々と一緒に分かちあいたかった。
その宴会に、これまで徴税人をしてきた仲間もやって来てくれました。レビは、この仲間にイエス様を合わせたかったのかも知れません。俺達にだって可能性があるんだ!違う人生を生きる可能性が、イエス様に着いていけばあるんだ。レビはそう言いたかったのかも知れません。

◆さすがのレビも変わるかも知れない
そして、「ほかの人々」も大勢!、この宴会に出席したのです。
この人々の思いはどんなだったでしょうか?
ご馳走に釣られて出席した、ということもあるかも知れません。

だけど、これまで私腹を肥やしていたレビが、「何もかも捨ててイエスに従う」と言い出すだなんて。
ペテロや中風の男の出来事が、カファルナウムの町で大評判になっている最中ですから、
「そうだ! イエス様に着いていくなら、さすがのあのレビも、本当に生き方が変わるかも知れない」。そういう期待感が人々の心を支配していたのかも知れません。
そして、我も我もと宴会にやって来た。

そして人々は、イエス様の笑顔を見て、一緒に楽しみ喜ばれる姿を見て、自分たちも嬉しく楽しくなったのではないでしょうか。

◆この宴会が気にくわない人々
しかし、この出来事が気にくわない人々がいました。中風の男の癒しの記事で21節に出てきたし、また30節にも登場するファリサイ派の人々や律法学者たちです。
30節後半を見てみましょう。
 「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」

◆罪人と同類という批判受けるリスクを冒したイエス
こういう批判が出ることをイエス様は重々ご承知だったことでしょう。
徴税人は当時、半端なく人々から忌み嫌われる人々でした。
食事を共にするような、親しくそんな人々と交わりを持つと言うことは、そういう連中と同類であると見なされることになる。そういうリスクを重々ご存知の上でイエス様は徴税人レビの開いた宴会に、喜んで参加なさったのです。

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◆自ら批判の矢面に立ったイエス
余談ながら、30節をよく見ると、ファイサイ派の人々や律法学者らは、イエス様に直接ではなく、イエスの弟子たちに文句を言ったんですね。それに対してイエス様はご自分が矢面に立たれました。

◆病人こそが医者を必要とする
そして、堂々とお答えになりました。31節。
 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

正にレビは罪人の類かも知れないが、そういう人をこそ私は招くために来たのだ。それは
医者のところに健康な人は行かないだろう? 行くのは病人だ。それと同じなのだ。病人だからこそ医者が必要なんだ。それは病気を治してもらうためだ。
それと同じように罪人と言われるような、また自分が罪人だと思う人々こそ私のところに来て欲しい。

◆人生を「治して」くださる名医
そして、名医が美事に病人を、病気の治ることに導くように、イエス様はマタイの人生を直し、正して、意味のある素晴らしい人生を生ききることができるように導いて下さったのです。

◆イエス様の処方箋
イエス様がレビの主催した宴会に参加されたことは、医者の喩えで言うならば、いわばレビを治すための処方箋、治療法だったのではないでしょうか?
「まずお前の生き方を改めてそれを見せる。1年間様子を見て、お前の生き方が良くなっていたら、お前と行動を共にするし、食事だって一緒にしよう」とはおっしゃらなかった。
イエス様は先ず、レビとの交わりを喜び楽しまれました。それこそがレビにとって、生き方が変わるプロセスに必要なことでした。

◆人間力のあるお方、イエス
そこにはいろんな人々が来たでしょう。
イエス様はどんな人とでも、くつろいで一緒に楽しむことがおできなったでしょう。

ペテロのような、荒くれ者をも束ねるベテランの漁師でさえ、イエス様と一緒にいることを喜び、イエス様が漁をしなさいと仰れば、「口先だけで、何を訳の分からんことを、この青白きうらなりびょうたんは言っとるんや」とは思わないで、「お言葉ですから網を降ろしてみましょう」と言わせるものがあるお方です。大変な魅力、人間力のあるお方です。

そういうお方がイエス様です。

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◆神の国の宴会に連なる私たち
私たちも今、イエス様をこの目で見ることはできませんが、イエス様がそういうお方であることに感謝して、イエス様にお頼りして進んで参りましょう。
イエス様はしばしば神の国を、宴会に喩えられました。
イエス様が一緒にいて下さることで、私たちは人生を生きることを喜び楽しむことができるのです。いわば、そういうイエス様がご一緒の宴会に私たちも連なる者たちなのです。お祈り致しましょう。