万事が益となるように

メッセージ音声(結びの祈り除き33分)

万事が益となるように(2月11日礼拝メッセージ)
ローマの信徒への手紙8:12~17、26~30
新聖歌18おお御神をほめまつれ 505主われを愛す 195イエスの許に行きて隠れよ

要 旨

 世の中にはありふれているが、実はすごいものがある(夕焼けのように)。読み慣れた聖書のことばなんてそういうものだろう。
 ローマ8:28も、「ちょっとありがたっぽい言葉」と読まれる向きがあるかも知れない。
 よく読むと、神を愛する者「には」万事が益となる、とある。この言葉は、しかし万人に公開されている。読んで「!」と思うならば、自分が神を愛する者になるよう志せば良いのだ。神を愛することは誠実な夫婦の関係に似ているだろう。時には相手の考えていることが分からず、文句を言うときもあるのだ。そうであって、意志的に互いに愛し続ける。
 益というのは原語では「良い」である。ファインプレーに「ナイス!」、良い仕事に「グッド!」と思わず声を掛ける、そういうようなものだ。
 著者のパウロは、旧約聖書を知り尽くし、そして旧約に約束された「正体」は救い主イエスであることを体験的に分かり、なおかつ当時初代教会で起こっている聖霊の活発な働きを、同時代人として体験していた。
 さまざまな思想、価値観が流れ込む大都市ローマに誕生したばかりのクリスチャンの群は、(すごい聖霊経験があればこそ)惑わされていく可能性も高い。そこに適確なアドバイスを送ることができた人物こそパウロなのだ。イエス様の十字架にこそ、真の意味での神の愛が表れていることを著しながら、パウロは8:28まで到達するのだ。パウロは体験的事実を言っている。
 神を愛する者=神に招かれた者だ。神の方から手を変え品を変えスカウトされて、それに応えたのだ。神の招きに応えよう。また神への愛をもっと育てよう。(続編へつづく)

==完成稿==
 
 おはようございます。
 前回はエコロジーと信仰というような問題も交えてお話しさせて頂きました。インターネットにもアップしていますので興味のある方はお聞きになってみて下さい。

 さて、皆さんは、月食、皆既月食(スーパーブラッドムーン)をご覧になりましたでしょうか?
もう1週間以上前(1/31)のことになりましたが。私も寒い寒い中、家のベランダに出て、少しの間、観察しました。
月面にモヤがかかるようにしてだんだん月が欠けていくのが分かりました!

テレビや新聞でも話題になりましたので、全国で話題になったことでしょう。しかしもしも月食がもし仮に、毎月だとか、毎週のように見られる現象だったらどうでしょう。珍しくも何ともない。ニュースになんかならないでしょう。
その逆を考えてみましょう。皆さんは美しい夕焼けを見たことがあるでしょうか? 息を飲むような美しさですね。

もしも、夕焼けという現象が、数年に一度しか見られない現象だったらどうでしょうか? きっと、テレビや新聞で、「15年ぶりの夕焼けが、何月何日に日本の西部で見られます」といった具合に話題になることでしょう。
しかし夕焼けはあまりにありふれているので、ニュースにならないのです。
けれども夕日の美しさ、そしてあんな、空が赤くなるという不思議な現象が、どういうメカニズムで起きるかという不思議さの価値は失われないわけです。

ありふれているのだけれど実はすごい。
そういうものが世の中にはたくさんあるのです。

あまりにも有名で、何回も読み慣れてしまった聖書のことばなんて、そういうものかも知れません。
さきほどお読み頂いた中の、8:6なんてそうかも知れません。一緒にお読みしてみましょう。
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
これなんて、「へ~。神さんがどんなことでもええことにしてくれはるんやって~」と、ちょっと有り難っぽい言葉と受けとめるかも知れません。また、クリスチャンのお家によくある、聖書の言葉の日めくりカレンダーなんかに必ず載っている言葉ですから、「見慣れて」しまっているかもしれません。
しかし、夕日はありふれていてもその凄さ、価値が変わらない。それと同じように、このみことばの価値を受けとめたいと思います。

