続 万事が益となるように

メッセージ音声(38分)


続 万事が益となるように
ローマの信徒への手紙8:18~30

おはようございます。
まだまだ寒い日が続きますが如何お過ごしでしょうか?
前回時間が足らなかった、ということもあって、今回「続 万事が益となるように」ということでお話させて頂きます。
ずいぶん前のことになりますが、作曲家の團伊玖磨さんのエッセーが、「パイプのけむり」という本にまとめられ、1冊に納まりきらないで「続パイプのけむり」というのが出、それでも納まりきらないので「続続パイプのけむり」「重ね重ね」という具合に27巻になったそうです。
それにあやかって「続」とつけてみましたが、今回はこれで結びとなるように願っております。ぞくぞくしながら聞いて頂けるかどうかは分かりませんけれども・・・。

では、中心になります8:28を一緒にお読みしましょう。
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

前回は、このみことばに到りますまでの背景、流れと言うことを申しあげました。
前回のおさらいをしてみましょう。
ローマ信徒の手紙は約2000年前、当時すでに国際都市だったローマに、生まれたばかりのクリスチャンの群々に、パウロが書いた手紙でした。一つひとつの集会が、家庭集会に毛の生えたようなものだったでしょう。ローマは、さまざまな思想や宗教が流れ込む、ある意味東京のような、混沌とした都市だったわけで、そこに誕生したばかりのクリスチャンの群れが脱線せず、健全に成長するようにとパウロはアドバイスを送ったと言えるでしょう。
パウロは、旧約聖書のことをよく知り尽くした「旧約マスター」のような人で、その旧約聖書に約束されている救いの正体は、イエス様がキリスト、救い主であるということなのだ、ということを、自らの鮮烈な経験を通して知っていました。
しかも、当時非常にアクティブだった聖霊様の働き、すなわち初代教会というムーブメントのまっただ中にいたパウロが、同じ時代の人間として、にせものに惑わされないように、ということも含め、当時の現実にフィットして、行き届いたアドバイスの書を書き送ったわけです。

その手紙の中でパウロは、イエス様の十字架の購い、身代わりが、救いの中心点、教えの中心点で、絶対にそこを外せないことを、始めにしっかり説明しています。そのあと聖霊が、イエス様の十字架や復活による救いを一人ひとりのクリスチャンに適応してくださるのだ、ということ。そして、そういう中での現実の生活のあり方についてアドバイスしていくわけです。

削除==イエス様の十字架の購いについて記し始められた3:21から、先回も読みましたがもう一度、一緒にお読みしてみましょう。
021ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
 これは、旧約聖書は救い主なるイエス様のお出でを予告するために記されたのだ、ということをパウロが言っているわけです。続けましょう。

22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
これは、旧約聖書に親しんでるユダヤ人だけでなく、全く聖書のことなど知らない「異邦人」、それはもちろん、いま日本に生きている私たちを含めて全ての人が、イエス・キリスト様を信じるだけで、父なる神様に受け入れられる正しいものとされるのだ、ということです。続きを読みましょう。

45003023人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
45003024ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
==削除
前回もローマ3:21からを開いたりしながらそういうことを確認したわけでした。

削除==その神の前に義とされる、正しいものとされるというのは、キリスト・イエスによる購い、すなわち十字架による身代わりの死によってなのだ、ということを、パウロはローマに住むユダヤ人や異邦人のクリスチャンの群に改めてしっかりと教え、そのみことばが今日、わたしたちにも教えられているのです。

そういう救いを一人ひとりの人に、分かるように、受け入れ、信じることができるように働いてくださるのは聖霊なる神様の働きなのだということも、記されているのです。==削除
聖霊の働きは、非常に激しい、外から目立つものもあると共に、もっと静かに、心の深いところや、状況の深いところで起こっている大事なものがあるのだ、ということを先回も、指摘させて頂きました。
外から見て、派手に見える聖霊の働きだって、その派手なこと、あるいは不思議なことを珍しがるのが目的なのではなく、その御業を通して、救い主イエス様を信じ、創造主なる父なる神様に導かれ、神への信頼と愛が深められることが大事なのだということを申しあげました。

