待つことの意義

メッセージが聴けます(31分)▼


待つことの意義
(12月10日礼拝メッセージ)

聖書箇所 マルコ11:1~11、ルカ2:25~32

要 旨

 クリニックの玄関前に7時45分から並んで3分診療を受け、やっと薬局に行って名前を呼ばれ、カウンターに行くと不意に♪栄えに満ちたる神の都は~。賛美歌のメロディが流れてきた。え!と思って見回すと、正面に掛かった時計の時報なのだ。時間はちょうど・・・「十時か」とつぶやいた。神様はそういう風にも、「私は一緒にいるよ」と励まして下さる。
 人生において待たされることは辛い。しかし、必ずそれを与えて下さると約束してくれた相手がいればどうだろうか?
 シメオンは救い主を待たされた。生きている間に会える、と言われていて、逆に焦る気持ちさえあったかも知れない。聖霊に満たされていたが、待たされてそういうこともある。しかし、約束は現実となる。
 エルサレムに入城するイエスを「ホサナ(救って下さい)!」と迎えた人々もイエスのお出でを待ちわびていただろう。それは、解決して欲しい人生の問題がたくさんあるからだ。しかし、そのエルサレムでイエス様は、十字架にかかられた。それが私たちの全ての問題の解決の鍵だからだ。そして、復活し天に帰り、私たちの祈りに耳を傾けていて下さる。
 御子を十字架にかけて、私たちにそのいのちを与えて下さった父なる神は、神の国とその義を求める者に、良きものを必ず与える。聖霊を求める者には必ずと(ルカ11:9~13)。その求め待つ鍵は、全てのことを感謝することである(Ⅰテサロニケ5:16)。
 苦しみの中でも感謝することは、天に向かうはしごを、黒雲の中も昇り続けるようなもの。やがて雲の上に出る。「いつも喜んでいよ」というのは主の約束だから、内側からそうできるようにして下さるのは主である。

23915673_1853783828037303_8160354853809909093_n

24174247_1858166197599066_6697449436384815267_n