本当に価値あるもの追究するためにはどんなことだってやる。そういう人がいることを表すエピソードをお話ししましょう。

削除==創世記1:1の
初めに、神は天地を創造された。
というのも似たように、すごいことを言ってるのにピンと来ない言葉かも知れません。
明治時代に同志社大学を後に設立することになった新島襄は、江戸幕府による鎖国が解かれる前に、禁を犯してアメリカに密航し、そこでキリスト教に触れたわけですが、その大きなきっかけは、この創世記1:1「初めに神天地を創りたまえり」を漢文の聖書で読んだことだと言われています。
新島さんの場合、それを読んでもうびっくり仰天したわけですね。その、書かれているようものの考え方を知りたいと思い、明治維新の起こる4年前に、いのちがけで密航したんですね。==削除

江戸時代の末期、明治維新の起こる約15年前に、アメリカに密航しようとして果たせなかった人物に吉田松陰がいます。彼は、ペリーの黒船が来航した際、乗せてもらおうとするのですが失敗し、投獄されてしまったわけです。非常に大胆な行動です。
その師匠に佐久間象山という人物がいます。象山は、ある藩の偉いさんで、黒船の問題を解決する側の立場にあったにも関わらず、弟子の松蔭の密航に際し、「削除==周流(しゅうりゅう)して形勢を究めよ 一見は百聞に超えん 知者は機に投ずるを貴ぶ 帰来(きらい) 須(すべから)く辰(とき)に及ぶべし」(===削除行って世界の情勢を見て来い削除==百聞は一見にしかずだ。知恵ある者は、機会を逃さない。そして時期を見て必ず帰って来い)==削除という意味の詩を送っています。そのため幕府の取り調べを受けることになりその時、弟子の行動は正しいと主張し、自分も投獄されてしまい。そういう人物です。

佐久間象山は幕末の日本にあって、書物を通して西欧の文化や科学技術に触れ、日本がこれから世界を相手にしていくためには、西欧の学問に学ばなければならないと感じます。そして、自らそれを実践し、その成果を惜しみなく弟子たちにも教えました。吉田松陰はその影響を受けたわけですね。
佐久間象山は、西欧の学問のあり方として、知っていることを書物なんかに全部書いて公開してしまう。秘密にしない。そういうことにびっくりし、感動したわけです。
当時の日本の学問の気風として、秘伝、伝授といいますか、大事なことをなかなか弟子に教えなかったのです。しかし象山は、そうであってはならないと痛感しました。それで自分は、苦労して学んだことを積極的に弟子たちに教えてしまった。
それは、象山には大きな大きな考え方があったからということでしょう。

キリストの教え、聖書の言葉もそういうものです。求める者には、誰にでも公開されています。

 8:28を注意深く読んで見ましょう。では一緒にお読みしてみましょう
 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

 注意深く読むと、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには」と書いてあります。
 そういう者たちのためには「万事が益になるように共に働く」

 では、神を愛さない者はどうなのか? 分かりません。
 しかしこの言葉は、誰でも読めるよう、この言葉が公開されています。そして私たちは、それを自分に向けられた、神様からのメッセージとして受けとめることができるのです。そして、自分が神を愛する者になればいいのです!

 新改訳聖書ではこう訳しています。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 神を愛する者のためには、万事が益となる。神がすべてのことを働かせて益としてくださるというのです! 益っていうのは元は非常にシンプルな言葉です。良い!ってことです。「これで良いのだ!」。英語で言えばgood! とかNice!です。
 スポーツを見てて、思わぬファインプレーが出ればナイス!良い仕事をした人がいたらグッド! もしも私たちが、天地創造の父なる神を愛しているなら、万事のこと、すなわち私たちの人生に何が起こっても、それはグッド!になるんだ、ナイス!になるんだということが、秘密ではなく、誰にでも公開されてここに書かれているのです。
 
 神を愛するとは積極的なことでしょう。
 神のことを好きか嫌いかといえば、どっちかといえば好き、というような世界ではありません。
 ここで「愛する」という言葉はギリシャ語の現在形で書かれているのです。そうするとどういう意味が出るかというと、
 神を愛するということを、いつも続けて、習慣として、繰り返して、というような意味合いが出るのです。
 
 神を愛することは誠実な結婚生活に非常に似ているところがあるかもしれません。結婚すれば、自分の夫や妻を、夫や妻として愛し続けます。
 時には相手の考えていることが分からない。納得のいかないことには文句も言ったりもします。そうやって相手がどんな人間なのかを互いに分かっていきながら、愛するということをし続けます。私たちが神を愛する場合も、いろんな疑問をぶつけたりすることだってあるのです。しかし、神は神であり、良いお方だと信じて愛し続けるのです。
 そして教会の兄弟姉妹が、どんな風に神を愛しているか。その生きざまを見ながら、神への愛の理解を深めたり広げていくことともする世界なのです。

 そういう人々のためには、
万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知って
いるというのです。
 「わたしたち」って誰でしょう。直接的には、この手紙を書いた筆者と、受け取った人たちです。そして、今日本語でこのみことばを読んでいる、聞いている私たちです!