そんな聖霊の働きがあったればこそ私たちも、不思議なことに、教会に行ってみようなどという気持ちになり、神様やキリストについて興味も湧き(あるいはこの原稿の文をお読みになり!)、イエス様が救い主なのではないかとだんだん分かってきた。あるいは信じたということが起こったわけです。そして神を愛する者になっているわけです。そういう風に、これまで聖霊は私たちに働いてきて下さいましたし、いまも働いていて下さいます。

それは、夕焼けは当たり前のように見えるけれども、実は大変な出来事なのだ、ということ以上に、実は大変な出来事なのです。あなたの心に、神様ご自身が、ご自分の備えて下さった救いを届けていて下さるのですから!
そういうことはどうやったら起こるか。起こってくるか。
ヨハネ3:8にあるように、「風は思いのままに吹く」ということであって聖霊様の働きは、聖霊様が、ご自分の自由において自由にそれをなさいます。いろんな出来事や人や状況をお用いにもなって事を起こされます。

削除==しかし、私たちに最も身近で、分かりやすく、健全なもの、また基本的なものの一つは、私たち一人ひとりが、父なる神様やイエス様に向かって祈ることです。
その祈りは多くの場合、私たちが問題課題に直面して、どうしたらいいのだろう、というときに「神様助けて下さい!私は今、こうこうこういう課題に直面しています。どうしたらいいか教えて下さい。解決へ導いて下さい」といった祈りをすることから始まって参ります。
「解決への知恵を与えて下さい。助け人を送って下さい」という祈りであるかも知れません。しかし祈り続けているときに、何ごとかが起こってきます。そして神様が静かに、あるいは静かでなく、出来事に関与して下さったことを私たちは知るようになり、神様への愛と信頼が深められていきます。==削除

こういう、祈りによって神様が「分かる」世界を、1970年代の日本で、ある方が、子ども向けの賛美歌にして作りました。私たちが礼拝で使っている新聖歌にも入っています(482番)。「祈ってごらんよ分かるから」という歌です。
実は播州地区に住んでおられるある牧師さんが、この歌に深く関与しておられます。こんな歌です。知ってる方は一緒に歌って下さいね。

きみは神様にネ、話したことあるかい?
心にあるままをうち明けて
天の神様はネ、きみのことなんでも
わかっておられるんだ なんでもね
だから空仰いで 「神様」とひとこと祈ってごらんよ
わかるから!
小川のほとりでも 人ごみの中でも
広い世界のどこにいても
本当の神様は今も生きておられ 
お祈りに答えてくださる


(▲播州のある人たちによる収録。ちょっと崩して歌ってますね)

私の妻のお母さんが、名前は静子というのですが子どもの頃、戦時中でした。静子のお父さんはクリスチャンだったのですが小学校の校長をしていて、戦時中の事情があって、自分の子どもたちにも自分がクリスチャンであることを言っていなかったのですね。
ところがお父さんの部下である教員のひとりがある日、生徒である静子に、イエス様の絵が印刷されたカードをくれて、「あなたのお父さんはイエス様を信じておられるんですよ。だから何かあったらイエス様に祈ってね」と教えてくれたのです。
それから後、森のようなところを通って、弟と一緒にある家を訪ねることになった。ところが途中で道に迷ってしまった。
その時に、担任の先生から聞いた話を思い出し、イエス様の絵の描かれたカードを取り出してお祈りした。そうしたら無事に辿り着くことができた。そんな風なお話しをお義母さんからお聞きした覚えがあります。

