いのち、光、その証人

メッセージ音声(34分、最後の歌と祈り含め)

いのち、光、その証人(1月28日礼拝メッセージ)
ヨハネ1:1~12、19~23、29~30
新聖歌9力の主を、1いざ皆きたりて、185来たれ誰も

地球

要 旨

 宇宙に浮かぶいのちの惑星(ほし)地球。今日、エコロジーという語で言われるように、動植物、微生物、そして空気や水といった環境も、相互に関連していのちに満ちている中に、私たち人間は生かされている。
 三位一体の神が、そういう地球があるように宇宙を創造された時、4節に啓示されているように、ことばなる御子イエス・キリスト様の内にあったいのちを、それぞれの被造物にふさわしく豊かに注いで下さった。人間には人間にふさわしくである。
 その、人間独特のものを、人間の光といえようか。それは単に知的な理性だけと解すると足りないのではないか。そういう科学のもたらしたものが美しい地球を汚染し、壊しつつあるのを私たちは目撃している。
 人の光とは何かを再び新たに問われている。
 そのいのちは元来、ことばなるお方の中にあった。それは父なる神を愛し、感謝を捧げる生き方ではないか。そんな生き方が私たちに回復されるよう、イエス・キリストご自身が、十字架にかかって、父なる神との愛の交わりが回復する道を開いて下さった。
 バプテスマのヨハネはイエスを指して、「見よ、神の小羊」と言った。それは旧約聖書の時代、人が神の前に罪の赦しを求めるため、無垢の小羊を殺して血を流したことを指す。イエス様はホンモノの、神に受け入れられる犠牲としてご自分の身を献げて下さった。
 バプテスマのヨハネは当時、イエスと人気を二分していたが、自分の役割はイエス様を証しするだけだと明言した。「この方は“私より先にいた”方だ」と知っていたからである(彼のほうが年上なのに)。すなわち、先在の神なるお方という告白である。
 4つの福音書の最後に“決定版”として、十二弟子の一人によって書かれたヨハネの福音書は、そのことを明らかにしている。

 おはようございます。寒い日が続きますがお元気でお過ごしでしょうか? さきほどはプレイズ&ワーシップもぴったりな曲を選んで頂いて、心楽しく共に賛美させて頂いたことです。

 いのち、光、その証人とタイトルを付けさせて頂きました。
 ここで、いのちとか光と言っているのは、イエス様のことについて言っています。
 4節に
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
 とあります、これですね。
 証人というのはバプテスマのヨハネを指しています。
 6節に、
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
 と書かれている、これです。

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 バプテスマのヨハネは人気があり、影響力のある人物でした。実はイエス様が地上を去られ、初代教会が成立した時代にも、バプテスマのヨハネの影響力は強く残っていたのです。
 とはいえ彼は、イエス様が殺されるよりも、先に殺されてしまっているんです。
 当時の権力者の不正について、正面から批判することをはばからずに言って、最後に獄中で、文字通りクビを落とされちゃったわけですね。その記事はマタイの14に書いてあります。

 バプテスマのヨハネは、民衆に大変人気があったんです。
 またその教えや生きざまが長く語り継がれているという点で、ある意味、吉田松陰や西郷隆盛みたいなもんかも知れません。
 
 バプテスマのヨハネは、文字通りいのちを賭けて、自分(おのれ)の信じる正しい道を貫いた漢(おとこ)です。
 しかし、そのヨハネさえイエス様のことを、「自分はこの方のわらじの紐を解く値打ちもありません」(マタイ3:11)と言っているんですね。

もうちょっと言いますと、ではバプテスマのヨハネが2倍すごくなったらイエスと対等になれるか? 100倍だったらどうか?という、そういう世界ではない。

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イエス様は超越した「お方」である。
その方を証ししたということにヨハネの値打ちがあるのです。

それが、「いのち、光、その証人」というタイトルの意味するところです。

 さて、新約聖書の初めに、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4つ福音書が収録されています。その4つの中で、ヨハネによる福音書は、一番最後に書かれたと言われています。
 
