初めにあったもの

メッセージ音声(35分、最後の祈り含め)

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初めにあったもの(1月14日礼拝メッセージ)

ヨハネによる福音書1章1節~18節

要 旨

 初めにことばがあった。「初め」とは宇宙ができる「前」の初め。
 近代になって科学的なものの見方が共有されると共に、「神が世界を創った」という見解はナンセンス視されるようになった。しかし、現代の科学においては?
 アインシュタインのような物理学者らの出現によって、マクロな宇宙論やビッグバン、そして素粒子のような超ミクロなものが究明され、そのマクロとミクロが統一的な秩序によって貫かれていることが明らかにされつつある。専門家でなくてもそういったことを、テレビの特集番組やYouTubeの動画で気楽に知らされる、そんな時代に私たちは生きている。
 学問は細分化され、誰も宇宙の全体像を「科学的に」極めることはできない。その学者が良心的であればあるほど、自分の専門外のことに正式なコメントは出せない。一方、科学の限界(宇宙や人が存在する意味を見出せず、倫理的な歯止めもない)も認識されている。
また、今日の科学の知見から、「神が『光あれ』と“ことば”を発せられると光があるようになった」(創世記1)ことを考えると大変に興味深いだろう。何千年も、多くの言語に翻訳されつつ読み継がれてきた聖書のメッセージは、新たな光彩を放っている。
光を創った神によって、宇宙(とその中にある全て)が創られた、という見解は科学と矛盾するものでもない、と科学者たちは言うのではないかという気がする(詳しい人にぜひ考えたり、教えてもらいたい!)
文章の構造としてヨハネ1~18で最も言いたい箇所は12節であることを明らかにした。
 宇宙のできる前から三位一体なる神は豊かな交わりにおいて、おられた。人間は、その似姿に創られた。イエス様を受け入れ、その名を信じた人々は、その豊かな交わりの世界に回復されたのである。そのことが分かっていく人生であり、具体的な課題の解決を求めて祈り求めて行く祈りなのだ。

おはようございます。そして遅ればせながらあけましておめでとうございます。
 
 年の初めということもありまして、「初めに」ではじまるヨハネによる福音書の冒頭の箇所を取り上げさせて頂きました。
 またこの箇所を私自身、日々聖書を通読する中で、新しい驚きを持ってお読みしたものですから、その感動を皆さまと分かち合いたい。そういう思いで準備をさせて頂きました。
 
 そして実は、12節のみことばは、私がイエス様を救い主と信じてクリスチャンとなった原点のみことばであり、そのことが、1節から読んで新たに覚えた感動と密接に結びついて、感動がより大きくなったということもお分かちしたいのです。
 
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 それでは、1:1から3節まで一緒にお読みしてみましょう。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

初めにことばがあった。「はじめにことばありき」ですね。
 これって、結構、一般的に世間で良く知られた、有名な言葉みたいです。

 あまりに有名すぎるといいますか。
 それで私は過去何十年にわたってこの箇所を何回も読んでいたはずなのですが、ふーん、「初めに言葉があった」ね~、という感じですーっと読み過ごしてしまっていたわけです。
 しかし、昨年の終わりごろ、日頃使っている聖書通読表の順番に従ってこの箇所を読むことになり、読んだ時に、これまでにない新鮮な驚きといいますか、静かだけれども非常な感動を覚え、心に迫るものがあったわけです。

 それは、こんなクエスチョン、疑問を覚えるということだったのです。
 それは、「初めにことばがあった」「ことばは神とともにあった」ということを、著者の「ヨハネ」はなんで分かったんだろう、という素朴な疑問です。それが新鮮な驚きだったのです。

 ヨハネ自身がその現場にいて、直接見たのではないし、直接その現場を見た人から話を聞いて書いた、というわけでもない。それなのに、なぜ「初めにことばがあった」ことが「分かった」のか。

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 前回クリスマス礼拝でお話しさせて頂いたメッセージとはちょっと違いますね。前回は、ベツレヘムの近郊の荒野で夜、焚き火をしながら羊の番をしていた羊飼いたちに天使があらわれて、救い主がお生まれになったことを告げる事件があったことをお話ししました。
 それは2000年前の出来事であるが、正に天使の言った通り、救い主が生まれたクリスマスの出来事は今や、全世界の全ての国の人々が知っている超有名な事件となったわけでした。

「初めに言葉があった」の方はどうでしょうか?
2000年前、どころの話ではありません。
初めの初め、といいますか、なにしろ、この世界というものが存在するようになったその初めに、ということを指して言っているわけです。
 そして、そういうことを書いてある、そして全世界で何千年にわたって読まれている聖書はすごい!と改めて思うわけです。

