初代教会に学ぶ2 あくまで聖霊によって

32分

ガラテヤ3:1~9、5:22~6:2

今回は前回の続きという思いで、題を付けさせて頂きました。
説教するルター(ヴィテンベルク聖マリア教会の聖壇画、1547年、クラナッハ作)
前回の説教要旨を週報に載せて頂いておりましたので、それを先ず、お読みしたいと思います。

=====初代教会 疑似体験 日本の教会を思う====

日本でクリスチャンとして生きていると初代教会の「感覚」が良く分かる。それは少数派という共通点から来る。
共通していないところもあって、2000年前のローマ帝国人口(5600万人)の1割は元々、天地創造の聖書の神を信じるユダヤ人だったこと。日本にそんな素地はなかったのだから、日本で成長率が低くても私たちは焦る必要はない。
初代教会の感覚が良く分かるのは、クリスチャン同士、住んでいる場所が遠く離れ、違う流れ(今日でいえば教派。あるいはプロテスタントとカトリックと正教)に属していても互いに顔を「知って」おり、証しを共有している。また、イエス様を救い主と信じているという一点で、すぐ打ち解けられること。

パウロとペテロ

近代の欧米の有力な神学者は、パウロは、イエスや十二弟子たちと「違う」教えを説いた(だからキリスト教は世界宗教になれた)と言ってきた。そうなのだろうか?
確かにパウロは、ご存命中のイエス様は弟子でなく新参者で、教会を弾圧する者でさえあった。だから回心後、ペテロやヤコブに会ってもらえるまで3年かかった(ガラ1:18)。そして2週間にわたって語り合った。それは「この男は信用できる。教えている内容は正しい」と認められる対話(の一歩)だったのではないか。
何年か後、二人に加えヨハネも「一致の印」としてパウロに、交わりの手を差し出した。そんななか、パウロの書いた公開書簡(ガラテヤ信徒への手紙)は、地域を超えて支持され、27巻の新約正典に含まれる結果になった。その中身は、「人が救われるのは、自分の律法の行いによってではなく、イエス様の十字架の購いを信じることによって」だ。ペテロに対してさえ、その点を妥協しなかった。そんなメッセージを持つ手紙が、各地域に散らばる初代の諸教会に大事にされ、27巻に含まれている。
前回の説教要旨はここまでです。=========

パウロが、大事にして伝えてきたこと。それは、「人が、神様との関係を回復して救われる。それは、自分の、良い行いによってではない。イエス様の十字架の購いが私のためなんだ、ということを信じること。そのことによって救われるのだ」ということでした。
そういうメッセージを持ったガラテヤ信徒への手紙が、広いローマ帝国内外に点在する初代の諸教会によって支持された結果、新約の27巻の正典のなかに収蔵されているというお話ししたわけでした。

今朝、「あくまで聖霊によって」、とサブタイトルをつけさせて頂きました。それはガラテヤ3章3節に
03あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”(聖霊ですね)によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。
と記されていることを受けとめさせて頂いています。
聖霊によって何を始めたのかといえば、クリスチャンとして生きることです。それを肉によって仕上げるのは間違いだとパウロは言うのです。肉によって仕上げるとは、律法を守るといった、自分が良いこと、正しいと思うことを行えば、「それによって」救われる、という考え方、その生き方です。そういう生き方で、クリスチャンとしての生き方を仕上げていく、という考え方は間違っているというのです。

3:1から少し丁寧に見ていきたいと思います。
今回は、大切な骨格の部分において、ある註解書の解釈に全面的に依らせて頂きました。ティンデル聖書注解という注解です。
ティンデル聖書注解は、世界の福音派の、いろんな教派の代表的な神学者たちが執筆しています。

ティンデル英語

イギリス、ケンブリッジ大学の、ティンダルハウス聖書学研究所(Tyndale House)に所属する学者たちが執筆しました。全48巻ものです(日本語版の場合)。現在も改訂が続いていますし、非常に定評のあるものです。
日本でも、福音派のいろんな教派の牧師・神学者らによって翻訳され、いのちのことば社から出版されました。1冊4000とか5000とか6000円の高いシリーズですが、販売してすぐに売り切れ、再版もされたようです。私は英語のパソコン版がお値段が安いので、それを使っています。