 この手紙は直接的には、「ローマ信徒への手紙」とタイトルがついているように、ローマに住んでいるクリスチャンたち宛に書かれました(学術的にもそれで正しいだろうというのが通説です)。ローマはこの手紙が書かれた約2000年前に、すでに国際的な大都市でありましたし、そこに生まれたばかりのキリスト教会があったのです。

 また書いたのは1:1にあるようにパウロという人物です。それは学術的にも定説となっています。

 パウロなくしてキリスト教は無し、といわれるような重要人物なのですが、実は始めパウロは、クリスチャンを過酷に迫害し、殺しさえした人物でした。それは始め、イエス様が救い主キリスト、メシアであることを信じていなかったからです。
 ルカによる福音書のお話しなどで何回か出てきましたが、イエス様が地上で生きていらっしゃる当時、ユダヤの国では、ユダヤ教のファリサイ派という人々がいて、民衆の生活に強い影響を与えていました。影響といっても、非常に窮屈な影響です

 旧約聖書を真剣に読み、そこに神様が与えて下さった良いものを得たいとファリサイ人らは思っていました。しかしそのやり方として、旧約聖書に記された律法を守るために細かい解釈を施し、細かな規則を厳密に守ることで、神が自分たちの理想を叶えてくれると思っていたわけです。いやそれだけではなくて、それを人々が守るよう押しつけていたのです。
 それはナンセンスなことをして、ルカの福音書の中で、イエス様が安息日に病気の人を癒したところ、「それは安息日の律法を破っている」と裁いた、といった記事を学びました通りです。
 それは人々を幸せにするのではなく重苦しくしていたのです。
 イエス様はそうではなく、神の独り子としての権威を以て主張されました。すなわち、アブラハムが神を信じた「ように」神を「信じる」ことによって、「神が」救ってくださるのだと!

 そして前回、「見よ、神の小羊」と学んだとおり、ご自分が十字架にかけられて死んで下さることを通して、私たちが神の元に帰れる道を回復してくださったのです。
 パウロは、ファリサイ人として、そのことを理解できず、イエスはとんでもない嘘つきで不敬の輩だと思っていました。そしてイエスの復活も、とんでもないいかさまで、イエスの弟子たちというのもとんでもないペテン師で、それなのに民衆の間に影響力を広げていると思っていました。 パウロはまじめに、純真に、真剣にそう思っていたのです。ですから真剣にクリスチャンを迫害し、死に追いやっておりました。

 それが何故、自分がクリスチャンになったか。それは、ご復活のイエス様ご自身が、パウロに現れてくださったからです。
使徒9章に記されています。1節から一緒に読んで見ましょう。ここにサウロとかサウルと書かれているのはパウロが改名する前の名前です。パウロのことです。
さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、
02ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
すなわち、クリスチャン迫害のための旅行の途上にあったんですね。
03ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
04サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
05「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

以上です

「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」
 何と強烈なシーンでしょうか。
 このことが大きなきっかけとなり、パウロはイエス様が救い主であることが分かり、自らクリスチャンとなり、ついには人々にイエス様の十字架の救い、福音を伝える使徒になってしまいました。
 元々、ファリサイ人であったパウロは、旧約聖書を幼い時から何回も何回も、肌に染みこむように読んできたのです。そして、その内容をよ~く知っていた。
さらに、そこに書かれている救いの約束は、その本体はイエス様のことなんだ!ということが分かったわけです。
また、初代教会のムーブメントとでも言うべき聖霊の働きのまっただなかにいたわけです。
当時の聖霊の働きはすざまじかった。ちょっとだけ触れてみましょう。使徒5:14ですね。お読みしてみましょう。

