感謝を込めて祈り――パウロの秘訣に習う


フィリピ4:2~9
6月も末。今年の折り返し点に参りました。いかがお過ごしでしょうか。
さて、今朝お開きしましたみことば、すばらしいですね。それではもう一度、フィリピの信徒への手紙4:4~7を一緒にお読みしてみましょう。
04主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
05あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
06どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
07そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。素晴らしいですね。
私たちは、心の平安や平和を求めます。心が平安でなく心配、思い煩いでいっぱいになっていたら大変です。それは、とても辛いことです。

私たちは、どうやったら平安でいられるでしょうか。自分の置かれた状況や環境が良ければ、喜ぶことができるでしょうか。確かにその通りです。

しかし、この手紙を書いたパウロが置かれている状況は、平安な気持ちになれるようなものだったのでしょうか?
どうやらそうでもないようです。
この手紙は、フィリピという都市にある教会、クリスチャンの群に宛てた手紙です。その町は、パウロが伝道旅行の途中で少しの間滞在して、いろんなことがあって、そこに住むクリスチャンが生まれ、教会ができていく発端となったのでした。

ですから、フィリピのクリスチャンたちは、パウロがフィリピで「どんな目に遭った」か、よくよく知っているわけです。その上で、パウロの手紙を読み、パウロが「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ」なさいと勧めたくだりをも読んでいるわけです。
 
フィリピでパウロがどんな経験をしたかを読むと、パウロが決して、「いつも喜ぶ」ことを簡単に「しやすい」境遇にいたわけではないことが分かります。
では、どんなことがあったのか。簡単におはなしします。

それは使徒言行録16章に記されています。
削除==とてもドラマチックです。山あり谷あり、はらはらどきどきの展開です。
まず、フィリポの町に来たいきさつが書いてあります。パウロは実は、フィリポに来る直前、非常に行き詰まっていたんですね。ここまで伝道旅行をしてきて、さあ次はこう進もうとしたが、どうしてもそちらへ行けなかったんです。
何かに妨げられたのです。それが何か具体的には書いていません。しかし、自分が思い描くとおりにどうしてもならないことって、あまり喜べることではないのではないでしょうか・・・。そういうところをパウロは通りました。

ところがパウロは夜、幻を見た。そして幻の中で、海峡を隔てたところに住むマケドニアが、「マケドニアに渡ってきて私たちを助けて下さい」と懇願した。これは、もう、ひらめいたというか、道が開かれた!というわけで、心が沸き立った、うれしいと思える出来事だったでしょう。
続けて、マケドニアに渡って来てしょっぱなに、フィリピの町にやって来た。==削除

12節を見るとパウロは、フィリピの町にやって来て、和菓子ではなくって、紫布(むらさきぬの)という布地や衣類のご商売をしているリディアという婦人に出会いました。そして、その一家が洗礼を受けるに至ります。そして後援者にまでなってくれた。これは大きな喜ばしい出来事でした。

ところが16節で占いの霊に取り憑かれた、明らかに変な女性につきまとわれて、何日も何日も大声で「この人たちは神の救いの道を伝えてるのよ~」と叫んで、じゃまをされた。来る日も来る日もです。大変なストレスだったでしょう。
だって、こんな変な人にくっつき回られたのでは、パウロまでおかしな人と思われてしまいます。キリスト教そのものの評判さえ落ちてしまうかも知れません。さて、どうしたらいいのでしょうか。
パウロは家伝の宝刀を抜いたというわけではありませんが、神様から与えられた聖霊の賜物を用いて、この問題を解決しました。この女についている悪霊に「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出ていけ」と命令したのです。そうすると、この女性は悪霊つきから解放されて、普通の精神状態に戻ったのです。彼女もパウロも喜びました。素晴らしい!ハレルヤ!とっても嬉しい出来事でした。

ところがところがです。そのことが直接の原因で、パウロはあろうことか牢屋に閉じ込められることになる! しかも、鞭で打たれてからですよ。そして、足かせをはめられてです。
何も悪いことをしていないのに、いや、いいことをしたのにです。とても喜べる状況ではありません。

さて、その時パウロはどうしたでしょうか。使徒16:25を一緒に読んで見ましょう。
25真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。
そうなんです。牢屋の中で、足かせをはめられているのに、賛美の歌を歌っていた! さすがパウロです。パウロだからできたのでしょうか? 私たちはパウロとは違いますから、なかなかパウロのようにはなれないかも知れません。しかし、同じ主を信じているわけです。その半分でも10分の1でも、パウロ先輩の信仰のあり方の秘けつを学び取りたいのです。
さて、牢屋で賛美していると何が起こった?
何と地震が起こって、牢の扉が開き、囚人らの鎖もとけてしまった! その時に、囚人が皆脱走したと思い込んだ看守が自殺しようとします。
パウロは、「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる」と叫びます。看守は、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と叫ぶ。パウロは言いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。そして、この看守の一家もイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるに至ったのです。

いかがでしょうか? こういうパウロの経験を身近で見ていたフィリピの教会の人々に、パウロは手紙を送ったのです。
パウロ先生は、ほっておいても喜べることだけを喜んだわけではない。そうではなくどんなときも「常に喜びなさい」とパウロ先生は言っているんだ。それが秘けつなんだ、とフィリピの信徒は分かったわけです。

すごい!
そういうパウロ先輩の信仰のあり方の秘けつを、今朝お読みしたところは記してくれているのです。

フィリピの信徒への手紙4:4を一緒にお読みしましょう。
04主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
Rejoice always! Rejoice in the Lord always! Rejoice!!!(キャロザース風に)
いつも喜ぼう! 主にあっていつも喜ぼう! 喜ぼう!