ティンデル日本語

当然のこととして、執筆者らはちゃんとした神学者ですから、福音派ではない学者、著述家のものをきちんと研究した上で、自分の原稿を書いています。ですから、福音派でない人々から見ても、納得のいく一つの説としてそれを読むことができる内容かと思います。
そうであって、世界の福音派、日本の広い福音派において、まあ妥当な理解として共有される釈義がなされているわけです。

それではガラテヤ信徒への手紙3:1~6を見ていきましょう。この箇所について、ティンデル聖書注解の学者さんは、「そこはガラテヤ信徒への手紙全体の中心的な箇所なんだ」と言っています。そして、この部分が分かれば、ガラテヤ信徒への手紙全体が分かっちゃうよ、と言っている。そういう箇所です。

では3:1をご一緒にお読みしてみましょう。
01ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。
「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示された」というのはどういうことでしょうか?
これは、パウロの説教によって、言葉によって、まるで目の前で見ているかのように、イエス様のことが描き出された、ということです。

高速道路なんかで走っていると、ビルの屋上なんかに大きな看板が出ていますね。「アサヒビール」とか、「シャープ」とか、ぱっと見て何を意味する看板か、誤解の余地はありません。

説教するルター(ヴィテンベルクの聖マリア教会の聖壇画、1547年、クラナッハ作)
くいだおれ
かに道楽

あるいは道頓堀の食い倒れ人形とか、大きな「かに道楽」とか、グリコの看板。何を意味するか誤解の余地はありません。
それくらいはっきりと誤解の余地無く分かるように、イエス様が十字架に掛かって身代わりになってくださった、ということを、パウロはメッセージを通してはっきり伝えたじゃないか、と言っているのです。New English Bible(NEB)という訳はここを「イエス:十字架に掛けられたメシア(救い主)」と訳しているそうです。
十字架に掛けられたメシアが、あれだけ明確に描き出されたのに、あなたたちは口達者な誰かに幻惑されてしまったのかい?とパウロは言っているのです。

騙したのは、エルサレムから来た、ユダヤ教復帰推進主義者とでも言うべき人々です。それはガラテヤ2:11あたりを読めば分かります。
11さて、ケファ(ペテロのことですね)がアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。
12なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々
(これがエルサレムから来たです)が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
48002013そして、ほかのユダヤ人
(これはイエス様をメシアと信じてクリスチャンになったユダヤ人ですね)も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。
14しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか

そういう風にペテロが、クリスチャン本来のあり方から外れて、大事なことを間違ってしまった。パウロはそう判断した。だからペテロを「皆の面前で」ののしらせざるを得なかった。ペテロがそうなってしまうように悪い影響を与えた人々です。

今お読みした14節の結びに
異邦人にユダヤ人のように生活することを強要する
とありましたが、そのように、異邦人のクリスチャンに対して、ユダヤ教の律法を守ったライフスタイルでないとクリスチャンとして救われてないんだよと、口達者に説いた人々がいたわけです。
ガラテヤの信徒たちはその言葉にだいぶ騙されたようです。
だからパウロは書いたわけです。「十字架に掛けられたメシアが、看板を見るように明瞭に示されたのに、見せかけで、律法を守るライフスタイルでないと救われへんなんて、君らは惑わされてるんか、ボケ?!」という風に。

あほかは愛情

(このあたりは、ティンダルに書いてません。別のところから参照)
いま、ボケ、ともうしましたが、1節冒頭の
ああ、物分かりの悪い
ということばはかなり強い言葉です。関西人に向かって「バカ」とか「ボケ」とか言うような言葉のようです。「ガラテヤの信徒よ。目ぇ覚まさんかい、ボケ」というようなことです。
(ここまで、ティンダルに書いてません。別のところから参照)