 この「初めに言葉があった」を読むときに、必ず思い出させられるのが、旧新約聖書の一番初め、創世記の第1章です。
 では、一緒にそこをお読みしてみましょうか? 創世記1章1節を開けてみて下さい。ここに「初めに」が出てきます。

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初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

初めに、神は天地を創造された。初めに神、天地を作りたまえり。
ヨハネ1:1に出てくる「初め」も、同じ「初め」のことを言っているのです。
 全宇宙(の目に見えるものも見えないものも)を、全地全能の神が創造したというのが聖書のメッセージです。
 その作られたものの中に、地球も入っているわけだし、私たち人類、人間も入っているのです。

 聖書には、「果たして神というものは存在するのか」「神の存在証明」といった議論は語られいません。
 なぜなら人を作ったのは本当の神であって、本当の神は人が作ったものではないからです。聖書の立場は一貫してそういうことです。
 そういう聖書が数千年にわたって、新約聖書の部分だけでも2000年にわたって、世界中の言語で、全世界の人々に読み継がれてきた事実に深く思いを致します。

そして、初め、ということと共に、ことば、ということを思わせられます。
 創世記1:3を見ますと、
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
とあります。

 神が「光あれ」と言葉を発せられると光があるようになった、ということですね。

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 ここで出てくる言葉は言葉と言っても、テレビのワイドショーやお笑い番組でうるさく流れてくるような、無責任な軽い言葉とは非常に違いますね。

 特別な言葉です。
 神が「光あれ」と言葉を出されると「光ができた」そういう特別な「言葉」。

 英語で言うなら、定冠詞つき大文字のthe Word。

 しかし、一般的な意味での言葉というものも、考えてみると不思議なものです。
 私は理系の人間ではないので良く分からないのですが、言葉というものに質量、重さはあるでしょうか? すなわち、りんごをはかりで量ると三百グラムあるという風に。
 万年筆で言葉を書けば、インクの重さの分だけ紙が重くなるから、それが言葉の重さでしょうか? しかし、逆に、石に文字を彫りつければ石の重さは減ってしまいます。
 まして、しゃべった言葉、音になった言葉は、物理的な重さなんて計りようもないですね。

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 結局、言葉そのもの自体に、物理的な意味での重さはないという結論になります。

 そうすると、言葉というもの自体は、物質的なモノではない。じゃあ、言葉というものは実体のないものなのか?ということになります。

 それなのに考えてみると、しゃべった言葉にしても、書いた言葉にしても、それがものごとに影響を与える。いやそれどころか、ものごとを作り、未来を力強く作っていく。つくづく不思議なことだと思います。

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 松下電器の創業者、松下幸之助さんが、ヨハネ1:1を引用しているのですね。
『私の夢・日本の夢 21世紀の日本』という本の冒頭で、聖書のことばとして「はじめにことばありき」という言葉を紹介しているのです。そして、
「私が・・・経営において・・・最初に一つの発想をし、それを“このようにしよう”という言葉に表し、みんなで達成していくということをやってきた」と松下さんは書いておられます。

 松下さんがこうしたい!こうしよう!ということがあり、それを言葉にしたときに、実際そういう風になっていった。だからこそ松下電器が立て上げられたということですね。
 優れた経営理念をもつリーダーの率いる企業というのはそういうものでしょう。かつての日立、東芝のように。
 しかし、経営が安定し世代も変わって、繁栄が当たり前だと思いおごり高ぶったリーダーが率いるようになり、その傲慢な発想と、そしてその発する言葉が、ホンモノの言葉ではなくなって行ったときに、どんなに輝いていた企業も、堕落し、廃れていくということなのではないでしょうか。
 話が横道にそれてしまいました。

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 さて、全地全能の神が、光というものがあるようにしたい!とお思いになり、それを言葉にされたときに光ができた。

 光といえば、理系の勉強をした人にぜひ教えて頂きたいのですが、
 ノーベル物理学賞を受賞したアインシュタインが導き出した有名な数式、E = mc2ですね。すなわち、エネルギーの量というものは、物質の重さに光の速度を掛け算して、さらにもう一回光の速度を掛け算したものと同じというんですね。光の速度ってメチャクチャ速いわけです。それを二乗してかけるわけです。それで出てくるエネルギーってどれだけ莫大なものか!