これがパウロの心意気であり信仰のあり方であったのです。
それは何故でしょう?
5節の後半を見て下さい。

主はすぐ近くにおられます!
これは、元の言葉にもっと近いニュアンスでいうと、「主は近い!」「主、近い!」ということなのです。
それは、マラナタ(「主よ来てください!」という、当時のクリスチャンの合い言葉)をギリシャ語に訳したものともいわれます(ティンデル聖書注解など)。
主よ来てください!と、当時のクリスチャンたちは祈り求めたわけだけれども、パウロはそれを、自分の実感として「主は近い」と言ったのかも知れません。
削除==この「近い」は、場所的にも時間的にもどちらにも取れるのです。そして実は「近い」というのは元の言葉で見ると、形容詞でなく副詞なのです。すなわち、主という名詞ではなく、主が「何かをした」の動詞を修飾しているのです。しかし、元の言葉では、動詞は書かれていません。一般的にはbe動詞、おられる、という動詞でしょう。
註:一般的にBE動詞に副詞がついて、形容詞的な意味になる用法は一般的である。参照「新約聖書のギリシア語文法」Ⅱ巻p439§177「副詞の機能と用法」織田昭著、教友社)
パウロもそこに生きているユダヤ的な概念でのbe動詞、おられる、「神様がおられる」の世界は、神がチーンと棚の上に置いてあってぴくとも動かない、そういうものではなく、出エジプト3:14で神がモーセに向かって「私は「ある」という者だ」とおっしゃた、その「ある」でして、おられるからにはダイナミックに活動し続けておられる、働き続けておられる、そういう「ある」なのです。==削除

主は近くいてくださる!ホントに近くいて下さる!だからrejoice!喜ぼう!常に喜ぼう。

そして、パウロはその秘けつを明らかにするメッセージを書き進めます。いや、三浦綾子さんの旦那さんではないけれど、誰かに書記になって書き取ってもらって、口述筆記したのかもしれません。パウロの肉声が聞こえてくるようです。
そのパウロ先輩の薦めの声を聴きましょう。6節、7節を一緒に読みましょう。

06どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
07そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

どんなことでも思い煩うのはやめなさい。
この思い煩うというのは、「心を分割する」という意味なのだそうです。
思い煩っていると、感情を分割してしまう。そうすると感情は激しい波のように安定を欠いてしまいます。
思い煩っていると、理解力も分割してしまう。そうすると正しくものを見抜く能力が危なくなり、間違ったものの見方をしてしまう。
思い煩っていると、判断力を分割してしまう。そうすると、態度や行動を誤ってしまう。
思い煩っていると、意志決定能力を分割してしまう。そうすると、いくら計画や目標を立てても、それを成し遂げることができない・・・。

この「思い煩い」は、「心を分割してしまう」ということなのだ、というのことを教えてくれたのは、学生時代に、読んだこの本(「思い煩いからの解放」J.E.ハガイ著、いのちのことば社)でした。

思い煩いからの

この「思い煩いからの解放」という本は大変役に立ちました。いろいろ参考になりました。それは、私は若いときから思い煩うくせがあったからです。
この本が役に立ったのは、クリスチャンは、思い煩うことによって自分が正しく生きていることを証明するわけではない。むしろ思い煩うことは神様の前に罪なんだ。神様がお歓びにはならないのだ。だから思い煩う「必要はありません」と指摘してくれたことでした。喜んだ方が神様のためにも良いのです。

思い煩うことは神様のみこころにかなっていないのだから、もしクリスチャンが思い煩っていたら、「神様は嘘つきだ」といってることになっちゃいますよ!とだめ押ししてくれました。
だから、クリスチャンの生き方っていうのは、眉根にしわを寄せて怖い顔をして思い煩ってる。そういうのでなくていいんだと教えてくれました。

そして、思い煩わないようになるための策をいろいろとこの本は書いてくれていました。
目次から少し拾うと、「感情をどう調整するか」「祝福を数えなさい」「人からの感謝を当てにしないように」「奉仕の精神を身に着けなさい」「思いを抑制して平安へ」「熱心さを通して平安へ」「リラックスを通して平安へ」「予定表の作成と平安」「今日だけを生き抜いて平安へ」「熟練することを通して平安へ」などなど、策を授けてくれています。

非常に助けになるし、参考になりました。
本をクスリにたとえて言うならば、この本だけで十分、効き目がある人も多いと思います。
しかし、私にとってはこのクスリだけでは足りなかったのです・・・。