 先の3つの福音書が、イエス様がなさったり、語ったりなさった大切なことを書いた後、
 いわばその決定版とでもいいますか、イエス様って結局なにもの?っていうことを、より明確に書いているわけです。

 ここでひとこと説明しておきますと、ヨハネによる福音書を書いたヨハネと、先ほど申しあげたバプテスマのヨハネは、全くの別人物です。
  そして、ヨハネの福音書の著者であるヨハネは、イエス様の12弟子の一人であるヨハネです。
削除==だということが伝統的に言われておりますし、現代の学者の多くも、その説を支持しています。==削除

 前回ヨハネの福音書1章1節から18節を取り上げさせて頂きましたが、その箇所はいわば、ヨハネの福音書全体をぎゅっと凝縮したものなのです。
  その中でいの一番に言われている大事なことは、イエス様が神様であるということです。
 イエス様は、人々から礼拝をお受けになることが自然であり、人々から本当の意味で主と呼ばれるのが当然なお方なのです。

 そのことは前回、初めにことばがあった、というその「ことば」が、イエス様のことを指しているのだ、というお話しで申しあげました。
イエス様は、マリアのお腹から誕生する前から存在しておられ、父なる神、また聖霊なる神と一緒に、子なる神として、この世界を創造されたのです。そういう三位一体の神の「おひとり」なのです。

 そのことをイエス様は、地上の生涯を送られる中で、徐々に明らかにされました。そのことが4つの福音書に書いてあります。ことにヨハネによる福音書でははっきりと書かれています。
すなわちイエス様は、自分は人となった神だ、と言ったのです。その「大変さ」は、日本人の感覚では分かりにくいかも知れません。なぜなら日本人にとって、何でもかんでも神様(といっても人間の方が作ったカミですが)として祭り上げてしまうことは普通のことだからです。
 しかし聖書の神は、創世記1章で、「初めに神が天と地を創造された」と記されている創造主なる神です。その神と自分を同列に置くというのは、狂気の沙汰なの冒涜です。それをイエス様はなさったということです。

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削除==ルカによる福音書22章にも書いてますね。開けてみましょう。ルカ22:67からです。ここは、イエス様が十字架につけられる直前、ユダヤ教の大祭司たちから尋問をお受けになったことが記されている箇所です。この発言が決定的なものとなってイエス様は十字架にかけられてしまったわけですね。
67「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。
68わたしが尋ねても、決して答えないだろう。
69しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」
70そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」
71人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。
==削除

  これは戦前の日本で、「自分は天皇に等しい者である」と言うよりも危険な発言だったのです。
 いのちがけで言わなければできないことです。

そしてイエス様は実際、いのちを賭けた。十字架で死んだ。
しかし、それは何のために、誰のために死んだかということが一番大事なところなんです。そこがキリストの良き知らせの中心点なのです。

 そういうことをいのち、光ということでも言っているわけです。
 では、いのちって何でしょう?いのちがあるっていうことは、誰でも直感的に分かります。今まさに、自分自身が生きているのですから!

 そして私たちの生きている地球は、いのちに満ちた惑星です。
 もしも地球が、いのちのない惑星だったらどんなであるか想像してみて下さい。
 空気も水もなく、岩や砂ばっかりで、いのちの痕跡すらない。太陽の光にぎらぎら照らされているだけの惑星・・・。実際のところ、火星や金星はそういう惑星ですね。

 宇宙から撮った丸い地球の写真を見たことがあるでしょうか。
 真っ暗な宇宙空間を背景にして、海のブルーと、茶色の陸地。そしてそこに生える緑の植物と、それらを覆う白い雲。

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水は豊かにあります。海に水が満ちていて、その水は雲となり、雨となって陸地に降って来ます。水は循環しています。だから植物は豊かに育ちます。そして、それを食べる動物たちも生きることができます。
風が吹き、波が打ち寄せています。海にも川にも湖にも魚たちが満ちています。そして空には鳥たちも飛んでいます。顕微鏡で見なければ見えない微生物もおります。そして、そういう微生物の存在がなければ、化学的な分解もないし癒しもないし、大きな植物や動物も生きることができないのです。

