将来と希望を与える計画――没落しても回復できる

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(34分)

将来と希望を与える計画――没落しても回復できる
(5月14日礼拝メッセージ)

聖書箇所 エレミヤ書29章1節~14節

要 旨

 バビロン捕囚で連れ去られた人々に向かって、エレミヤがエルサレムから書いた手紙が29章である。
 捕囚の500年前にモーセが、申命記(28章、30章)で、まことの神に従い続ける場合の祝福と、逆らい続けた場合の裁きと、そこから真に悔い改めた場合の回復を予告していた。

 エレミヤ7章などにあるように、盗み、殺人、姦淫、また神殿に汚らわしい物を置き、また偶像に人身御供を捧げ、イスラエルの民の堕落は甚だしかった。
 しかし王や、民の大勢は根拠なき楽観論(捕囚からすぐに帰国できる)を語る偽預言者を信じた。裁きと悔い改めを迫るエレミヤは激しく弾圧された。しかしエレミヤの予告通り、偽預言者が死ぬなどを通し、彼の預言の信憑性が明らかになった。そうであればあるほど、民は落胆せざるを得ない。

 そんな民に届けられたのが29章である。
 「70年が満ちたら顧みがある」という預言だ。そして神は、「あなたたちのための計画をよく心に留めている…それは平和の計画で…将来と希望を与えるものだ」と語って下さっていると。
 この70年は、漠然と待つのではない。4節以下にあるように、異教の民と共に住む土地に根を下ろし、誠実に生きる。異教の隣人の平安のために祈るのだ。
 神を「今」尋ね求めるなら、神は出会って下さる(12節)と、忍耐して待ち望むために必要ないのちが与えられる神髄をも語った。それは天の故郷を望む私たちへのメッセージでもある。これこそ、子や孫に伝えるべき生き方である。

おはようございます。
すがすがしい新緑の季節となりましたがいかがお過ごしでしょうか?

(母の日についての言及)

Green Leaves
Green Leaves

◆イザヤ書43章の復習「私の目にはあなたは価高く貴い」
今朝はエレミヤ書をお読み頂きました。
11節に、
 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

 とあります。素晴らしいみことばです。
その背景を学び、私たちへの語りかけを聞き取りたいと思います。

3月の終わりの礼拝では、イザヤ書43章から学びました。
今朝の箇所は、そこから内容的に続いていくものになります。
イザヤ書43章では、
 わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し

というみことばから学びました。
週報に載せて頂いた説教要旨をお読みしてみます。

==引用==
入院時、不安な気持ちがよぎるようなとき、「一日の苦労は一日で十分である」といったみことばが心に示され、慰めや励ましを与えられた。
日頃のディボーションや、説教で接したみことばが、そういう試練の時に思い出されて助けになってくれるのだ。
入院していて、仕事はどうなるのか、社会的立場は失われないかと心配になる。そんな時「わたしの目にはあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛している」(43:4)とのみことばは助けとなる。たとえ、人には忘れ去られるようなことがあっても、神様の目には貴いと言って下さる。
元の言葉で見ると、「私(神様)の目の中であなたは高価であるということから、あなたは重んじられていることになっているのだ」という書き方がされています。なぜだか分からないけど重んじ「られてる」感のある状態になっている、というニュアンスなのである。
それを直接的に言われたのは、アブラハムの肉の子孫であるユダヤ人だ。しかしローマ4:11などに記された通り、キリストを通じて父なる神を信じ従う私たちも、信仰によるアブラハムの子孫であり、イザヤ43:4の見解をダイレクトに「私のこと」と受けとめて良い立場におり、その実感を持っている。
預言者は、信仰者が神のみこころを知り、従うように神の言葉を預かって伝えた者である。そこには耳の痛い言葉も含まれている。一方、神は信じる私たちをこんなに大事に、またひいきすらして下さるという励ましをも伝えて下さっているのである。
==以上==

以上です。

◆バビロン捕囚を背景に語られた「あなたを愛している」との励まし
ユダヤ人、あるいはイスラエル人たちが預言者イザヤを通して、
わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛している。

と語りかけられた背景は、
バビロン捕囚という出来事でした。
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ダビデ王やソロモン王という偉大な王の後、王国は2つに分裂しました。その後、北の王国では約200年の間、まことの神を畏れず、悪いことにばかりに走る王が立てられました。南の王国では、神を畏れる良い王と、そうではない悪い王が交互に位に着きました。

