聖霊を待つ 母の日も覚えつつ

メッセージ(結びの祈り除き36分)


聖霊を待つ 母の日も覚えつつ(5/13礼拝)
使徒1:1~14
新聖歌7主のみいつと/135御霊は天より/344なおも御恵みを

三浦三千春

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 皆さんおはようございます。
薫風かおる5月もはや、半ばとなりました。いかがお過ごしでしょうか?

さて、来週はペンテコステ、聖霊降臨祭となります。そこで、その準備というような意味で、今朝のメッセージをお話しさせて頂きたいと思います。
++母の日への言及。聖霊について調べ思い巡らすとき、女性性、母のような性質、ということを思わされたのでそのことも織り込みつつ語りたい++

ペンテコステは使徒言行録2:1から記されている出来事です。では2:1から4までご一緒にお読みしてみましょう。
01五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
44002002突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
44002003そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
44002004すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

1節に、五旬祭の日が来て、とありますが、五旬祭とは50番目の日の祭という意味です。「ペンタ」というのが、ギリシャ語で数字の5を表しており、ペンテコステとは、50日目の祭、すなわち五旬祭ということになるわけです。
毎年、イースターから50日後がペンテコステです。
イエス様の弟子一同がエルサレムの二階座敷に、一つになって集まっていると、激しい風が吹いて来るような音が聞こえ、一同が聖霊に満たされた、という事件が記録されているわけです。

イエス様はご復活なさって40日の間、弟子たちにお現れになり、40日後に弟子たちが目撃している中で「天に上げられ」ました。それはルカによる福音書の一番最後に記されている通りです。その後に10日間の待ち望みがあったわけで、40足す10で50日目がペンテコステになるわけです。

ペンテコスはキリスト教においてはクリスマス、イースターと並んで3つ目の大切なお祝い、お祭りとなっています。
それほど重要なペンテコステとは何の日か?
それは、先ほど一緒にお読みしたように聖霊様がお降りになった。その出来事を記念してお祝いするのです。

ペンテコステを巡る誤解とでもいいましょうか、私たちが勘違いすることがあるのは、ペンテコステの日まで聖霊はこの世界においでにならず、ペンテコステの時に初めて、おいでになった。そして、いろんな働きをなさるようになった。すなわちペンテコステの前は聖霊の働きはなかったと。
そうではないというのが今朝のメッセージの半分です。
そして後半分は、何のためにではペンテコステの出来事が起こったか、ということです。

使徒1:1を見ましょう。それでは一緒にお読みしてみましょう。
テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

いかがでしょうか? 著者は、イエス様のご昇天の前、すなわちペンテコステの以前から、聖霊様の働きが「あった」ことをはっきり記しているわけですね。
使徒言行録の著者は、ルカによる福音書を記した同一人物です。そのことは
テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して
という記述から知られます。ということは、使徒言行録はルカによる福音書の第二巻といいますか、続編になるわけです。それでは、イエス様が聖霊を通して使徒たちに与えた指図って何でしょう。ルカ24章44節を開けてみましょう。これはご復活されたイエス様が弟子たちに現れ、その時におっしゃったことですね。
44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
はい(停止)。これまで何度かお話ししましたが、ここでも出てきましたね。律法と預言者と詩編というのは今日謂うところの旧約聖書です。旧約聖書には、イエス様について記されている。その書かれていることは「必ず、満たされた=その通りになった=ということに、当然のことだがなっている(ギ・現在形)」とイエス様「は」おっしゃったわけです。では続きを一緒にお読みしましょう。
42024045そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
42024046言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
42024047また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
42024048あなたがたはこれらのことの証人となる。

はい。45節に「彼らの心を開いて」とあります。以前お話しした通り、旧約聖書に約束されてきたキリスト、救い主はイエス様なのだ、イエス様は人類に送られた本当の救い主なのだということは、人間が自分で分かったり悟ったりできないことで、「心が開かれ」ないとそうはならないことです。それをイエス様は弟子たちのためにして下さった。

そしていよいよ49節。使徒1章1節で出ました、イエス様が「聖霊を通して指図を与えた」ことの、その内容が記されています。では49節を一緒に読みましょう。
42024049わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
それがイエス様が聖霊を通して指示なさったことですね。

都とはエルサレムです。弟子たちは、イエス様に付き従って、過越の祭を守るためにエルサレムに入りました。そして、エルサレムで一緒に宿を取りながら、イエス様の十字架、復活の出来事を共に体験したのです。その都にあなたがたは留まっていなさい。
*わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。
と記されています。
この箇所で、約束された「もの」って何なんだろうと気になりまして、原語で当たってみたのですが、原語に「もの」に当たる言葉はありませんでした。また、ここで「送る」と訳されているのは、何か「もの」を送る、という意味の言葉ではなく「メッセージ=伝達事項を送る」という意味の言葉です。そして、未来形ではなく現在形で書かれてあるのです。