15人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。
ここに出てくるペテロはイエス様の12弟子のペテロです。初代教会の一番初めの頃、ペテロや他の弟子、信徒たちが、聖霊の働きによって、病人を癒すとか、悪霊を追い出すということを当たり前に行っていたのです。ペテロの影がかかるだけで病気が癒されることが起こったとことが記されているわけです。そして大事なことは、そのことをきっかけにイエス様を救い主だと信じてクリスチャンになる人が起こされたということです。
聖霊の働きは、現在の私たちの多くが体験しているように、静かに、あまり外からは目立たず、しかし深いところでなされることもありますし、使徒行伝の時代のようにまあ、激しくと言いますか、なされることもあるのです。
そして、パウロは、聖霊様の働きと言うことをリアルに感じ、体験する初代教会の一員であった。

そしてローマは国際的な大都市です。さなざまな価値観がせめぎあっています。キリストをせっかく信じても、またすごい聖霊体験があってさえ、ちゃんとした指導がなければ迷わされていきます。そんな中にパウロが、行き届いたアドバイスの手紙を送ったのがローマ信徒への手紙です。教理と実践について、当時の現実の中で非常に行き届いた指導として書いています。
パウロは旧約聖書をよく知っていて、なおかつ、イエス様が救い主だとはっきり知り、聖霊の働きを一緒にリアルに体験している。そのアドバイスは正に神が備えたもうたものでした。

ローマ5:21からお読みします。今日はもう語る時間がありませんが、ここはイエス様が十字架にかかって私たち人類の罪の身代わりとなって下さったことを記しているのです。
21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、
これは旧約聖書を通して、ということを言っているんです。
神の義が示されました。
22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。
これはイエス様の十字架によって誰でも自分が持っている罪、犯した罪に妨げられないで父なる神の元に帰ることができることを言っているのです。

パウロはこの根本的なこと。イエス様の十字架があるから私たちは父なる神の元に帰れるのだ、ということを旧約聖書からきちんと、そしてその意味する実体のイエス様について説明して、そして、今朝お開きした箇所にまで来たのです。
 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

もう時間が足りませんから、もっと詳しくは次の回に回したいと思いますが、
神を愛するのは、先ず先に神が私たちを愛して下さったからです。その愛の極致は、ひとり子なるイエス様が十字架にかかった、神の子羊として、私たちの身代わりとなって死んでくださったことです。
しかし私たちが教会に来たりして、くいうお話しに耳を傾けている。あるいは信じてさえいるというそれ自体、考えてみると不思議なことではないでしょうか。
だって、そんなこと聞いたこともない。また、聞いたけれどもそういうことに興味も意味も全く感じない!という人だっているのだからです。

しかし、私たちは現に、神様のこと、イエス様のことに興味を持っている。あるいは信じてさえいるこれ自体実は不思議なことです。そして、それは聖霊の働きです。静かで目立たないかも知れませんが確かにそうなのです。
神を愛する者たち、
の次に、
つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
とあります。
==削除これは先回お話しした、キアスムスという手法の一番短いので書かれています。中心点の最も言いたいのは、
万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
で、神を愛する者たち、がどういう人なのかを後ろから展開して、それは
御計画に従って召された者たち
と言っているのです。==削除

神を愛する者たちイコール、神のご計画に従って召された者たちなのです!
これは、召されているというのは、呼ばれている、声をかけられているっていうことです。

もしも野球を真剣にやってる人がスカウトされたらどうでしょう? 絶対にそのチャンスを逃さないでしょう。そして神様が私たちを呼んでいるのは、手を変え品を変え、声をかけていて下さるのです。

私たちは、自分の人生を真剣に生きてきました。失敗や試行錯誤や、投げやりになったり、また分からないこともたくさんあったけど、いま生きているということはその時、その時、必死で真剣に生きているということに他ならないのです。

私たちを愛して下さっている神ご自身からのスカウトです。オファーです。
自分は神を愛するものだと自覚する方は、その愛をもっと深く、広くしていって下さい。そして、自分は神を愛したく思っているんじゃないかなぁ、興味があるなと思う方は、もっと追究して下さい。そして、今この瞬間、私は神に愛されている、神を愛している、と思ってもいいのです! また愛が冷めてるなぁと感じる方も何回でも愛に目覚めればいいのです。
私たち、一人ひとりの人生に起こった、あるいは起こる万事、全てのことが益となるよう、goodとなるよう、良いことになるように働くのだ、ということを信じて、期待して、求めて生きていきましょう!
お祈り致しましょう。