春よ来い 受難節に思う

メッセージ音声(25分)


春よ来い 受難節に思う 3月18日礼拝説教 ルカ18:31~19:10
新聖歌20主の真実はくしきかな/107十字架の上にて/233驚くばかりの
春よこい_scale(x2.000000)

 おはようございます。
まだ寒い日が続きます。
(講壇の梅の生け花に言及)
家ではまだ、暖房をかけて過ごさせて頂いています。18畳をカバーできるダイキンのエアコンを昨年、特価で設置しましたので、人がいる部屋に暖かい空気が行くように、あっちのドアを閉めこっちのドアを開けという具合にやりくりしております。

さて、キリスト教の暦ではいま、受難節(四旬節とも)という時期になっております。
今年のイースター(復活祭)は4月1日なのですが、そこに向けて、イエス様が私たちの身代わりに、苦しみを受け、十字架で死んでくださったことを特に覚えて過ごす期間であることです。
毎年受難節の時期はまだ寒い季節です。

しかし、もうすぐ春がやってくる。必ずやってくるのです。
もしも春夏秋冬という四季のない、非常に温かい地域から日本にやって来た人が、冬にやって来たのなら、きっとこう思ったことでしょう。
「日本って寒い国なんだ。凍るような寒さだなぁ。一年中、こんな寒さの中で過ごさなければならないのか」。

しかし、真相は異なります。冬に続けて必ず春がやってくるのです。温かい季節が巡ってくるのです。
人生においても時代においても、冬のような時があります。
それは厳しい時です。寒さに耐えてこごえているような時であるかも知れません。

 今朝お読みしたみことばの最初の部分で、イエス様は、ご自分にとって正に、厳しい寒い冬にあたる季(とき)がやってくることを予告しておっしゃったのでした。
 それでは、ご一緒に18:31からお読みしましょう。
31イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。
32人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。
33彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。
 ここまでに致しましょう。イエス様にとって非常に「厳しい」、という以上の局面がやってくるというのです。
 ご自分が引き渡され、侮辱され、乱暴され、唾をかけられ、鞭で打たれ、そうしておいてから殺される、ということを予告しておられるのですから!

しかしそれと共に、33節後半に、こう記されていることも心にとめなければなりません。すなわち、
そして、人の子は三日目に復活する。」

 その復活は、季節に例えれば、凍りきった大地から命が萌え出で、いきとしいけるものが命と活気に満ちあふれる春の訪れに例えることができるでしょう。
 冬が来れば必ず春が来るのだ、ということを私たちは忘れてはいけません。

 しかし、34章を見ますと、お弟子さんたちは、イエス様の仰っていることが理解できなかったと記されています。
34十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。
と記されている通りです。
また、34節全体を、元の言葉を直訳するとこんな感じになります。
そして彼らは、これらについて何も分からなかった。そして、この(お話しになった)言葉は彼らから隠されていた。そして、言われたことを理解しなかった。

十二弟子っていうのは、イエス様の言ってる大事なことについて、分からなかった、隠されていた、理解しなかった、と3重に念を押して、アカンな~、と評価されてしまっているわけです。と言いますより、ルカが取材したとき、まだ存命だった十二弟子のなかの誰かが、当時を思い出して、つくづくと述懐したのでありましょう。

「いや~、イエス様はご自分が十字架にかかられて、よみがえられる前から確かに、そのことをはっきり仰ってたよ。しかしわしら十二弟子は当時、そのお言葉を分かってなかったんだよなぁ。今から思うと、何回かおっしゃってたはずなのに、なんかいつも、その言葉が隠されてるみたいだったなぁ。そして、俺達はいつも仰ってるそのことを理解しないものだった・・・」
(注:隠されていた、分からなかったは、ギリシャ語動詞の時制として未完了過去形で書かれ、繰り返して、習慣的に・・・といった意味が出る)