 太陽の光はさんさんと降り注いでいます。植物は光合成を行います。だから動物の必要とする酸素が供給されます。夜には美しく星が輝き、月も地表を照らします。虫たちの合唱もにぎやかです。
 美しい、愛おしい私たちの故郷――。そして、そういうもの全てを愛で、楽しむ私たち人間が生きているのです。
 私たち人間は、そういういのちに満ちた世界の全てを探究します。地球のエコロジーといいますが、あらゆるものが循環して、つながり補完し合って生きている仕組みをますます知るようになっています。
そして地球の上で起こっていることに対して、地球の外の宇宙や、一方、丸い地球の中心の方の仕組みが、気温を保つというようなことを含めて、実はどんな影響を与えているのか、新鮮な驚きをもって知るようになっています。
 人間自身の内側に深く分け入っていけば、人体というものの仕組みの素晴らしさにますます畏怖の念を抱くほどの感動を与えられます。
 そして、まだまだ私たちが気づいていないいのちに関する様相、さまざまな領域(それは多くは霊的なものということなのかも知れません)があるのではないでしょうか?
 
 そして、聖書のみことばの啓示によれば、4節にあるように
「ことばの内に」すなわち、キリストの内に、そのような豊かな豊かないのちが、宇宙の始まる前から「あった」ことを私たちは知らされるのです。
 子なる神であるキリストが、父なる神、聖霊なる神と共に万物を創造していくとき、
 お作りになった万物に、豊かに豊かにいのちをお注ぎになったのです。そして、それは、作られたものそれぞれに応じて、それぞれにふさわしくいのちがあるように、いのちは注ぎ込まれたのではないでしょうか?
 人間には、人間にふさわしくいのちが与えられたのです。

  そのことは4節後半にあるように、
  命は人間を照らす光であった
ということなのではないでしょうか。

 では4節5節をを一緒にお読みしてみましょう。
 ことばの内にいのちがあった。いのちは人間を照らす光であった。
 光は暗やみの中で輝いている。暗やみは光を理解しなかった。

いのちは人間を照らす光であったってどういうことでしょう?
元の言葉では、「いのちは人間の光であった」と記されているのです。ある時からそうなったというのでなく、元来そうであったという意味で「いのちは人間の光だった」のです。
 削除==3節に「万物は言葉によって成った」とありますが、こちらの方は、万物が元々「あった」ではなく「成った」と書かれています。
(また、その成ったという動詞が活用されているアオリスト形という時制が、これまでそうでなかったことがある時点で起こった、ある時点からそうなった、ということを表現する使い方の用法なのです。)
「万物」と言われているものは、ある時点まで「なかった」のに、ある時点で成った。だから今存在しているわけです。==削除

いのちというものは素晴らしい、尊いということを人間は知っています。それを喜び楽しみます。そして、神がそのように人間をして下さったのなら、いのちを与えて下さった神に感謝し喜びたたえるはずではないでしょうか?
しかし、そうはさせない闇が絶えずあります。
しかし、光は暗やみの中で輝きます。

光のあるところは、もはや暗やみではありません。
暗やみに懐中電灯を持って来て、光で暗やみを照らすことはできますが、
太陽の光がさんさんと輝いているところに、暗やみ懐中電灯みたいなものを持って来て、そこを照らせば、そこが暗やみになる、というようなことはあり得ません。暗やみは常に、光りが遮られてしまうことによって、そこに残ります。