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 そしてその理論の正しさは、原子爆弾というものの「実用化」によって裏付けられてしまいました。小さな小さな何粒かの原子を壊すことだけで、莫大なエネルギーを放出するはずだという理論が裏付けられてしまったわけです。
 それにしても、なぜ光の速度が基本的なファクターになっているのか・・・非常に不思議なことです。

 話をはしょりますが、アインシュタインのような物理学者たちの登場によって、現代の科学は大きく塗り替えられ、宇宙という非常に大きな、マクロなものの仕組みや、ビッグバーンという言葉で言われるような、宇宙の起源に近いところが次第に明らかにされるようになってきました。
同時にまた、素粒子というような、原子よりも小さな小さな小さな超ミクロの世界の仕組みも解明され、そして、そのマクロとミクロが実は、一貫して統一された法則によって秩序立てられているということが解明されようとしている・・・。
そういう時代に私たちは生きています。そんなことを、かつてNHKで放映された「アインシュタイン」の特集番組みたいなものや、youtubeに載せられている分かりやすい動画を見て、私たちは知らされて生きているわけです。

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 そういう現代の前に、近代という時代がありました。近代は、今の科学の基礎が確立・発展し、広く行き渡った時代でした。
雷が鳴っているのはカミナリ様が太鼓を叩いているわけではなくて電気の働きなのであり、その電気を利用して電灯が点り電車が走る。
月でうさぎが餅をついているわけではなく、アポロ宇宙船に乗って人類の一員が、月面に着陸するのをテレビで見た。そういうことを、世界中の誰もが常識として共有している時代を、近代はもたらしたわけです。

さて、近代の前の時代においてはどうだったでしょう? 宇宙を、神さまが作られたということは、ある意味素朴に信じられていたのだろうと思います。
しかし、科学が神なり様の正体を明らかにしてしまった近代においては、神が宇宙を作ったということを信じないことが一般的にもなったというかもしれません。

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 そして現代においてもおおむね、神が宇宙を作ったということを科学者は言わない。だから、神などというものを真面目に考えない考え方が大きく広がってもいるのだろうと思います。

 しかし、現代の科学者たちが、神によって宇宙が作られたという考え方を否定しているのか? 私も全くのシロウトながら、物理学などの学問的な根拠をもって神を否定しているのか調べてみました。
 合っているかどうか分かりませんし、理系に強い方にぜひ教えて頂きたいわけですが、
 どうも現代の学問というものは、小さな専門分野に細かく分かれていて、その学者さんや専門家が、良心的であればあるほど、また、正確にものを言おうとすればするほど、自分の専門外のことに話を広げてコメントをするわけにはいきません。

 宇宙全体について科学的に把握して、その上で宇宙の起源について考えようとするなら、この専門領域をマスターして、次にこの専門領域もマスターして・・・、(それらを最新情報を常に最新情報にキャッチアップしつつ、)その上で、それらの専門領域を「きちんと」つなげて総合的に考えるということをしなければならないでしょう。
それは、一人の人が生きている間に成し遂げることは無理で、寿命が何百年とか何千年なければできないことでありましょう。

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 だから科学者は、良心的な科学者の立場からは「神が宇宙を作った」ということを言わないだけなのではないでしょうか?

 しかし、(宇宙のいわば外なのか内なのか分かりませんが、)創造主なる神がおられて、宇宙を作った。そして宇宙を維持しているという「考え方」は、科学のものの見方に矛盾するものでもないと、科学者たちは言うのではないかと思います。

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削除==逆に、神が宇宙を作った。その神はどんな神で、何のために、という考え方がないと、科学や、それを応用した営みを行う意味が見失われてしまう。なぜ、それをするのか、という目的が見失われて、目先のことしか考えられないものの考え方になるのではないでしょうか?
 そうすると、人をたくさん殺すための道具を作ろうが、どんなに害があって人々を不幸せにすることがあっても、効率的でお金がもうかるものごとのやり方を考え出して実行してしまう、ということになっているのではないでしょうか?
==ここまで削除 

 ヨハネの福音書に戻りましょう。
 初めにことばがあった。

 正にその特別なことばとは、イエス・キリスト様のことを指しています。そのことを言うために、ヨハネがこの言葉を記し、2000年のキリスト教の歴史のなかで、そのように受けとめられてきた、ということを申しあげることができるのです。

 初めに言葉があった。それは言葉が、宇宙のできる前からおられたということであって、その言葉は「創られた」ものではありません。自分の方が創った側のお方であるわけです。すなわち、神様的なものであることに間違いはありません。

 言葉は神と共にあった。

 それは言葉が、宇宙ができる前から、父なる神とのコミュニケーションの世界の中にあったことを示しています。
 その1節、2節は実は、18節のみことばと響き合っています。それでは18節を一緒にお読みしてみましょう。
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
 18節ではこのようにはっきりと、この言葉はひとり子の神でいらっしゃることが書かれています。

