感謝を込めて祈りパート2――ナイーブなパウロの戦略


先々週、久々に関東に行って来ました。
帰りの飛行機で、窓際の席を取りましたから、このようにして(首をぐっと左下に向けて)、1時間の間、下界の景色を堪能しました。空から見てすぐにこれは何かと分かるのはまず野球場。それからお寺、学校ですね。
住宅地では、一軒一軒の家の屋根が非常にくっきり見えたのが印象的でした。一軒の家の屋根が、3ミリ四角くらいで、それが整然と、マッチ箱に詰めたようにびっしりと並んでいるのです。日が西に傾いていましたから、その小さな小さな屋根一つひとつがそれはもう、くっきりと見えたのです。それが100や200ではなく、10万も20万も、地平線のかなたまで続いています。
それを見て感じたのは、神様って凄い方だと思う前に、こんなにたくさんの人間が生きているっていうことは凄い!そのことに驚かないといけないのではないか、ということでした。その一人ひとりに命を与えた神様ってすごい!

さて、今朝は「感謝を込めて祈り2(パートツー)」と題をつけさせて頂きました。
それでは、フィリピの信徒への手紙4:4~7をご一緒にお読みしてみましょう
50004004主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
50004005あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
50004006どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
07そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

素晴らしいみことばですね。

まず、6節、7節を詳細に見たいと思います。
この部分の始まりは、元の言葉でも、まず、どんなことも「思い煩うな」「心配するな」と言われています。
そして続いて、「そうではなくって」と来ます。

そうではなくって、続きはどうでしょうか? 「全ての祈りとお願いの中で」と来ます。そして、その祈りとお願いという名詞を修飾することばが来ます。それは、英語で言えばwith感謝。「全ての祈りとお願いwith感謝」、感謝を伴う全ての祈りとお願いということですね。その中で、ということです。
さて、その中でどうするかです。
あなたの要求が神に知られるようにしなさい、と書いてあるのです。「全ての祈りとお願いwith感謝」の中であなたの要求が神に知られるようにしなさい、というわけです。

要求と、少し強い日本語に訳してみました。新共同訳では「求めているもの」と訳し、新改訳では「願い事」と訳しています。
「求めているもの」「願い事」というと、人や状況によってニュアンスが異なってきます。軽く、七夕さんの短冊に書く程度というものもあると思います。
しかし、イエス様がおっしゃった「お願い」はかなりしつこいものですね。ルカによる福音書7:5を見てみましょう。イエス様のたとえ話です。
05また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
42011006旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
42011007すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
42011008しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
真夜中にパンをくれなんて失礼な話です。しかも執拗に、しつこく要求した。それは、パンが「どうしても」必要だったからです。
聖書に「求めているもの」や「願い事」とある場合、そういう感じのものでしょう。

そして、思い煩うなという動詞と、神に知られるようにしなさいという動詞は、命令文で、現在形で書かれています。
現在形ですと、習慣的に、継続して、繰り返して、という意味が出てくるのです。
すなわち、思い煩うということを、いつも習慣的に、継続して、繰り返してするな、というわけです。そうではなくっていつも、神様にあなたの要求が知られるようにしなさい、習慣的に、継続して、繰り返してということです。そしてそれは、「全ての祈りとお願いwith感謝」の中で、というわけです。

そうするとどうなると聖書に約束されているでしょうか? 7節に書いてあります。
 まず、神の平和と書いてあります。そして神の平和は全てのヌースを超えると書いてます。ヌースというのは理解したり考えたり判断する人間の能力なのです。新共同訳ではあらゆる「人知」と訳しています。
 あらゆる人知を超える神の平和なのです。それが、あなたの心(これは元来、心臓ということで、知・情・意という精神生活の中心点、源となるところです)、そして、あなたの考え(これはさっき申しあげたヌースと同じことで、理解したり考えたり判断する能力です)それを守るでしょう。

 ここがやられてしまったら大変です。精神生活の中心点がかき乱され、理解・考え・判断は狂ってしまいます。そうならないで、あらゆる人知を超えた神の平和が守ってくれるのです。
「守るでしょう」は未来形で書かれています。6節のようにやってみなさい。そうすれば7節に書かれているようになるよ! あらゆる人知を超える神の平和があなたがたの心と考えを守ることになるよ、というわけです。そしてそれは、キリスト・イエスによってそうなっているんだ、ということです。

