オーナーは命賭け(受難節)

メッセージ音声(29分)


オーナーは命賭け(受難節) 3月25日礼拝説教 ルカ20:9~19
新聖歌9力の主を/102主は命を/145栄えに満ちたる

 皆さんおはようございます。
 先週火曜日に、敬愛する舛田信一先生がみもとに召され、私たちは悲しみの中にいることです。
信一先生とお別れに21日水曜日の朝、ここに駆け付けますと、お顔がとても平安でした。先生は旅行が大変お好きだったことですが、まるでこれからわくわくしながら旅行に出発なさるような、そんな嬉しそうな表情を浮かべてらっしゃるとさえ思うほどでした。

思いますと、ヘブライ人への手紙11:13に「私たちは地上では旅人であり寄留者である」(新改訳)と記されているように、人生そのものが旅のようなものであるわけで、その旅の全ての道のりを、ご家族や、教会の皆さんと、おしゃべりを楽しみながら歩き通されて、日々充実した楽しい歩みであられたことと思います。
父なる神の身元への最後の大旅行は、その準備も大変であられたかもしれませんが最後まで、愛する人、愛する人々からの配慮を受け、またご自分も主にある愛を示されながら過ごされたことを思い起こし、寂しさの中にも清々しいような思いを抱かせられるほどです。
 西江井島(にしえいがしま)病院に入院中に、看護婦さんたちが病室に入れ替わり立ち替わり来られて、「どうやったら、先生ご夫妻のように夫婦円満になれるんですか?」と聞かれたとおっしゃったことなど懐かしく、意義深く思い出している次第です。
 私たちも信一先生の良き見本に見習って、神様と人を愛する生き方に励んで行きたいことと思います。

さて、今朝お読みしました箇所は、イエス様が十字架にお掛かりになる直前にお話になったたとえ話の一つです。

ぶどう園ということが出てきます。
 ぶどう園は、イエス様の時代、大変身近なものだったでしょう。それを使ってイエス様は分かりやすいたとえ話として、大切なことを教えて下さったわけです。

それでは、ご一緒にお読みしてみましょう。ルカ20:9からです。
09イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。
42020010収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。
42020011そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。
42020012更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。

 はい。ここまでに致しましょう。9節の「ある人」がぶどう園を作った。そして農夫たちに貸したわけですね。
 「ある人」はぶどう園作りという事業を作り、農園を作ったわけです。
 そのための土地も手に入れなければならないし、水を引いて来ることも大変な事業だったでしょう。土壌の改良だって必要かも知れません。また、ぶどうの丈夫な苗をたくさん調達してきて、上手に植えなければなりません。
 そのためにお金を出し、人も集め、そういうすべてが上手く運ぶように計画し、気を配ります。
オーナーはそのぶどう園実現のために、大変ご苦労をなさったわけです。そしてもちろん、そのぶどう園に格別の愛着があるでしょう!
 それが美しく完成したということは、それがこれから本格的に運用されて目的を果たしたり、利益を上げたりするのはこれからなのだ、ということですね。
  その時に、そのオーナーさんは「長い旅に出た」。どこにいったのでしょうか? いや、これはたとえ話ですから、あまり想像力を膨らませすぎず、たとえとしていいたいことを把握しなければなりません。

 まあ、オーナーさんは、そのぶどう畑事業を直接自分が管理するのではなく、自分は「離れたところ」に行った、というわけです。そして、管理についてはすべて任せてしまった。
 そして、10節にあるように
 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。

この箇所を、新改訳聖書では、
10そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。
と訳しています。

ぶどう園のオーナーは、農夫たちと約束、契約を結んでいたのでしょう。収穫があったらその何十パーセントをオーナーに収めるとか。
そういう想定であることは、
収穫の時になったので
 という言葉で分かります。
 オーナーさんは正当な分け前をもらおうとしたのです。ぶどう園に権利もなく、何の貢献もしていないのに横取りをしようとしたわけではありません。
 といいますか、ぶどう園は元々、オーナーのものなのです。

 ところがあろうことか、10節後半から、
農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。
42020011そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。
42020012更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。

 とんでもない連中です。遠いところにいるオーナーに、正当な分け前を払うのが惜しくなったのでしょうか?

 イエス様のこのたとえ話は、直接的には、天地を創造された父なる神様と、ユダヤ人の関係のことを言っています。そして、その同じ父なる神様と、私たち全人類との関係のことを言っているのです。
 ぶどう畑のオーナーにたとえられているのは父なる神さまなんですね。
 そして、農夫たちは私たち人類です。
 神様はご自分のご目的をもって、ぶどう畑ならぬこの全世界、全宇宙をお造りになりました。
 そして、それを私たち人類にお貸しになったというわけです。
 これが聖書の観点です。
 人類は、自分たちこそ世界の主人公であり、オーナーだとさえ思い込んでいるが、実はそれは神様から貸して頂いたものなのです。それが聖書のメッセージです。
 そういったことは創世記の時点から記されています。創世記1:27から見てみましょう。ではご一緒にお読みしてみましょうか。

27神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
01001028神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

