復活なかりせば

メッセージ音声(祈り除き38分)


復活なかりせば
Ⅰコリント15:12~28
新聖歌23父の神よ/38わが目を開きて/123救いの主は

christs-resurrection-key-to-our-salvation

==本番はこの原稿より追加しています。H兄のこと。新天新地に関するイマジネーション==
 皆さんおはようございます。
 今年は桜が早く、先週のイースターの頃が満開でした。皆さんはお花見などなさったでしょうか?
 さて、先週の礼拝ではイエス様の復活をお祝いになったことですね。

 今朝は、イエス様の復活がある故に、私たちの復活も約束されているということを、信一先生のことを偲びながら、みことばから確認したいと思います。
 それでは、先ず、お読み頂いた中から15:13、14を一緒にお読みしてみましょう。

13死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。
14そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。

ここまでに致します。

 キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
いかがでしょうか? 非常にガツンと来る、重みのある言葉です。
このあなた方、というのは正に、日本語でそれを読んでいる私たちに向けて語られた、大胆な宣言のことばであることを受けとめましょう。

そのためにみことばを注意深く見ていきたいと思います。
まず、このコリント信徒への手紙第一を書いた人物は、1:1にありますようにパウロです(学術的にもパウロが著者であることは通説となっています)。そして、それを書かせたのはご聖霊様であるし、またこの手紙がこのかたちで残るように、新約聖書に収録されるように、また日本語に正しく翻訳されるように、すべてに聖霊様が豊かに働いていて下さった結果、私たちに届いています。そして、今それを聞いて感動を心に覚えることも聖霊様の働きであることを覚えます。

手紙を受け取った第一読者は2節にありますように、コリントという都市にあるクリスチャンたちの群です。

さて、この手紙が書かれたのは、新約聖書の中でも最も早い方で、紀元55年頃と言われています。
イエス様のお誕生が今から2000年と少し前の紀元前4~6年頃。そして十字架で亡くなられ復活なさったのが紀元30年頃ですから、手紙は、その十字架と復活から約25年経った頃です。
私たちに当てはめれば約25年前と言えば1995年頃ですね。その頃、阪神大震災があったわけです。震災をリアルに体験した私たちはまだ生きていますし、その記憶も思い出せば生々しいものがあります。
コリントの信徒へのパウロからの手紙を最初に受け取って読んだ人々にとって、25年前の十字架と復活の記憶はどんなものだったでしょう?

その人が当時20歳だったとすれば、手紙を読んだときは45歳ということですね。
イエス様がエルサレム近郊のゴルゴダの丘で十字架に掛けられた時、過ぎ越の祭という大きな祭りの真っ最中でした。そのために、広大なローマ帝国の内外に離散しているユダヤ人たちが、本国のエルサレムに帰って来ておりました。そして、そこで十字架の出来事を目撃したわけです。
その人々がエルサレムから再び、いつも住んでいるところに帰って行った。そのようにニュースは広いローマ帝国の内外に口コミで広がったわけですね。

ではここでルカ24:13~24を一緒にお読みしてみましょう。昨年のイースターで、一緒にお開きした箇所です。
イエス様が無残にも死んでしまったのだから、エルサレムに集まっていたイエスの弟子集団はもう解散、と思って、自分の故郷にでも向かっていた2人の弟子たちに、よみがえられたイエス様が現れて下さった、という記事です。よろしいでしょうか?

13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
14この一切の出来事について話し合っていた。
15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

ご復活されたイエス様がこの二人の弟子と一緒に歩いてお話し下さったわけですね。続きを読みましょう。

16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

はい。そこまでにしましょう。ここで分かりますのは、祭りのためにエルサレムに滞在していた人なら誰でも、イエス様が十字架で死んでしまった事件を知っていて当たり前、という前提があると言うことです。

「え?エルサレムでなんかありましたっけ?」なんて聞く人は、阪神大震災の時明石にいたのに、地震のことを知らなかった、と言っているようなものなのです。
このことは、イエスの弟子であろうがなかろうが、あの日エルサレムにいた人ならば共通しているわけです。

しかし、その続きのストーリーは、この2人がイエス様の弟子であらばこその出来事でした。続きを読みましょう。
19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。

そしてその3日後、イエス様がよみがえったと言い出した弟子仲間がいたのだが、自分たちはその話を聞いてわけがわからなかった、という話をするわけですね。そして25節

25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。

飛ばしまして30節。
30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」

いかがでしょうか? この2人は、イエス様がよみがえられて、自分たちと一緒に歩きながら教えて下さったことを体験したのですね。さらに続けて、2人の弟子はもう夜中なのにエルサレムにとって返した、ということは昨年のイースターのメッセージで申しあげた通りです。
そして、エルサレムでは使徒たちや弟子仲間が集まっていた。そして
本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。