小さな小さな話ですが、私たちは、そういう「祈りへの応え」ということを経験してきたのです。それは、世界中のクリスチャンや、知らず知らずであってもイエス様を求めている人々が経験しています。またそのことは、歴史を通じて、いろんな時代に密かに体験されてきたことでしょう。
削除==そういう祈りの祈り方のかたちもいろいろあるでしょう。
シンプルなのは、一人で誰にもきかれないところで、できれば声に出して、手を組んで眼をつぶって、目の前に父なる神やイエス様がいらっしゃって聴いていてくださると、そういう意識になって(といっても、多くの場合、その姿が見えるわけではありませんが)、
何でもお話しを申しあげればいいのです。「今日、三浦という人からこうやって祈れ、と言われたので、こうやって祈っています。あなたは私の祈りを本当に聞いて下さってるんですか? 私が分かるように、また教えて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」。極端な話、そういう祈りだって良いわけです。==削除

そして今回は、祈りについて私が経験して、私にとって一番祈りやすいというか、思い切った言い方をすると「効果がある」と感じた祈り方について、残る時間シェアーさせて頂いて結びとさせて頂きたいと思いますシェアーさせて頂きます。
自分に効いたクスリが万人に効くかどうかは分かりませんが、自分にとっては効果があったので、あくまでご参考までにお話ししたいと思います。

削除==以前のこと、からだが病気になったり、その後、困難な出来事が立て続けにあり、その中でメンタルが落ちたりということがあったんですね。==削除
以前のこと非常に落ち込んでしまった時期があったのです。

そういうなかで、昔の事が思い出され、「あの時ああしていたら、こうしていたら」という非常な後悔が出てきた。もちろんそのことを悔い改め、イエス様の十字架によって赦して下さってるということも信じるけど、救われたような気持ちにならない。
そういうなかで私は、「状況がどんなであっても、父なる神様は私のことを愛して下さっているということが分かるように、感じることができるようにして下さい。生きていて良かったなぁと思えるようにして下さい」と祈るようになって来ました。

削除==そして、過去を悔やむことを、スクリュー式にドリルでねじ込むように考えてしまい、最後にはそのことを考えていなくても、いつも、その穴だけが残っているという、辛い状況になったのです。本を読むことも聖書を読むことすらできない状況になりました。その何週間か後に、そこから脱出の第一歩を助けてくれる本がありました。その本のことは今日は割愛します。

そんななかで、「神様助けて下さい」「あなたに確かに愛されているという実感を与えて下さい」「あなたの愛が分かるようにして下さい」と祈り続けていました。==削除
ある日、1日中祈って、しかし、おこたえがあったような感じが乏しく、しかし最後に聖書にみことばが心に響いたように思ったんですね。「人がその友のために命を捨てる。これよりも大いなる愛はない」というみことばです。

しかし、「みことばだけかい!」という思いを抱いたのも実感だったのです。

当時の祈り方として、ある意味すごく正直に、自分の気持ちを神様に激しく「ぶつけて」祈るというやり方をしていました。
なかなか祈りが聞かれたという実感を得られないので、比喩的な言い方ですが神様の襟首を掴まえて、「なんであなたは私の祈りを聞いてくれないんですか!私を無視してるんですか!」という感じで祈っておりました。時には聖書をバンと壁に投げつけることすらあったのです。
当時、相談にもらっている遠隔地に住む友人も、「そういう祈りが良い」と言ってくれて、その方針で祈っていました。ところが祈りが聞いて頂けたという「感じ」がしないのですね。

ところがある日、その友人の論調がちょっと変わりまして、メールでこう言ってきたのです。「三浦さん。やっぱり神様にもっと感謝するとかそういうことでないとダメだと言うことが分かりました。私自身そういう風に祈ったら、願っていたこともすっと応えられる経験をしました。ですから三浦さんもそうして下さい」というメールが来ました。しかし私としてはかなり釈然としない気持ちだったのです。釈然としない気持ちのまま、夜寝て次の朝起きました。
するとですね、私の机の上は結構散らかっているのですが(^o^)、右の隅だけが異様に片付いていて、そこに一冊の本が、裏返るでもなく斜めになるでもなく、すっと置いてあったのです。それはまるで「これを読め」と言わんばかりでした。家族が置いたわけでもありません。考えれば前日、隣の本棚の本がばらばらと何冊か落ちて、棚に戻した記憶がありましたから、その時にそうなったのでしょう。