◆神と契約を結んだ民 バビロン捕囚の500年前に
イスラエルの人々は、ダビデ王のずっと前から、天地を創られたまことの神様と契約を結び、神様から次のように約束されておりました。
それは、まことの神様を愛し、神のみこころに従って、正しい歩みをするならば、国は守られ発展する。しかしそうではなく、神様に逆らい続けるならば、災いが臨みますよ、ということです。
そういった約束は申命記の28章あたりに詳しく記されています。

◆神に従えば祝福があるという約束
それは、ダビデやソロモンのさらに300年前、イスラエル人たちを約束の地に導き入れたモーセによって語られていた言葉です。

申命記28章を見てみましょう。1節です。
 もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。
 あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。
 あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。
 あなたの身から生まれる子も土地の実りも、家畜の産むもの、すなわち牛の子や羊の子も祝福され、
 籠もこね鉢も祝福される。

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Disk Brot und Broetchen IZ095

◆あなたのクルマも、お皿の1枚1枚まで祝福される
今風に言えば、あなたの家も、あなた職業も、あなたのクルマも、あなたの食卓に並ぶ食器、お皿の1枚1枚まで祝福されるといったところでしょう。

◆従わなかった場合の呪い
素晴らしい祝福の約束ですね。それに対して神様の御声に聞き従わなかった場合はどうなるか。15節。
 しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう。
 あなたは町にいても呪われ、野にいても呪われる。
 籠もこね鉢も呪われ、
 あなたの身から生まれる子も土地の実りも、牛の子も羊の子も呪われる。

そして更に36節。
 主は、あなたをあなたの立てた王と共に、あなたも先祖も知らない国に行かせられる。あなたはそこで、木や石で造られた他の神々に仕えるようになる。
 主があなたを追いやられるすべての民の間で、あなたは驚き、物笑いの種、嘲りの的となる。

◆裁きの一環としての「知らない」国への捕囚の予告
神様に逆らい続けるならば神様は、イスラエルの人々を、「あなたも先祖も知らない国に行かせられる」ということを語られたわけです。
そして、その約束から500年も経った後に、イザヤ書ですとか、エレミヤ書が記された時点では、そのようなことが実際に起こってしまったのです。
すなわち、バビロン捕囚です。

◆従い続ければ捕囚はなく祝福され続けたはず
バビロンという、モーセの時代にはまだなかった新しい国に、イスラエルの民が連れて行かれる、その500年も前に、神様はイスラエルの民にあらかじめ警告を与えておられたのでした。

では、そういうことになってしまわないためには、どうすれば良かったのでしょうか?
そうですね。まことの神様を愛し、従い続けて生きればよかったのです。そうすれば祝福を受け続けることができました。

◆世代が移る時に堕落していった民
しかし、世代が移り変わると、堕落して行ってしまいがちなのかも知れません。なぜかと言いますと、
初めの方の世代は、神様に寄りすがって、苦労して苦労して、人生の戦いの中で祝福を授かって行きました。しかし後の世代は、生まれながらに祝福を受けております。そうするとどうも、物質的な繁栄やら、自分の恵まれた立場やらを有り難いとも思わなかったり、鼻にかけるようになります。自分が祝福されて当たり前と感じるようになるわけです。

◆「祝福を受けて当たり前」と、神をないがしろにする
私たちは神様からの祝福の結果、こういう繁栄に与っているのだ、ということ自体を忘れて、あれが足りない、これが足りないと文句ばかりを言うようになるのかも知れません。
祝福を注いでいて下さる神様のことを、もうすっかり忘れてしまい、感謝もせず、神様に関することをまじめに思ったり取り組んだりすること自体が、面倒くさいというか、どうでもいいことになって行ってしまったのではないでしょうか。
それが何代も続くと、呪いを受けることになって行ってしまったわけです。
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◆人間の実態をよくご存知の神はあらかじめ警告を与えた
神様は、人間というものの実態をよくご存知で、モーセの時代に既に、バビロン捕囚のような憂き目に遭うことのないようにと、前もって警告をお与えになっていました。
しかし人間というものは、はなかなか聞かないものなのですね。

◆呪い、裁きからの回復もあらかじめ告げられた
けれども有り難いことに、神様に従わなかった場合の災いだけではなく、そこからの回復についても前もって語っていて下さるのです。
それは申命記30章に記されています。
お読みしてみましょう。申命記30:1。

 わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、
 あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、
 あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。
 たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。
 あなたの神、主は、かつてあなたの先祖のものであった土地にあなたを導き入れ、これを得させ、幸いにし、あなたの数を先祖よりも増やされる。