私たちは得てして、自分の願いや要求を、神様よりも「人に」知られるようにしたいものかも知れません。実は、私の場合はそうなんです。直接的に人に言う場合もありますし、遠回しに悟ってもらいたいと一生懸命やる場合もあります。それは悪いこととは思いません。しかし、パウロ先輩の勧めはこうです。
あなたの願い、要求はいつも、神の知るところとなるようにしなさい。しかし、私がそうしないで、むしろ人に知ってもらおうと躍起になることがある理由は何かと考えてみました。
それは、私は神様を信じているし、祈りに耳を傾けていて下さると信じているんだけれども、神様は目に見えませんし、目に見えない神様に言ったって心許ないと思っているのだと思います。
それだったら今起こってる問題について、もっと直接的に、目に見えるかたちで解決する能力や立場を持っていたり、直接肉声で慰めや励ましの声を掛けてくれるような人に「知ってもらう」方がいいと思うのだと思います。
私の場合、そのキーパーソンに、私の問題を知ってもらうために、いろいろとアプローチしたり、涙ぐましい努力をしてみたりしたことがあるわけです。

そうやっている時に、はたと気付くんですね! そうだ!聖書には、あなたの要求は神に知って頂くようにしなさいと書いてあると!
人に伝えることも大事だと思います。それは人間同士のコミュニケーションの問題ですから。とても大事です。工夫すべきことです。しかし、それは神様に知ってもらうことの代わりにはならないよ、ということではないでしょうか。人間には限界があります。理解してもらえないところがあるのです。良かれと思ってやってくれたことが裏目にでたりすることさえあるものです。
聖書には、「いつも、思い煩わないで」そうじゃなくって、のその次に、神様にあなたの問題をいつも知ってもらいなさい、と記されているのです。

そのようにした時に、人に知ってもらったことの効果も倍増するのだと思います。
そして、大事なことを強調し忘れておりました。
神に知ってもらうには、「全ての祈りとお願いwith感謝」の中で、ということです。恨み言や愚痴や憎まれ口の中で、とパウロ先輩は書いておりません。
これは、前回もお話ししましたように、ストレスフルな日々を送っていたパウロにとって、一つの秘訣というか秘密だったのであろうと思います。
感謝を込めて神様にお願いしないといけないと言うことを、律法や規則と取ってしまっては非常に損です。そうではなくて、これはいかにすごい秘訣であり秘密であると受け取ることが非常に大事なポイントかと思います。

そういう秘訣。神様との関係における、あるいは神様に祈るときの秘訣を聖書から、また聖霊の導きによって改めて発見して、私にとって教えてくれたのが、前回もご紹介しましたマーリン・キャロザースさんの本だと私は思っています。
キャロザースさんの説明によると、自分に降りかかってくる、悪いことも含めた全てのことを感謝するというのは、例えて言うならば,天に向かって立っているはしごを登るようなものだ、と言うのです。
明るい日差しの日ですが、空には黒雲が広がっている。この地上から天に向かうはしごは、その黒雲の中に突き抜けています。しかし、そのはしごを登り切れば、この地上の光とは比べることもできないようなまばゆい素晴らしい光を見ることができるというのです。

そのことに魅せられて私も、「全てのことに感謝」のはしごを上り始めたわけでした。文字通り、一生懸命にです。
キャロザースさんの説明では、そうやって登るうちに、黒雲の中に入る。そうすると方向感覚がなくなって、はしごをつかむ手を離してしまい、落ちてしまいそうになる強烈な力を感じるのです。経験してみて全くその通りだと思いました。
しかしその時に、とにかく手を離しさえしなければいいのです。とにかく感謝するんです。いや、一瞬思わず手を離してしまったとしても神様、落ちないようにしてください、という祈りを持ちながら、私は一歩一歩、一日一日登り続けました。
そして、キャロザースさんが言うには、一歩一歩と登り切ると、突然雲の上に出る。そこは、この世のものとは異なる、非常にまばゆく美しい光に満ちている! そして、その雲の上を歩くことができるというのです。

ところが、黒雲の性質を調べようとして下を向くと、ずぶずぶと沈み始めてしまうというのですね。そうではなくその光をじっと見ている限り、雲の上を歩き続けることができる!というのです。
さて、実際のところどうだったでしょうか?

私は当時、精神的にたいへん追い詰められていましたし、神様に祈り求め続けて与えられた答えがこれでしたから、それは一生懸命やりました。やりましたと言っても、全てのことに感謝というはしごから手を離さずにいさえすればいいのです。一瞬、手を離すことがあってもはしごから落ちることがないようにして下さい、とも祈っておりましたし、今も祈っています。

結末は、キャロザースさんが言った通りになったでしょうか? 実のところ、ものすごく画期的に強烈な光の中に出たという感じはしませんでした。
 しかし、自分の心が大変軽くなって、精神安定剤はもう要らない、という状態にまでなったことは確かです。
また、直面する問題課題について、全て感謝して、その感謝を以て、すなわち「全ての祈りと願いwith感謝」の中で、その問題課題に関する訴えを神様に申しあげたときに、自分のこころに平安が与えられて行ったり、それらの問題課題が解決したりするのを確かに経験しました。
それは個人的な小さな問題についてもそうだし、あまりに大きくて手に余る問題。そのことを考えるだけで気が遠くなってしまうような問題についてもそうしてみたら、その問題が思わぬ展開を見せることさえ経験しました。
具体的に少しだけ説明しますと、
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について感謝し始めたのです。そうすると、私にとっては正にそのタイミングで大きく事が動き始めたのでした。今日は時間がないのでこれ以上はお話しすることができません。