その本自体は、もう一人別に相談していた遠隔地の牧師さんが勧めて下さり、ネットで買って一度は読んでいた本でした。
それがこの、マーリン・キャロザースという方が書いた「獄中からの讃美」という本です。
これは実践に関することですから、キャロザースさんが言ってること全てを全面的に賛同して取る必要はないわけです。
ただ、キャロザース先生の言っていることの大事な中心点は、的を外していないし、また、祈りの方法論において、私は非常に健全で、役に立つものと思うのでご紹介したいと思います。

結論からひと言で、キャロザース先生の提案を言いますと、

自分の身に起こってくる全ての出来事について、それが悪い出来事であっても、それは、神様の許可がなければ決して起こらなかった出来事であるのだから、その出来事について悪いことは悪いとしっかり認識しながら感謝し、その感謝を以て、願いの祈りも捧げなさいということです。

この本の最も大事なところからご紹介します。イエス様の十字架のことを言っています。
キャロザースさんは、1960年代米軍のチャプレンをしていた方なのですが、牧師室に来る人たちの深刻な心の問題や家族の問題に応えてあげたい。しかし届かない自分に申し訳なさを感じていた。そしてどうしたら良いか祈り求めていた。
そんななかで聖書を読んでいて、神様に全てのことを感謝するということをすればいいのだ。その辺に秘訣があると分かってきた、というのですね。
しかし、どうやったらどんなことでも感謝できるのか分からない。それで分かるようにして下さいと祈り求めておられたのですね。

そんなある日、祈っていると父なる神様の語りかけが聞こえたというのです

以下本から抜粋
1) 父なる神は、御子が十字架で苦しんで下さったことを喜んで欲しいと願っている。そして、御子の苦しみ以上のものでない限り、人生で起こるどんなことも喜んで欲しい。神とその約束をした
2) 次の朝、「ベッドからまだ起きたくないと」と思っている時、父なる神様との会話。率直で正直な神様との会話。そして、それを喜んで下さる神。
3) 信号の話。全てを神が支配しておられる。率直で正直な神様との会話。そして、それを喜んで下さる神。
4) クルマの修理の話。神の許可がないと誰もお前を傷つけたりできない。だから安心していれば良いのだ。率直で正直な神様との会話。そして、それを喜んで下さる神。

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そして、神様が個人的に教えて下さったことを人にも教えてあげて良いか祈り求め、許しがあったのでそうするようになりました。そのことが、多くの人々の問題に解決をもたらすことになりました。それと共に、その人々がイエス様を信じる信仰を持ったり、神様への愛や信頼が深められることになったという実例を10も11も書いておられるわけです。
その一つだけ、ご紹介しましょう。

==原稿直し未完成 音声参照のこと==
私自身、全てのことを感謝するという取り組みを初めてたいへんにヨカッタということを申しあげたいと思います。
この取り組みも大きく効果があって、メンタルの課題からも脱出することができました。

最後にひと言だけ申しますと、この本にも指摘されているのですが、自分の弱点や弱い性格などについても、悔い改めるは悔い改めると共に、「そういう自分であることも、あなたの許可がなかったらそうならなかったのだから感謝します」といつも言えることはとても良い、ということを体験しています。

たとえば、自分がしないといけないことができないことについて「このくらいのことできないなんて、自分はどうしようもない」という気持ちが起こってきたときに、「神様。私がこういう自分であることも感謝します。その感謝を以てあなたにお願いします。もっとこれこれできるようにして下さい」と祈れることは、精神衛生にヨイ、という以上の、こころの深いところでの効果をもたらしているようです。

もう時間になりましたので終わりたいと思いますが、好評であれば、またこういうお話しを申しあげたいと思います。

お祈り致します。