ですから、直訳すれば、
「わたしはわたしの父の約束をあなたがたに送っている」という具合になるのです。
聖書時代のギリシャ語で、動詞が現在形で書かれておりますと、継続とか繰り返しとか習慣とか、そういう意味が出て参ります。すなわち、これまで同様引き続いて約束を送ってる、繰り返して約束を送ってる、いつも約束を送ってる、というようなニュアンスとなります。
実際、この箇所をそのように訳している翻訳もあります。英語の聖書で、多くの教会で公的に採用されているものの一つ「New American Standard Bible」 (NASB)では、
「I am sending forth the promise of my Father upon you」
すなわち「私はあなたがたに私の父の約束をbe sending送りつつある」と訳しているのです。
そうしますと、このことばをイエス様がお話しになった時点で、イエス様は弟子たちに何度も繰り返して父なる神のお約束を「送って」来ておられて、また今そうしているよとおっしゃったことになります。
それに続けて、
高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。
と語られました。

ここには聖霊という言葉は使われていません。しかし、使徒1:1を見ると、このイエス様のご指図自体が、聖霊を通して指図されたのだということが明らかにされました。また、使徒1章8節を見ますと、力という問題について、それは聖霊の関係するものなのだとイエス様が明らかにしておられることが分かります。すなわち、
08あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。
と。そうしてルカ24:49に出てくる、高い所からの力に覆われるというのは、聖霊が降ると力を受けるということなのだ、ということが分かります。

その力を受けるのは何のため? それは使徒1:8の後半に、「そして」と書いてあるところに書いてあります。
そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。
またルカ24:45からこう書いてありました。
45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
42024046言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
42024047また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
42024048あなたがたはこれらのことの証人となる。
42024049わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

使徒1:8に、あなた方が、
地の果てに至るまで、わたしの証人となる。
とありますことと、先ほど読んだルカ24:48に
48あなたがたはこれらのことの証人となる
と記されていることとは呼応致します。

使徒たちに聖霊が降って、使徒たちが聖霊の高い所からの力に覆われるのは、イエス様の十字架と復活と、悔い改め=すなわちまことの神を信じて生きる人生への方向転換を宣べ伝えるためになのである、ということが分かります。その他のことのために、聖霊の力というものが与えられるのではありません。イエス様の十字架と復活によって実現した救いの福音を伝えるためなのだということを心に刻んでいなければなりません。

さて、使徒言行録の前編であるルカによる福音書には聖霊のことが記されているでしょうか? 答えはイエス!です。ざっと見てみましょう。
1章2章に、バプテスマのヨハネが聖霊に満たされていたこと。マリアが聖霊によって妊り、イエス様を産んだこと。ザカリアやシメオンが聖霊に導かれ、満たされて預言したことを記しています。
そして3章では、バプテスマのヨハネが、イエス様を予告して、「その方は聖霊と火であなた方にバプテスマを授ける」と言い、イエス様が水のバプテスマを受けた時、聖霊がイエス様の上に鳩のように降られました。そしてイエス様は聖霊に満たされてガリラヤに帰り、イザヤ書から「聖霊が私の上におられる」と宣言しました。
それからしばらく、聖霊という言葉は登場しません。次の登場は10章に飛びまして、イエス様が聖霊によって喜びにあふれて発言された。そして11章でイエス様はあの有名な、「求めなさい、そうすれば与えられる。捜しなさい。そうすれば見つかる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる」とのみことばの結びとして「まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」とおっしゃった訳です。そして12章で「聖霊を冒涜してはいけない」「聖霊はその時その時語るべき言葉を与えてくれる」というイエス様の教えのあと24章の結びまで、聖霊という語は一回も登場しません。
では、4章から9章、また後半の13から24章には聖霊の働きはなく、またイエス様は聖霊に言及されなかったのでしょうか?
そんなことは無いと思います。11章の「求めなさい、そうすれば与えられる」のみことばに続いて、求める者に聖霊が与えられる、との言葉は、ある意味唐突にさえ感じられるほどです。ルカによる福音書は、非常に聖霊ということを重んじているのではないでしょうか?