そこに加わった2人の弟子は
35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
のですね。36節。

36こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」

ルカは非常に注意深く、念を入れて、イエス様の復活という出来事を使徒たち弟子たちも、簡単に分かったり信じたりしたわけではなかったことを記しています。イエス様ご自身が多くの弟子たちの前に現れて下さってさえ「亡霊を見ていると思った」ほどだったのです。そういうところを通って、本当にイエス様は、肉体をもって復活されたのだ、ということが分かったことが記されているわけです。

それではコリント一15章に戻りましょう。3節からお読みします。
03最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
04葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
005ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
06次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。
五百人以上の兄弟たちに同時に復活のイエス様を目撃したという出来事もあった、と記しているわけです。そして、
そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。

だって、25年前の出来事ですもの!
コリントの教会にも、十字架と復活の事件を自分がリアルに体験した人がいたかも知れないし、少なくとも、リアルに体験した人の生々しい話を聴いた人々がいたわけです。阪神大震災のたとえでいうと、地震の時は東京にいたけどテレビや新聞で生々しい記事を見たし、震災にあった人から直接も聞いた、という感じの人々ですね。

パウロが書いた手紙はそういう風に、皆さんはイエス様の復活のことを知ってるでしょ!ということを前提に書かれているんですね。ですから、当時の第一読者にとってイエス様の復活自体を疑ってるということはあまりなかったと考えられます。

問題は、キリストは復活したのであるけれども、自分たちが死んで後に復活することなんてない、と言っている人々がコリントにいたということです。

12節を見ましょう。
12キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。
そういう人がコリント教会におられますね、とパウロは指摘しているわけです。
その背景として、当時の哲学の考え方として、物質的なものは下級なもので霊的なものは高尚なものだ、という考え方があったのです。そういう思想の影響を受けて解釈をいろいろ加え、復活というのは肉体を以て復活するのではない。死んで肉体から解放されて物質ではない霊だけになったことを以て解放と考えている人々がいたのです。
しかし、聖書はそういう考え方ではありません。
先ほどのルカの福音書を見ても、
亡霊かと思った
というものの見方を明確に否定しているわけですね。

現在の私たちならさしずめ、こういうことであるかも知れません。
そりゃあ、イエスさまは肉体を以て復活されたかも知れない。しかし、そのことと私と何の関係があるの? イエス様はすごいかも知れないけど、私と何の関係があるの?

それに対してパウロはこう言います。
そして聖霊様は聖書のみことばを通して私たちにこうおっしゃっているわけです。13節からもう一度お読みしましょう。
13死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。
14そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。

人間が死んだ後の、肉体の復活ということがないとしたら、まことの神であると同時にまことの人となって下さったイエス様が復活されることはなかったはずだとみことばは言うのです。さらに、もしそうだというのなら、15節。
15・・・わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。
とパウロはだめ押しをしているのです。自分たちも復活に与らせて頂くということを受けとめないなら、私たちは嘘つきってことになっちゃうよ~、というわけです。さらにたたみかけるように、
17そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
46015018そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。

と言います。同じ15章の3節にあるとおり、
03最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
04葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
と記されている通りです。イエス様が私たちの罪の身代わりに死んでくださり、復活してくださったからこそ、私たちは罪を赦された者となり、だからこの地上の生活が終わった後、からだの復活に与る日がやがて来た後、滅びてしまわないで新しい世界に生きることができるのです。

聖書の一番終わりの書、黙示録の20章4節辺りから記されていることですが、この世の終わりにあって、イエス様のために苦難を受けた人たちがまず復活し、その後でその他の人々が復活させられることが記されています。その後の出来事として、20:11からご一緒に読みましょう。
11わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。
66020012わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。

最後の審判の場面です。よみがえらされた者たちが、神の御前に立って審判を受けるのです。「命の書」が開かれていることに注意してください。イエス様の十字架を自分の罪の身代わりと受け入れ、感謝する私たちは、命の書に名前が記されているのですから、14節にある火の池に投げ込まれないのです。
結びにコリント一15:17節から一緒にお読みしましょう。

17そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
46015018そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。
46015019この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
46015020しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
46015021死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
46015022つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

創世記の始めに、アダムが罪を犯したせいで、全ての人類は死ぬものとなってしましました。しかしイエス様がよみがえってくださったことにより、人類は、私たち一人一人は、自分もよみがえさせられることになったのです。イエス様を救い主として信じ、仰いで生きましょう。そのようにして、最後の審判の時に命の書に名前が記されているものとして、永遠の命に生かして頂く希望を覚えて、いまを一生懸命生きましょう。