◆心を尽くして神に帰るならば回復される
祖国を追われ、散らされて行った先の国々において、イスラエルの人々が「主のもとに立ち返り」、「心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従う」ならば、
神様は彼らの「運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる」。
たいへん有り難い約束です。
まことの神を信じていたはずの人々だったのに、その子孫たちが、神に逆らい続けた結果、没落してしまった。しかし、再び神に立ち返るなら、そこには回復があり、散らされていた先々から、再び集めて下さるというのです。

◆イザヤ、エレミヤのとき正に、捕囚があり、回復の希望をも語った
そして、前回学びましたイザヤ書、そして今朝のメッセージ箇所であるエレミヤ書において記されているのは、正にそのメッセージなのです。

前回イザヤ書では、もう間もなくやってくるバビロン捕囚と、そこからの解放をも前もって告げながら、そういう試練のただ中にある人々たちに対して、「私の目にはあなたは尊い。あなたを愛しているよ」と励ましのメッセージを伝えてくれているものでした。

そして今朝のエレミヤ書の時点では、すでにバビロン捕囚が起こってしまって、エルサレムに住んでいた主だった人々は既に、バビロニアに強制的に移住させられている。
そういう中で、バビロニアに住む人々に対して送られた言葉なのです。

◆涙の預言者、エレミヤ
祖国の深刻な、憂い悲しむべき状況をエレミヤは見なければなりませんでした。そんな中でエレミヤは神様のみことばを聞き、それを伝えました。それは、先ほどお話しした申命記に語られていたような裁きが起こっているのだ、ということを語らなければならないわけで、非常に厳しい内容のメッセージでした。
そして人々の多くは、その厳しいメッセージに耳を傾けることがなく、かえってエレミヤを反逆者扱いし、激しく迫害しました。それで、エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれています。

◆エレミヤの裁きの預言 神殿が強盗の巣窟になっている
エレミヤ書7章から、エレミヤのそんな預言の一端を見てみましょう。
エレミヤ書の7章です。1節からお読みしてみましょう。
 主からエレミヤに臨んだ言葉。
 主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。

 エレミヤは、まことの神様の神殿に、かたちだけは出入りし、かたちだけは礼拝を捧げていたイスラエルの人々に向かって語ったわけです。その内容について、続いて9節から見てみましょう。
 盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、
 わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。
 わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。

神殿に来ていながら、盗み、殺し、姦淫し、偽りの誓いをし、異教の神々に従い続けているままで、神殿に来て「救われた」と言っているイスラエルの人々のありさまに、これでは神殿が、強盗が集まる巣窟ということになってしまうではないかとエレミヤは預言したのです。

◆汚らわしい忌まわしいことをしていた民
更に30節。
 まことに、ユダの人々はわたしの目の前で悪を行った、と主は言われる。わたしの名によって呼ばれるこの神殿に、彼らは憎むべき物を置いてこれを汚した。

神殿そのものの中に、偶像であるとか、非常に汚らわしいものを置いたというのです。エゼキエル書の方にもそういうことを書いております。また31節。
 彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。

唖然としてしまう、イスラエルの人々の神に背くありさまです。

◆根拠なき楽観論が大勢を占めていた
そしてついに、バビロン捕囚が進んでいってしまう。それは一挙に起こったのではなく、段々と進んでいきましたが、そんな事態のなかで人々や王様、指導者たちの間で大勢を占めていたのは、根拠のない楽観論でした。
つまり、イスラエルの民は選ばれた民なのだから、一部の人々がバビロニアに連れて行かれても短期間で戻って来られるだろう。神殿の祭具がバビロニアに持って行かれてしまっても、それは近い将来、返してもらえる、と思い、またそういう内容の、偽の預言をした偽預言者もいたのです。

◆本当のことを語って弾圧されたエレミヤ
人々はその偽預言者の方を信じ、エレミヤを激しく弾圧します。エレミヤはいのちまで危なくなる中で、まことの神様からのまことの預言を伝え続けます。

◆明らかにあったエレミヤの預言の信憑性
そんななかで、偽預言者が、エレミヤの予告通り何日か後に死んでしまったり、エレミヤの言葉の信憑性が明らかになっていきました。

そういう状況の中でエレミヤは、エルサレムから、バビロニアに連れ去られた人々に向かって手紙を書いて送った。
それが、今朝お読み頂いたエレミヤ書の29章です。

◆エレミヤの預言が真実だと分かりがっかりする民に語る
すなわち、エレミヤの語ったことの方が真実である、本当の神様のみこころであると分かれば分かるほど、イスラエルの人々は自分たちの罪を嘆き、がっかりするしかない。
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近いうちにエルサレムに帰れると思っていたのが、そうではない。神様の怒りによって、この捕囚の地から逃れることはできない。すなわち、自分たちの独立も失われた奴隷の状態で、母国も失い、家や財産や誇りも人間関係も失って、バビロンの地で生き続けなければならない。

