他人のことにも注意を払い――優しさはどこから?


フィリピ1:15~2:11
新聖歌40ガリラヤの風かおる丘で/105栄の冠を/260わが胸に響く歌あり
==文末にNIV訳の抜粋、日本語への直訳pdfへリンクあり==
tenderness2トリ

おはようございます。
文字通り、猛暑という言葉が相応しい昨今、如何お過ごしでしょうか?

さて今朝も、フィリピの信徒への手紙を紐解きたいと思います。
「他人のことにも注意を払い」というタイトルは、2章4節から付けました。では一緒にお読みしてみましょう。2:4です。
04めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

ここですね。この箇所を英語のNewInternationalVersion(福音派で最も用いられている訳)で見るとこう書いてあります。
Each of you should look not only to your own interests, but also to the interests of others.

Each of youあなた方お互いは、
should look not only to your own interests 自分自身のインタレスト(興味)だけに目を向けるのでなくって
but also to the interests of others 他の人のインタレスト(興味)にも目を向けなさい。

教会や信仰生活に関することで、自分のこだわりといいましょうか、自分が興味、関心を持っていることがあります。そのことに目を向けるだけではなくって、他の人の関心にも目を向けましょう、というわけですね。
若い人は年配者の関心に、年配者は若い人の、男性は女性の、女性は男性の関心にも目を向けましょう、というわけです。
ちょっと、朝礼の時なんかにお話しすれば良さそうな「いいことば」ですね。「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。
まあ、そういう日常的に心すべきこと、心遣いというものが、パウロの筆によって、どういう根本精神から出ているのか。そういうところを今日は見ていきたいと思います。

さて、聖書を読みますのに、日本語の聖書で読んでいて、何回も読むんだけど何か、漠然としてるというか、日本語は「分かる」んだけど内容がぼおっとした感じでつかめないとか感じてしまうときが私はあります。
そういうときに、英語の聖書なんかで読んでみるのもいいよ、と信仰の先輩に教えてもらったものでした。日本語で読んだ場合、言葉の実体としては、実は凄いことが書いてあるのに、余りに慣れすぎた言葉なので、分かってないのに分かったつもりになってしまう。すーっと通り越してしまうと言うか、言葉の鋭さを失ってしまっているんですね。
それを外国語で読むときに、言葉が分からないだけに、ひと言づつ一行づつ、一生懸命に言葉の意味を理解し直す。そうすると、言葉が心に引っかかってくると言うか、「わお!聖書ってなんて凄いことが書いてあるんだ!」と、新鮮に読めるわけです。
これは、聖書に新鮮に触れ続けていく、聖書に書かれている内容への理解に肉薄していくのに良い一つの手だと思います。

今回は私は、NIVで何回も何回も読んで、いろいろなるほど!と、新鮮に気付かされました。手許の註解書にも目を通すことで脱線にならないように気をつけつつ、思い巡らし神様から教えられたことをお分かちしたいと思います。

まずお読み頂いた箇所なのですが、これはフィリピの信徒への手紙の一番初めの方の部分で、パウロの嘆き節から始まっています。すなわち2:15から17節
15キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。
50001016一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、
50001017他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。

このことは前回、前々回も触れましたが、簡単に喜ぶことなどできないような状況、人間関係のなかに置かれていた苦労人パウロの嘆き節といいますか、愚痴と言えるかどうかは分かりませんが、フィリピの信徒の皆さんへの手紙に書かれているわけです。

その同じ箇所をNIVで見ますとこうなってます。今日は、NIVで読んで、それで分かった!というところを直訳的に日本語に訳して、それを解き明かす、というやり方でお話ししたいと思います。まず15節。

何人かの人々が、ねたみと競争心からキリストを(preach)述べ伝えていることは本当です。しかし、他の人々は、善意からします

いかがでしょうか? 続いて16節。

後者(善意からする人々ですね)は愛によってそれをする。私がここ(これは牢屋の中、ってことなのです。12節から読むと分かるとおりです)、牢屋の中にいるのは、福音の防御のために(守りのために)ここに置かれているのだと知っていてです。

17節には前者、すなわち、ねたみと競争心からキリストを述べ伝えているとパウロが看破してた人々のことが書いてあります。

前者は、利己的な野望からキリストを述べ伝えています。(sincerely)真実に、ではなく、私(パウロのことですね)にトラブルが起こることをそそのかすことができると思ってそうしているのです。私が鎖につながれているこの間にね。

いかがでしょうか? こういう状況。
 パウロは、自分のことを妬んで、あらぬ対抗心を燃やしている人々がいることをよく分かっていますし、その人たちが、パウロが牢屋に入って身動きも取れない、自由に反論もできないような状況のなかで、パウロをもっとトラブルに陥れてやろう、という動機で、そういう目的で活動しているということを知っているということなんです。なんてナイーブなパウロなんでしょう!
そういう彼らのしていることは、イエス様のことを述べ伝えると言うこと! それを妬みと対抗心という、不純な動機からやっているのです! イエス様のことを大切に思い、イエス様いのち!であるパウロにとっては、許しがたい冒涜に感じられ、怒りに胸が震えたのではないでしょうか?

しかし18節を読み進めますと、さすがパウロ!と感心してしまう発言がなされています。18節。

But what does it matter? しかしそれの何が問題だと言うんだ?
 重要なことは、全ての方法によって、間違った動機からであろうが、正しい動機からであろうが、キリストが述べ伝えられていることだ。だから私はこのことの故に喜ぶ!!!