次に2節を一緒にお読みしましょう。
02あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。
ここでパウロは聞いているのです。
あなた方のクリスチャン生活はどうやって始まったの? 聖霊を受けたからですか?それとも律法を守ったからですか?と尋ねているのです。そして、当然のことながら神様からの無償のプレゼントとして聖霊を頂いたからですよね、とパウロは言っています。コリント信徒への手紙第一12:3に
聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とはいえないのです」
と言われている通りです。ありがたいことだなぁ、イエス様は救い主だ、私の主だと信じているのは、どんなに地味であっても、良く分からないところがあっても、聖霊様のお働きです。

そして、その聖霊はどうやって与えられたのか? それは「信仰を以て聞いた」すなわち、「福音を聞いて信じた」からですよね、と言っているのです。

3節を一緒にお読みしましょう。
03あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。

この箇所のことをティンダル聖書注解・ガラテヤ人への手紙の巻を担当したアラン・コール先生は、300ページ程度のこの本のなかではとても解説し尽くせませんと言っています。
しかしかいつまんで言えば、クリスチャン生活はスーパーナチュラル(超自然的)に始まったのだから、それでフィニッシュすべきであって、自分の生まれつきのままの努力でフィニッシュしようとしてもダメでしょう!ということです。
アラン・コールさんは、おおよそ世界中の宗教というものは、自分の努力で救いを得ようとする。ただ、ユダヤ教の場合が違うのは、異邦人と違ってクリアーな知識があるだけのことだ。そしてユダヤ教は一つの宗教で、真の救い主の福音を聞くための準備として価値があると注解しています。

さっき、クリスチャン生活はスーパーナチュラルで始まったと申しました。どういうことでしょうか。では4節、5節を一緒にお読みしましょう。

04あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。
48003005あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。
あれほどの体験って何でしょう?
アラン・コール先生は、使徒言行録14:19でパウロが石で打たれて死ぬかと思われたところを引証して、ガラテヤの第一読者たちもそういう危ない目に遭った。そういう苦難のことを言っているのだという説を紹介しています。
そしてそれだけでなく、ガラテヤ3:5にまことにさり気なく、すらっと、
あなたがたの間で奇跡を行われる方は
と書いてあることを指摘します。

その奇跡がどういうものなのかについてコールさんは、使徒言行録14:8にある、生まれつき足の不自由な男をパウロが癒した、という記事などを指摘します。
それほどの奇跡までを、当時初代教会の人々は目撃し、経験したのです!

しかし、パウロはそういう奇跡的な出来事であってさえ、それを「無駄に経験する」ということがあるのだし、それは非常にダメなことであると思っていたのです。
その辺りの問題についてコールさんは、解説記事を別に書いたからそちらを見てくれと言います。その記事は見出しを付ければ、「聖霊の賜物と聖霊の実(フルーツですね)についての問題」とでも言うべきものです
聖霊の賜物の方は何かと言えば、コリント第一12:27あたりから、奇跡を行うとか病気を癒すとか異言を語るとかそういったものです。またマタイ7:22には悪霊を追い出すとか預言するとか、そういうことをイエス様も指摘なさっています。

それは、ある意味非常に目立つものです。全ての人が行うことが出来るものではありません。正に「賜物を与えられた」人だけが行うことができます。しかし、そういう奇跡を行うことを含む賜物でさえも、それを無駄にしてしまう。いや、害悪のあるモノしてしまう、というか、賜物そのものが害悪になってしまう、という場合だってあるのだと、コール先生は聖書から指摘しています。
すなわち、マタイ7:15~23にあるように、とっても力強い不思議な業を行いながら、最後の審判の時にイエス様から
『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』(23)
と言われてしまうような人々がいるのです。またマタイ24章24節にあるように、神をも畏れぬ不純な動機を以て、
大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとする
そういう輩さえ登場するのだ、とイエス様は仰います。そうです。それらは結局聖霊の賜物でなく、そう見せかけた悪霊の賜物なのでしょう。
あるいはせっかく聖霊の賜物を頂いていたのにそれを無にするとか悪用するということさえあるのでしょう。
偽の聖霊の賜物というものさえあるのだ、ということです。