そして暗やみは光を理解しなかった。

ここでヨハネは暗やみと光ということを、非常に平たくいえば善と悪、のようなものになぞらえていっているのではないでしょうか?
暗やみと光を巡って、いろんなことを思い巡らすことができます。近代になって、科学によっていろんなことが分かった。そうするとカミナリ様がカミナリを落としているのだと思っていた無知な、未開な人々が電気ということを知り、電気を使った便利な生活をするようになった。
そういう科学的な理性、ということが人間の光の全てなのでしょうか?
逆に科学が生み出してしまったものが、この素晴らしい美しい地球を汚染し、破壊している、ということを現在私たちは実感させられながら生きています。
何かが足りないのではないでしょうか?
本来、キリストの内に持っておられたいのち。そして、私たち人間にふさわしく与えて下さったいのち。それは人の光です。
その光を、単なる知的な知性とか理性と捉えるだけでは非常に足らないようです。ものを感じるこころ? そうでしょう。そして、それにも増して、こんなにも豊かないのちを与えて下さった神に感謝することこそ、人間の光なのではないでしょうか?

そろそろ結びにしたいと思いますが、6節を一緒にお読みしましょう。
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
07彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
08彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
09その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

9節にまことの光、ということが言われています。
それは、世に来てくださったイエス様です。イエス様というまことの光は全ての人を照らします。
イエス様こそまことの人です。なぜなら、父なる神との完全に愛し合うコミュニケーションの中に生きておられるからです。父なる神のみこころに従って、そのことを楽しみ喜びながら生きておられるからです。

私たちもそれに習わなければ、どんなに科学が発展しても、まことに人間らしく生きることはできません。
そういう人の光であるいのちを豊かに持っていることにはなりません。

ですから私たちは悔い改めをし、生き方の根本の方向転換をしなければなりません。
神様が豊かに豊かに作って下さった世界。その中に人間は人間として生かされている。それにふさわしい生き方をすることができるんだ! 神に感謝を捧げながら生きることができるんだ!

正に、バプテスマのヨハネはそのことをあかしするために来ました。
 彼自身は光ではありません。光について証しをするものに過ぎません。

 バプテスマのヨハネはいいました。
29節30節を一緒にお読みしましょうう。
29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。

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彼はイエス様のことを「この方はわたしより先におられた」とはっきり証言していますね(バプテスマのヨハネの方が年上だったにも関わらず!)。
そして、イエス様は「世の罪を取り除く神の子羊だ」といっています。
神の小羊というのは、旧約聖書の時代において、人が神の前に罪を犯している、すなわち神のみこころに対して的を外してしまっていることへの赦しを求め、与えて頂くために、
小羊を殺して、血を流して、その血を捧げることをしたことを指しています。小羊は死にます。死んだふりをするのではなくいのちを失います。
その犠牲となった小羊のように、いや、イエス様こそがホンモノの、父なる神に受け入れられる犠牲として、イエス様ご自身が、十字架の上で血を流し、私たちの身代わりとなっていのちをお捨てになる。そのことをヨハネは前もって証ししているのです。

バプテスマのヨハネ自身も、義侠心に富み、正しいことのために死んだ人間でありました。しかし彼は、神の小羊、身代わりの小羊たり得ません。
なぜなら、彼は単なる人間だからです。

すなわち8節に記されているように
光について証しをするために来た

のに過ぎない人間なのです。
まことの光はイエス様なのです。

当時、バプテスマのヨハネは、イエスと人気を二分し、「ひょっとしたらバプテスマのヨハネこそ救世主ではないか」という声さえ多くあったのです。

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しかし彼は20節にあるようにバプテスマのヨハネは、
私はメシア(救い主、キリスト)ではない
とはっきり答えてます。

ではあなたは何ものなのかと問われてヨハネは答えます。
23節から一緒にお読みしてみましょう
ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。

そのように、イエス様のために、荒れ野で叫ぶ声となって道を備えました。人々にイエス様を指し示すことこそが、人としてバプテスマのヨハネの光栄であったのです。
イエス様は、まことの神であり、そしてまことの人であるからこそ、神の子羊となってくださったお方。

その、真に救ってくださるイエス様を指し示すことこそ、ヨハネの生きる道であり役割でした。今日その役割は、私たちにも受け継がれています。

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