さて結びに、「感謝を込めて祈り」ということを実践してきて気付いたことや、やり方のポイントで気付いたところをお分かちしたいと思います。

1つは「こうしないといけない」ということはないということです。
2つ目は感謝の理由を自分で考える必要もない。
3つ目は、どんな小さな問題でもいいんだということでまとめてみました。

1つめの、「こうしないといけないということはない」ということですが、これは例えば、これくらいなことで怒ってはいけないとか、これくらいのことでいらいらする自分はダメだ、という考え方をする必要はないということです。私たちは、こんなに心配してしまう自分はダメだ、こんなに心がまとまらない状態でいる自分ってダメだ、もっとちゃんとしなければ、といって自分を自分を何とかしようとしたり、それが結局、自分を引き下げるだけになってしまうことがあるものです。私たちは、そうすうる必要はないということです。
そうではなくって怒ったりいらいらしたり、心がまとまらないようなことになったその時に、そのことについて「神様。私には分かりませんが、あなたの許可がなければこの出来事は起きなかったのですし、あなたが許可されたと言うことは、このことを益にして下さる可能性のあることとして許可されたのですから感謝します」「私が今、いらいらしていることもあなたの許しがなければ起きませんでしかから感謝します」と祈ればいいのです。
その感謝のうえで、「しかし神様。私にとってはこのことはこうでは困ります。私の心を平安にして下さい。〇〇の状況をこのように変えて下さい。あるいは、あなたがもっと有効だとお思いになる解決をもたらして下さい。私が何かした方が良ければ知恵を与えて下さい」と、願いを申しあげればいいのです。

そのことは問題に目をつむるとか、あやふやにしておくというのと異なります。
フィリピの信徒への手紙1:15~17を読むと、パウロは悪い状況を正直に、他の人以上に正面から見つめていたことが分かります。お読みします。
15キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。
50001016一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、
50001017他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。

パウロは非常にナイーブな人物ですね。ああ、あの人たちは一生懸命キリストを宣べ伝えているが、それは、私への対抗意識やねたみが動機で、私をもっと苦しめるためにやっているんだ、ということが見えてしまっているいるわけです。人間というものをよく見て、その悪いところもよく知っているパウロだと思います。

そんな風に、悪い状況、起こった出来事を冷静に、事実に基づいて正確に知っているわけです。その上で、神様にそのことを感謝するという、ちょっと言い方に語弊がありますが敢えて言えば、そういう戦略をとるわけです。
そうすれば問題は、神様の手の中に転がされた、委ねられたものになっています。神様に問題そのものを丸投げしてしまうわけです。

また、感謝するときに、ある意味、感情が伴わなくてもいいのです。とてもとても感謝しようという「気になれなくても」、ある意味歯を食いしばって感謝してしまうわけです。「神様。とにかくあなたに感謝すればいいと教えられましたから感謝します」でも良いのです。心中、ホンマカイナと思いながらでもいいのです。実行することが大切です。そうすると不思議なことが起こってきます。

二つ目に行きますが、感謝する時に、その感謝の理由を自分で考える必要はありません。
自分で理由を考えるのは結構、大変なんです。その理由が的外れなんじゃないだろうか? あるいは感謝の仕方が足りないんじゃないだろうかと悩むことににもなるわけです。
そうしなくても、とにかく感謝。私には分からないけど、神様がご許可なさらなければ私にこのことは決して起こらなかったのだから。それが善いことに変えられる可能性があることしか神はお許しにならないのだから、。そうやって問題を父なる神様に丸投げしてしまうのです。

そして3つ目に、どんな小さな些細な問題でも、他の人に話しても絶対に理解してもらえないだろうと自分で思うような問題でも、この全てのことを感謝というやり方では扱うことができる、神様に堂々と訴え祈ることができると言うことです。

自分にしか分からない理屈とか、心のからくりみたいなものもあるものです。このことで自分の心のここがこういう風に支えられて、こうなるから、全体も大丈夫になるというような。

そういう隠れたところでの支えになっているようなものって人に言うわけにもいかないし、神様に祈っても良いものだろうか、と思うところが私にはあったわけです。
そういう隠れたささえなど持たないで、もっとダイレクトに神様だけに委ねるべきだよ、という脅迫は観念みたいなものを覚えることがわたしの場合はあったわけです。
しかし、今の結論としてはそうでなくて良いのです。隠れた支えが明らかに悪いことでない限りは、このことについてこうなっていることも感謝します。しかし神様、その感謝を以てお願いします。このことをこうして下さいと祈ることができるのです。
略===

フィリピ2:1~11、4:4~13
新聖歌8七日の旅路/206飼い主我が主よ/272救い主の愛と
 おはようございます。
(現下の水害、地震への言及)