いいことが書いてあるし、そうするように心がけたいのだけれども、なかなかそれが難しいのです。
パウロ「は」、また、私よりできた人々「は」「そういう風に」、思い煩いを克服し、心に平安をもてるかもしれないが、
私にはちょっと手が届かない、と思ったんですね。というか、もっと基礎的な、根本的なところを教えて欲しいと感じていたわけです。

それは、「私が」何か「する」前に、神様の方がもっと助けてくれる。神様の方が何か私にしてくれる。そういうことがあるんじゃないか? そのことを私は求めていたのだと思います。

そして、その求めに対して、「求めなさいそうすれば与えられます」というわけで、与えられる経験がありました。
それは、かなり以前のことですが、メンタルが非常に落ちてしまう経験をしたときに、その脱出を通して与えられました。 

私は、鬱鬱とした状態の中で、どん底まで落ち、もがき、嘆き、神様に脱出の道を求めていたのです。
そして、祈りを神様は導いてくださり、私がどんな状況にあっても、「神様は私を愛していて下さることを教えて下さい」という祈りに導かれて行きました。
ところが祈っても祈っても、神様が愛して下さってることを、心で、ハートで感じることができない。神様は、どうも気を使って下さってるなぁということは分かるんです。でも愛を「感じる」ことができない。

そんな追い詰められた中で、何回かご紹介した本ですが、この本マーリン・キャロザースの「獄中からの讃美」を読むように導かれました。
この本が教えてくれたのは、全てのことを感謝しないさいということでした。それは、イエス様が十字架にかけられて、苦しめられて、死んでくださったからです。

 この本のそのくだりのところをお読みします。
 (「獄中からの讃美」P110)

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そして、その後、キャロザースさん自身、どんな経験をしたか。また牧師として導いた人々が、どんなに驚くべき素晴らしい体験をしたか、証しがぎっしりと書き込まれています。
この本が1970年に出て以来、キャロザース先生は2010年代に召されるまで、「全てのことを感謝しなさい」をバカの一つ覚えのように実践し教え続けられました。
youtubeに、日本語訳もある動画もたくさん出ています。愉快な、楽しい証しがたくさんあります。

私自身の体験としては、実践して心が軽くなりました。
ひと言で言うと、神様は私を愛して下さっている。ありのままの私を受け入れて下さっている、ということが心の底から分かるようになりました。
それは、課題や問題にぶつかったときに、その問題や課題が起こされたこと自体、父なる神様の許可がなければ決して起きなかったのだから、そのことを感謝することにしたのです。

先ほど、思い煩うのは心が分割することだと申しあげました。
正に、神様に感謝するか、感謝しないか。ある時は感謝するけど、これは感謝しない、というのは、心が分裂しているんだ。
そうではなくって、いつでも、always、神様に感謝する「ことにした」のです。
私は、「思い煩いからの解放」を読んだりして、思い煩いをなくさなきゃならないと分かっているけど、それができない。どうやったらなくせるかが分からなかったんですね。
その「ハウ・トゥ思い煩いをなくす」ということが、わたしの場合、いつも感謝することなんだ、と教えられました。
どんな問題、課題も、神様のご許可がないと私に起こらなかったのだから、神様はそれを私の益に変えて下さることができると信じて、決めてかかって感謝することに決めたのです。

それは、問題に目をつむることではありません。むしろ、誰以上に、冷徹に問題を見極めます。
そして、「これはこうこうこうだから感謝」という理由を自分で付ける必要さえありません。感謝の理由をつけないといけないのはけっこうシンドイものです。
私には理由は分からないけどとにかく神様に感謝します。何故ならあなたの許しがなかったらこれは起きなかったのだから。そうやって、神様に問題を丸投げしてしまえるわけのです。

そのうえで、その感謝を以て神様にお願いをします。「天のお父様。誰々さんとケンカしました。このことも、あなたの許可がないと起こらなかったのだから、よく分からないながらあなたに感謝します。
その感謝を以てあなたにお願いします。私の考えでは、誰々さんは私を誤解していると思います。どうぞ誰々さんの誤解が解けますようにあなたが働きかけて下さいますように」
そういう風に祈ります。そして、祈った時に「私は祈った!神様にお任せした!」という「祈った感」がすごいのです。それはどんな問題、課題にも応用できます。どうぞ試して見て下さい。
まさに6節後半に、
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
と記されている通りです。

それは自分自身の弱点や、しないといけないのにできないことを感謝してもいいんです。「神様。私は、こんなことをしてしまったことを、イエス様の十字架によってお赦し下さい。しかし神様、このことはあなたのご許可がなければ起きなかったのだから感謝します。この感謝を以てあなたにお願いします(←ここが秘けつなんです!)。もっと私の性格がこうこうになるようにして下さい」と願いのお祈りをすることができるのです。是非試して見て下さい。
「感謝を以て祈る」。どうぞ、日々の生活の中で試して見てください。今回はこの辺にしたいと思います。
それではお祈り致しましょう。

新聖歌2たたえよ救い主イエスを/17主をほめよわが心/154来たれ友よ共にイエスの