++「犯罪の陰に女あり」と言いますが、「御業の陰に聖霊あり」でありまして、ルカの福音書の半分以上に聖霊についての言及はないと思っていたが、実は聖霊が裏で糸を引いていたということを使徒1章は明らかに。++

またルカ3:11で
18「主の霊が(聖霊ですね)わたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれた
とありますのは、旧約聖書のイザヤ書61:1の引用です。
ここでは、旧約聖書でも聖霊の働きがあったことが記されているわけです。
旧約聖書のヘブライ語では、聖霊のことをルーハといいます。ルーハ元来、息とか風を表す言葉です。ルーハ(ハーと息を深くhの子音を強調して)という音が正にぴったりですね! それが神の霊、聖霊を指す言葉として使われます。
創世記の一番最初に、
001初めに、神は天地を創造された。
とあり2節に
神の霊が水の面を動いていた
とありますその神の霊がルーハであります。神の息とも神の風とも訳し得ます。ですからキリスト教においては、聖霊様は創世記にある天地創造の御業に参与していることを信じてきたのです。
また、キリスト教の長い歴史において、聖霊の働きは世界の創造と共に、被造物を刷新し、聖化=聖なるものとする=きよくすることだと多くの神学者に指摘されてきました。また、そういう内容を記した旧約聖書、新約聖書は、正に聖霊による啓示によって記された事だし、世々のクリスチャン、教会がそれを読んで、父なる神、子なる神と共に聖霊なる神のこと、そのお働きを理解してきたのも、正に聖霊様の働きであったのです。
また御聖霊の働きをアウグスティヌスは「愛によって結びつけること」と言っています。
また聖霊の働きは、キリスト教の伝統のなかで、旧約・新約聖書を理解してきたこととして、啓示、救済、クリスチャンや教会の生活の導きと整理されています(キリスト教神学入門P429。A.E.マクグラス著、教文館)。

++父なる神は大きな構想をばんと出し、御子は救いの業を実行するかも知れないが、聖霊は一人一人の人間に届くよう、被造物一つひとつに届くよう、そよ風のように御業をなさる。こまごましたことがそうなっていくように、一人一人にうなく適用されるように細かいところに心を配っているお母さん、女性たち、またそういう思いを持った優しい男性たちもそういう役割であるのかも知れない。そういうものを一手に担っている聖霊。++
++神学者は聖霊論をあまり言ってこなかったが、それは聖霊が不在だったからでも聖霊の体験がなかったからでもないだろう。言挙げしにくかったのかも。昨今、聖霊論が盛んに言われるが、そよ風のように、天地創造の御業から共に働かれた聖霊を覚えるべき。++
++いつもは目立たない聖霊が、ペンテコステでがんと表面に出たのは珍しい。役割のためには大きな力を与える聖霊。「女は弱し、母は強し」ということわざを連想する(^o^)++

聖霊様は、正にこの世に充ち満ちておられて御業を進めているし、特にクリスチャンに対して御業をして下さる一方、ある意味、聖書の神のことを全く知っても信じてもいない人々にも働いていて下さると言えましょう。
そうでなければ、これまでイエス様を信じたことがなかった人々がイエス様を求めるようになり、信じるようになっていく接触点自体がないということになってしまうわけです。

聖霊は、ある意味、水のように、空気のようにこの世に満ちている。
イエス様は水の洗礼=水のバプテスマではなく、聖霊によってバプテスマを授けるとバプテスマのヨハネは言いました。またイエス様ご自身、使徒1:5で、
*あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる
とおっしゃいました。

いかがでしょうか? 水のバプテスマの場合、それを受ける人を水にとっぷりと浸けるわけです。あるいはその人に水をとっぷりと振りかけるわけです。

そのように。この世に充ち満ちていて、御業を進めておられる聖霊様にとっぷりと浸けて頂く。あるいは、聖霊様をとっぷりと振りかけて頂く。そういう感じの事態が、ペンテコステの時、使徒たち、弟子たちに起こったわけですね。
そうすると、使徒たちは「力を受ける」ことになったのです。

そして、その目的は、「十字架にかかって私たちの身代わりとなって死んでくださって、私たちの、神様から的を外した生き方、またその結果でもある罪を赦してくださったイエス様の証人となること。三日目に復活して私たちにも復活のいのちを注いでいてくださるイエス様の証人となることです。

その使命は、現在の日本に生きる私たちにも与えられていますし、また、そのための聖霊も変わらず私たちに「与えられて」います。ただ、その聖霊様はあまねく働きをしておられるが、その聖霊様に満たされるというような事態もあるのだと心に留めておきたいと思います。

そして、いまそんなに私たち自身が気が付かなくても、そっと優しくそよ吹くそよ風のように、私がイエス様を信じることができるように、イエス様に信頼することができるように絶えず絶えず働いていてくださる聖霊様を心に覚え、聖霊様を歓迎する生き方を致したいことと思います。
それでは結びに、使徒1:3から11をお読みします。

03イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
44001004そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
44001005ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 
それではここからご一緒にお読みしましょう。7節からお読み致しましょう。
44001007イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
44001008あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
44001009こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
44001010イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
44001011言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

++女性の方にご起立をお願いし、女性のため母親のため、妻の役割のため祝福を祈る旨、言う++
お祈り致します。