しかし、聖霊の実の方は神様以外のものが「作り出したりできない」ものです。聖霊の実とは何でしょうか? ガラテヤ信徒への手紙5:22~23を一緒にお読みしましょう。新共同訳で「霊の結ぶ実」と訳しているのが「聖霊の実(フルーツ)」のことです。それではよろしいでしょうか?
22これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
48005023柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

(ゆっくりと)愛、喜び、こころの平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、時制。素晴らしい! それらは聖霊様によって心の中を変革して頂くことによってしか実って行かないものです。
いや、肯定的な言い方で言い直しましょう。御霊の実はクリスチャンになら誰でも頂くことの出来るものです。でも、どうやって?

(ここから、ティンダル参照していません)
そろそろ結びにしたいと思いますが、ここからは私自身の体験に基づいて申しあげたいところです。
私たちには日々、いろんな達成課題や問題がやって来ます。その時に私たちは祈ります。神様、助けてくださいとか、導いて下さいとか、教えて下さいとか、赦して下さいとか、これでいいんでしょうかと祈ります。

その時に私たちは、十字架の故に、私は父なる神様に受け入れられていると信じて、ひとり神様の御前に出ます。その時、「いいかっこ」する必要はないのです。人間なんて、どんなに立派な人でも、神様の前では似たようなモンです。
自分を偽らないで、正直な気持ちになって神様の御前に出、どんなことでも、いいかっこしないでホンネを神様に申しあげます。何でもご存知の神様の前に出るているのですから!
取り組む問題によっては、神様とケンカになるような時だってあるでしょう。それでいい、それがいいのです。つまり神様との正直なコミュニケーションがいいのです。

私もかなり前にそうやって、神様の襟首をつかむように、あるいは「なんで神様、私の祈りには耳を傾けて下さらへんのですか!」と腹を立てて、聖書を壁にバンと投げつけることさえありました。

そうして、「神様、この状況を変えて下さい」と毎日祈っている内に、「神様、私があなたに本当に愛されていることを教えて下さい」という祈りに変わっていきました。いろんな祈り方をしてみて、友人のアドバイスも求めてみて、それでも愛されていることが分からない(々)。神様はどうも気を使って下さっているのだ、ということは感じるのですが、自分に実感として分からないのです。
それでも更に、導いて下さったんですね! わたしの場合は、マーリン・キャロザースという方の「獄中からの讃美」という本を読むように導かれ、全てのことを感謝する、という祈りに導かれ、自分でも驚くほど、心の中の風景が変わりました。

大事なのは、生きている神様とコミュニケーションしてるんだから、必ずおこたえをくださるということです。その時に、働いていて下さるのは、実は聖霊様だったのです。聖霊は、私たちの祈りを導いていて下さるお方です。
そういう祈りをして生きているなかで、自分では気が付かないかも知れませんが、心の中に、人格の内に、聖霊の実を結ばせていってくださっているのです。
それは律法を守るような、自分の努力や行いの及ぶところではありません! 私たちいま、不思議なことに、イエス様を救い主として信じています。それは他でもない、聖霊様によって始まったのだから、聖霊の実が結ばれて、私たちがクリスチャンとして、人として仕上げられていくのは、肉によって、ではなく聖霊によるのです。
そういう人生の経験を私が申しあげるまでもなく、皆さんは通っておられるわけです。今朝週報に載っている橋本さんのお証しを読んで、改めてそれを深く思ったことでした。

今朝も、時間が足りなくなってしまいました。日本の教会で実際に、聖霊が今も静かに、時には激しく働いていて下さる証しをも紹介したかったのですが、それはまた次の機会に致したいと思います。

それでは、私たちもさらに聖霊の実を結ばせていって頂けるよう、必要ならば聖霊の賜物も与えられるよう。そのことでイエス様の十字架の購いのありがたさがますます分かり、そこに集中していきますように。
聖霊によって始まった人間らしいクリスチャン生活が、聖霊によって完成に導かれていくように守りと導きを求めたいものです。
お祈り致しましょう。