私たちの認識ってそういうところがあるのかも知れません。
とっても大事なことを言われていたのに聞いていなかった、聞けていなかったというようなことがあれば大変です。
命にさえ関わることがあるかも知れません。
たとえば、ここはガスが充満していますから火気厳禁ですよ、と言われたとしましょう。それを非常にさり気なく「火気厳禁でね」「火気厳禁でね」(軽い口調で)と言われようが、重々しく強く、「火気厳禁です」と言われようが、もしも燃えやすいガスが充満しているという「内容」が事実であり本当であるなら、その言葉をしっかり聞いて、火が出ないようにすべきです。

さっきのガスの喩えの場合、不注意で、気持ちが散漫で、聞くべきことを聞いてなかったことが起こるってことでしょうが、それとは別に、
私たちは、「聞きたくないことだから聞いていても聞いていない」「都合の良いことしか聞こえない」という性質を持っているかもしれません。そりゃ、自分の師が、これから十字架にかかる、なんて聞きたくもない。だから復活のことを続けておっしゃったことを含めて、それは確かに物理的に耳には聞こえても、脳は、そして心は、右から左に流してしまう。

私たちにもそういうところがあるかも知れません。自分に都合の悪いことは、聞いてるけど聞いてない。それは普通の人間の性質、人の常、というかサガと言っても良いかも知れません。
そういう、自分にとって都合の良いことしか認識しないという問題は、見るということにおいてすら同じでしょう。

先日、クルマで走っていましたら、こちらの信号が青でした。ですからもちろん走り抜けようとしたのです。ところが、横の赤信号の側の細い道から一台の車がすーっと横切ってきました。
あっけにとられて、こちらが止まって事なきを得ました。

あっけにとられながら、通り過ぎたクルマの方を見ると、運転手は何か戸惑ったような顔をしていました。
瞬時の出来事でした。おそらく、ちょっと複雑な作りの交差点だったので相手は、自分の方が赤であることを見たのに、それを認識しなかったか、あるいはあまりクルマが通らない道なので、クルマなんて来ないだろうと勝手に思い込み、赤信号を見たけど「見ない」で突入したのかもしれません。

人生においてそういうことがあって、大惨事になったら大変です。
また逆に、自分の方に青信号が出てるのにいつまでも止まったまま、なんてこともあるかも知れません。それはまたそれで残念な、悲惨なことかも知れません。

そこで大事になるのは、私たち人間の側が、大切なことを正しく聞いたり見たりできるようになることではないでしょうか?

ですから、このエピソードの次に35節から、見えなかった人が見えるようになったというエピソードが記されていることは大変意味が深いのです。

35節からお読みします
35イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。
42018036群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。
42018037「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、
42018038彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。
42018039先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
42018040イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。

では続きを一緒にお読みしましょうか。41節からです。

42018041「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。
42018042そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」
42018043盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

ここまでに致しましょう。
文字通り、目の見えない人をイエス様が見えるようにして上げたというエピソードです。
そして、この場所にこの記事が記されていることの意味深さを思います。

人生において大切なものをイエス様は見えるようにして下さるお方です。聞こえるように、分かるように、理解できるように、そして隠されていたものを明らかにして下さるお方です。
私たちも、父なる神様、イエス様に向かって、私が見るべきものが見えるように私の目を開いて下さい、聞くべきことが聞けるように私の耳を開いて下さい、という祈りを献げるべきなのかも知れません。

もう一度、39節から見ましょう。
42018039先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
42018040イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。

41「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。
42018042そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」

この人が必死になってイエス様を呼び止めたのは、見えるようにして欲しいからというのは「分かりきったこと」ではないでしょうか? しかしイエスは「あなたは何をして欲しいのか」とお問いになった。
もしここで、彼が「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言わなければ、彼が見えるようになる出来事は起きなかったかも知れません。しかし彼は良い答えをし、イエス様は答えて下さった。本当に、この人自身にとって良かったことと思います。彼はどんなにかイエス様に、そして父なる神に感謝したことでしょうか。

前回のお話しで私自身の体験として、人生の苦難のなかで日々の祈りが導かれて行ったことをお話ししました。
そして、「父なる神様、どういう状況の中でもあなたが私を愛して下さっていることを私が分かるようにして下さい。私が生きていてよかったなぁと思えるようにして下さい」と長い間祈っていました。
しかし、その祈りが聞かれた実感がありませんでした。