 実は1節から18節の文章はひとまとまりになっております。
 そして旧約聖書、新約聖書においては、大切なことを分かりやすく伝えるためにこんな手法がしばしば使われているのです。
それはひとまとまりの文章があって、その文章が山のようになっている。そして、その山をA、B、Cと登っていく。そして山の中心に来て、それが文章の中心点であり、一番言いたいことを書いているのです。そして山の頂上から、Cダッシュ、Bダッシュ、Aダッシュと下って行く。そういう文章構造のことをキアスムスというのです。キアスムスは短いこともあるし、うんと長い場合もあります。

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ごく短いキアスムスを考えれば、こんな文章です。
「とても寒い日が続きます。おからだに気をつけて下さいね。凍りつくような寒さです」
 この場合、「とても寒い日が続きます」がAで、「凍りつくような寒さです」がAダッシュで、Aの内容を強めています。

そういう意味で、ヨハネ1:2節にある「言葉は神と共にあった」ということは、18節の、父のふところにいる「ひとり子の神」のことを言っていることが明らかに分かるように書かれているわけです。

そして、「寒い日が続きます」の例で言えば、真ん中の「おからだに気をつけて下さいね」の部分。一番言いたい大切な部分は、1節から18節のまとまり中でどこになるのでしょう?
それはズバリ、12節なのです。それは誰が読んでもそうであることが必ず分かるように、元の言葉では書いてあるのです。
では12節を一緒にお読みしてみましょう。

しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

 言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
 「神の子となる資格」ですよ! ここで言う神とは、人が作った偶像の神などではありません。宇宙をお造りになった、全地全能の神です。
 ここで「資格」と訳されているのは、以前申しあげた、「エクスーシア」です。権威とか特権とかとも訳すことができます。そして自ずからそうなる自然なことです。真理です。
 
 一番最初に申しあげたように、このみことばは、私が12歳の時、イエス様を救い主として信じて、自覚的にクリスチャンになった時に与えられたみことばでした。

 特別伝道集会というものがありまして、その最後に司会者が、「今日イエス様を救い主と信じたい人は手を挙げて教えて下さい」と言ったんですね。
 その時、何故だかすっと手を挙げている自分を発見しました。
 そして、集会の後、島田先生という女性の牧師さんが隣に座って、一緒にお祈りして導いてくれました。
 そして最後に、このヨハネによる福音書1章12節を開いて、読んでくれました。
 その時使っていた聖書は、新改訳という日本語訳の聖書で、こういうみことばでした。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

 そして島田先生から、「このみことばが、三千春ちゃんの「救いのみことば」だから忘れないでね」と言われました。

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しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

 そのみことばを含めて、それからもう何回も何回も聖書を読んできました。
 そして、昨年末にヨハネによる福音書1章を再び読んで、新たな感動があったのです。

 それは今まで申しあげて来たようなことを全て、いや、それよりももっと豊かなことを含んだ全てです。
 今まで、このお話の中で一生懸命、理論でというか理屈でご説明しようとしてきたことを超えた、説明しきれない素晴らしい、すごい神であり、その神が創られたすごい世界です。

その神が、私を、ご自分の愛する息子の一人として下さっている。神の子である資格、特権を与えて下さっている。
それはイエス様を受け入れている、イエス様のお名前を信じる人なら世界中、どんなにその人の数がどんなに多くても、時代を超えて、誰であっても全ての人をそうして下さるのです。(そうだと分かる書き方がしてあるのです)

そうです! あなたが、神の子となる資格を、特権を持っているのです!
あなたも私も、宇宙を創造された全地全能なる神の、愛する息子、娘なのです。イエス様を救い主と信じてさえいるならば。
私たちはその特権の中に生きるのです。

私自身、小学校6年生の時に「神の子となる特権をお与えになった」といったって、正直言ってピンと来ませんでした。
ピンと来るには人生経験が乏しすぎたのです。

しかし、それなりに長い間生きてきて、その中で壁にぶつかり、試練も経験するときに、イエス様のお名前で一生懸命祈り求める。そして、ある場合は、長い時間をかけて、神が私のことを大事な「私の息子」として扱っていて下さることが分かってくる。そういうことが、問題解決をも与えてくださる鍵でもあったのです。そういうことを、さまざまな問題にぶつかって、試行錯誤する中で私なりに知って来たわけです。

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そこにあったのは豊かなコミュニケーションの世界です。
父なる神と子なる神と聖霊なる神の豊かな交わりは、宇宙のはじまる前からあった。そういう神様に創られた世界に、人として作られた私たちも、孤立した殺伐とした世界ではなく、そういう豊かな交わりの世界に入れられて、生きていくことができるのです。
 
一年の初めに、そういう世界を作って下さった初めの初めのことを思い巡らすことができて感謝致します。