◆70年経ったら捕囚から解放される
そんな絶望に捉えられている状況の民に向かって、エレミヤが神様のみことばを伝えた手紙なのです。
お読みしてみましょう。

29章10節から。
 主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。
 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

◆子や孫に希望を伝えなければならない
70年の時が満ちるなら、まことの神様は恵みの約束を果たし、イスラエルの人々を故国に、約束の地に連れ戻す。
これは長い長い忍耐をも必要とする約束です。70年ですから。
ほとんどの人は、生きて祖国の土を踏むことは出来ないでしょう。
子や孫の世代に、この希望を伝えて行かなくてはならないのです。freedom

◆漠然と待つ70年ではない
これは漠然と待っている70年ではありません。
エレミヤは次のように勧めます。故郷を遠く去って、異教境の地、バビロンに住まなければならなくなったイスラエルの人々への勧めです。29章4節をお読みします。
そしてこれは、時として不遇な中に生きなければならない私たちへの語りかけであるかも知れません。
 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。
 家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。
 妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。
 わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。

◆いま暮らしているバビロンの地で誠実に生きなさい
今暮らしている土地で、生きている場所で腰を据えて、根を下ろして誠実に暮らしなさい、というのです。
そして、今生きている町の平安を求め、神に祈れ。その町の平安があってこそ、そこに住む信仰者にも平安があるのだよと、神様はおっしゃいます。

◆神殿もないところにも神はいらっしゃる
イスラエルの人々にとって、母国、エルサレムの神殿にしか神様はいらっしゃらず、そこにしか平安な暮らしはない、と思っていました。
しかし、神様は、異境の地、バビロンのために、「その町の平安のために祈りなさい」とおっしゃいます。
神殿はなくても、建物としての神殿は破壊されてしまったとしても、異教の地にあって神様に向かって祈ることができるのです!

◆共に暮らす異教の民のために平安を祈れ
そしてその祈りは、偶像の神を信じて生きている、全く価値観の異なる隣人たちも平安であるように。そういうなかでお互いに平安を保って生きるようにという驚くべきメッセージです。

◆選びの民の失敗、堕落をさえお用いになる神
イスラエルの人々はそもそも、世界中の民の祝福の基として、すべての民に祝福を与えて行くために神様から選ばれたはずでした。
それが、自分たちは選ばれている、自分たちは祝福される、ということにだけにこだわって、狭いものの考え方になって、鼻持ちならない生き方になっていた。
そういう中で罪を犯し続け、その結果、バビロン捕囚を招いた。
しかしそのことが逆に、異教の地で隣人となった人々のために祝福を祈る、という、これまで考えたこともなかった新たな展開を生んだのです。
神様のなさることは不思議です。
神様は、選びの民の失敗を、没落をさえ、このようなかたちで用いて下さるのです!

◆祈りながら真の故郷に帰る希望を子孫に伝える
そのように祈りの生活をし、まことの神様とつながって生きる生き方を、子どもたちや孫たちに伝えながら、約束の地に帰ることを待つのです。
私たちにとっても、今生きている地はまことの故郷ではありません。私たちにとっての真の故郷は天にあります。

ですから今は、真剣に祈って神様により頼み、今生きている場所で、落ち着いた腰を据えた生活を誠実に送りながら、神様の約束をつかんで、忍耐を以て待ち続けるのです。
次のように約束されている通りです。11節。
 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
 そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。
 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、
 わたしに出会うであろう、と主は言われる。

◆70年後でなくても、今!主に祈れば、主にお会いできる
12節は、元の言葉では「その時」という言葉はありません。新改約聖書も12節を、「もし、あなたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら」という訳を致しております。

ですから、70年後になったらではなくて、この今、主にお呼びかけし、主に祈り求めるなら、主はその祈りを聴いてくださるのです。
今、心を尽くして主を求めるなら、主にお出会いすることができると、主は言っていて下さるのです。
そのように祈って、主にお出会いして生きているところに豊かないのちがあります。そうして私たちは今、生きることができます。

(母という事への言及)

このような希望に基づく、腰を据えた生き方をこそ、私たちも子々孫々に伝えいけばよろしいのです。
お祈り致しましょう。