ある日、一日中祈って、その祈りの最後に、
人がその友のために命を捨てる。これより大いなる愛はない、というみことばが心に響きました。
ああ、みことばを語って下さったかなという印象はありましたが、正直言って、「ことばだけかい」と思ったのも事実です。

しかし、後になって考えてみると、そのみことばが、どんなに私にとって大事なことを語りかけて下さっていたかが分かったわけです。
そういうことを前回お話しさせて頂きました。もし気になられたら、インターネットで音声や原稿を公開していますのでご確認になってみて下さい。

そして前回、証ししましたように、主は鈍い私に、しかし一生懸命求めている私の為に、スペシャルなことをして下さいました。
それは、遠くに住んでいる信仰の友とのメールのやり取りの中で、「神様にもっと感謝するとか、賛美するとかをしたらいいですよ。三浦さんも是非そうして下さい」と勧められ、
 その夜は釈然としないままとこにつき、次の朝起きたら、
いつも散らかっている私の机の一角だけが異様にきれいに片付いて、そこに裏返るでもなく傾くでもなく真っ直ぐに、一冊の本が置いてあった・・・。
それは正に、「私が読むべき」本でした。そしてその本を読みました。そして祈りについて実践すればよいことを教えられ、実際にそのようにし始めました。

それは、自分の人生、生活に起こってくる全てのことについて、悪いことでさえそれは神様のお許しがなかったら起こらなかったのだから、感謝するという祈りの取り組みです。
その結果は、正に私にとって、目が開かれる、耳が開かれるということになりました。また、その本を読むようになるプロセスそのものが、目が開かれ耳が開かれることでした。

結果として「父なる神様が私を愛して下さっていることをおしえてください。生きていて良かったなぁと思えるようにしてください」という祈りは私が願ったように叶えられました。それ以上に、思っても見なかった、その他のことへの願いも答えられ始めました。周囲の状況は冬のように厳しいものが残ったとしても、心の中の大切なところに春がやって来たのです。

 祈り祈り求め続けることに、神様は答えて下さるなぁ、と実感したものです。ですから皆さんもあきらめないで、祈りにおいて主に願い続けて頂きたいとお勧めします。

 先回お話しさせて頂きましたが、そのように私たちの人生に春がやってくるのはイエス様が十字架にかかって身代わりとなって苦しんで下さった、死んでくださったから、という裏付けがあります。
 19章1節から、ザアカイさんのエピソードが載っていますが、このザアカイさんも、外見上はお金もあり何不自由ない生活を送っているが、心の中は寂しく、冬の風が吹きすさぶような毎日だったのです。しかし、イエス様がザアカイのところに来てくださったのでザアカイの人生に春がやってきました。9、10節でイエス様はおっしゃいます。
「今日、救いがこの家を訪れた。
10人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。

それは軽い無責任な言葉だけの言葉ではありません。キリスト、メシア、救い主なるイエス様の救いの約束、宣言は、ご自分が十字架にかかって、その人の身代わりとなってくださったことのみによって成り立っているのです。
 私にとっては、イエス様に訪れた十字架以上に酷い出来事でない限り、人生に起こってくることを全て、父なる神様に感謝することを教えられたこと自体が、人生の春をもたらしてくれる出来事だったのです。

 私たちは人生の冬のような時になってしまってから、はたと、自分は冬のまっただ中にいると気付くのです。
 それでいいのです。人間って正にそういうものです。

 しかし、その時にこそ、人生に春がやってくる。
 それは、イエス様が十字架という冬を通って、だからこそ復活の春をお迎えになったことに、私たちもあやかっているのだ、ということに思いを致し、またそのことが自分にとって現実になるように祈り求める恵みが与えられていることです。

10人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。

 いま冬の中にいる人がいるとするならば、イエス様の方こそ、あなたを捜して救おうとしていてくださっていることを思い出して、もう一度希望を以て下さい。そして新たな気持ちで祈り求めて下さい。春があなたに来ますように! 春よこい!
お祈り致しましょう。
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