 この「従わせよ」「支配せよ」と言われている言葉は元来「お世話する」という意味の込められた言葉だと今日言われております(ジョン・パスモア、1974)。
地に満ちて地を丁寧にお世話せよ、というわけです。別の言い方をすればスチュワードシップです。スチュワードというのは、いわば執事とか、番頭さんですね。
主人から財産やお屋敷やお店や事業を任されて、賢く管理するべき人のことです。
ぶどう園の農夫たちというたとえで言われているのはそういう立場です。賢くぶどう園を管理し、お世話し、良い収穫があるように努めるべき立場です。
こんにちの世界においても、私たち人間は、自分に預けられた財産、それは立場や能力や知識といったものを含めて、それを大事にし、それを用いて、世界を良くするようそのお世話に努めなければなりません。
私たちはどんなに能力や立場があっても、この世界の真のオーナーが、天地をお造りになったまことの神様だということへのわきまえを忘れてはなりません。

 父なる神は、御自分がお造りになった世界を人間にすっかり「与えて」しまったわけではないし、ましてや世界をお捨てになったわけでありません。ルカ4:6の荒野の誘惑で、悪魔がイエス様に嘘を言ったように、世界が悪魔のものになったわけではないのです。
 神様は今も、私たちがこの世界というぶどう畑で、私たちの為すべき勤めに励むようにと期待しておられます。

さて、オーナーは、しもべたちをぶどう畑に送って、分け前を求めました。これは、オーナーにたとえられる神様が私たちに、神様の当然受けるべき分け前をお渡しするようにお求めになっている、ということです。

神様がお求めになる分け前って何でしょう? それはシンプルに言うと私たちが、神様に喜ばれるような生き方をする、ということです。そして、神様に感謝や賛美をするということです。そんな、人間が正しい生き方を求めて生きていることや、神を賛美して生きていることは、神様の当然お受けになる分け前です。オーナーである神はそれを受け取ろうとした、ということですね。

子ども向きの賛美歌でこんなのがあったのを思い出しました。「私のように小さな子でも」で始まる賛美歌です。ちょっと歌ってみます。非常にシンプルな賛美歌ですが、幼子のような心になって聞けば、神様の前に正しく生きたいという願いや、神様への感謝と言うことを素朴に歌っていることと思います。

1.わたしのように ちいさな子でも
  まごころこめて 主をたたえれば
  主のみこころに かなうでしょうか
  感謝します   感謝します  
  感謝します   神様
2.ことりのこえや きれいなもみじ
  やさいくだもの うみでとるもの
  ふたおや兄弟  ともだちなどを
  感謝します   感謝します  
  感謝します   神様 

オーナーはしもべたちを送ったというのは具体的には旧約聖書の時代、預言者がユダヤ人たちに送られたことを指しています。そのメッセージは聖書に記されて今、私たちはそれを読むことができるわけです。
例えばアモス書5:23、24には次のように記されています。一緒にお読みしてみましょう。旧約の1436㌻です。

23お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。
30005024正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。

これは、23節で、神殿においては宗教行事を麗々しく大袈裟にやっているけれども、その日常の生活においては、不正や誤魔化しがまかり通って、それを何とも思っていなかった当時のユダヤの民に預言者アモスが伝えた神様の言葉です。
まさに、世界のオーナーがしもべたる預言者を遣わして、神様の当然受けるべき分け前をちゃんと返すように伝えたわけです。
また今日では、命を賭けてまで本当の大事なことを報道してくれるジャーナリストも、そういう預言者的な勤めを果たしてくれているのかも知れません。

しかし、人類の多くはどのようなことをしたか。その神のしもべを袋だたきにして追い返した。侮辱して追い返した。そして傷を負わせて放り出した、というわけです。
 では、オーナーはどうしたか?それではみことばの続きを読みましょう。

42020013そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』
42020014農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
42020015そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。

ここまでにしましょう。これは父なる神様が、ご自分の愛するひとり子であるイエス様をこの世にお送りになったことを指しています。
 農夫たちはしもべたちのことはないがしろにしたり傷つけたりしたが、御自分の実の子どもなら「敬ってくれるだろう」とお考えになったというのです。ここに父なる神様の切実な思いが伝わって来ます。

 ところが農夫たちは
『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
と話し合って、
42020015そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。
というのですね。これは正に、イエス様御自分がもうすぐおかかりになる十字架のことをおっしゃっているのです。
 そして、その十字架こそが、神様のことや隣り人のことなど忘れて、自己中心な生き方に走る私たちの罪を赦すためであり、また私たちをきよめて、私たちの生き方を変える聖霊様を送って下さるためであったのです。

そのことが17節でイエス様が
『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』
と仰ったことの意味しているところです。

そろそろ結びとしたいと思いますが、さきほどの子ども賛美歌の3番がありまして、それは次のような歌詞です。
3.なにものよりも つみやあやまち
  おゆるしになる イェス・キリストを
  くださいました ちちなるかみに
  感謝します 感謝します 感謝します 神様

 父なる神は御自分の御子であるイエス・キリスト様を、御自分の作られた世界に送って下さった。それはイエス様が殺されてしまう、ということを承知の上で、その十字架こそが人類の隅の親石となることをご計画の上でそうしてくださったのです。

ヨハネ3:16に次のように記されています。

3016神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
43003017神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

イエス様は、神様のたった独りの独り子です。その方を世に遣わしてその方が十字架に掛かって死んでしまったら・・・。それはいわば、父なる神様が御自分のいのちを差し出して下さったのと同じです。オーナーはイエス様のたった一つしかない尊い命をかけてくださったのです。

 世界のオーナーは世界と私たちのために、独り子イエス様のいのちをかけて下さったのです。私たちはそのイエス様の十字架の愛に感謝して、日々を生きて参りましょう。