パウロは結論として、ねたみによって、自分を苦しめることが動機で為されている宣教活動であっても、そのこと、その状況をrejoice!喜ぶ!と言ってるんですね! パウロの信仰はすごい!と思います。
そしてパウロは、そのように、I rejoice!私は喜んでる!といえる理由を語り進んでいきます。19節ですね。

なぜなら私は知っているからだ。あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊によって与えられる助けを通して、
何が私に起こったとしても、それは私のdeliverance(救い)に変えられるだろうということを。

 パウロは本気で信じているんです。あなた方が祈ってくれたら、イエス様の霊である聖霊様の導き、助けによって、そういう最悪の事態も私のこころの「救い」になるって。
パウロの信仰、そして信仰体験はスーパーナチュラルです。それは、祈ったら神様が耳を傾けていて下さる、答えて下さる。父なる神は、聖霊様を通して御業を進められる。それは、人の心の中が変えられて行くことや、閉じ込められている牢屋で地震が起こって牢の扉が開き、解放される!そういうことを含めてです。
そのことをパウロは体験してきたし、信じている。

そういう意味で、人間の範疇の中だけでものごとを考える自然なこと、を超えてスーパーナチュラル、超自然な信仰なわけです。本気でも祈って求めていれば、生きておられる神様が何かして下さる!そういうわくわくするような信仰にパウロは生きてきたのです。
そういう感覚を持ちながらパウロの手紙は続きます。続きを見ていきましょう。20節です。
私はひたむきに期待し、希望を抱きます。それは、私が少しも恥をかくことがなく、しかし、十分な励ましがあるように。
それで、いつものように今も、私のbody(からだ)によってキリストが高く崇められますように! 生(せい。生きることですね)によってか死によってか、どっちにしても。

パウロは、苦しい思いをして、自分だけただじっと堪え忍べばよいと思っているのではないのです。彼はもっと前向きです。
自分が少しも恥をかかないことになることを期待している。それだけでなくって、十分な励ましが自分にあるように!って言ってるんですね。
この辺が、日本語の聖書で読んでいて、何となく伝わって来にくいというか、パウロがただ、辛い思いの中で我慢して辛抱してるんだ、というような感じに、私は長い間取ってしまって来ていたんですね。
そうではないんです! パウロは自分の名誉が守られるよう、十分な励ましを受けられるようにと強く期待しているんです。
そして、その通りになったでしょう? 今私たちが、パウロの書いた文書を、日本語や英語の訳で読んでいる、聞いているということがその証しですよね。パウロの言い分を私たちは読んで、聞いて、納得しているのです。パウロの生きざまに、21世紀に生きる私たちは共感し、「あんたは正しい!」と思っているわけです。パウロにとっては、報われて余りあることでしょう。

そういう感覚の中で21節に続いていきます。

私にとって生きるということはキリスト。死ぬことも得るものがあります!

特攻精神ではなしに、自分を押し殺して無理矢理にではなしにパウロはそう言ってるんですね。
今日は、ここを深く思い巡らして見る時間がありませんが、「私にとって生きるということはキリスト。死ぬことも得るものがある」ということば、すごいですね! パウロはヤケのやんぱちでそういっているのでなく、喜びと誇りを以て言っている。それはパウロを積極的に活かす言葉なんです。思い巡らし味わってみて頂きたいと思います。

さて、それに続けてパウロはフィリピのクリスチャンたちへの思いといいますか、要望を書き進んでいきます。
22節から24節に進みます。

もしも私が肉体にあって生き続けるなら、それはfruitful labor 実りある労働になるでしょう。

ってパウロは言うんですね。22節の後半に行きます。
とはいえ、私は何を選べばよいか。私には分からない。

そして、23節。

私は2つに引き裂かれています。私は望みます。出発してキリストと共にいること、その方がはるかに良いのです。

パウロは内心、この世の苦労を早く終わって、あの世の方に行きたいと思ってるわけですね。その偽らざる心情を仲間に、後輩たちに吐露しているんです。

しかしパウロは続けます。24節。
しかし、私が肉体に留まることが、あなた方のためにもっと必要です。

私が肉体に留まる、すなわちまだ死なないで、福音のlabor労働、働きを続けることの方が、自分は死んでラクになるより、あなた方のためにもっと必要なんだ、という認識を言っているのです。

そして、だからあなたがたも私からの期待に応えて下さいね、という話の流れになっていくのです。
しかしそれは、パウロのためにもっと何かしなさいとか、パウロのことを優遇しなさい、パウロにサービスしなさい、と言うのではありません。27節に飛びます。

あなた方は何が起こったとしても、自分たち自身をキリストの福音にふさわしいように導きなさい。
そうしたら、私があなたたちのところに行ってあなたたちに会うにしても、私の不在中に、ただあなた方のことを聞くだけであったとしても、私は知ることになるでしょう。
あなた方が堅く一つのスピリットに立っており、一人の人のように福音の信仰の為に戦っていると。

そうであったら、私はとても嬉しいのだ。そのこと期待しているんだ、とパウロは言っているわけです。
そしてそういう生き方は、私のこれまで歩んで来た道筋を見て、知って、学んで、倣ってくれているのだから、君たちは分かっているじゃないか、とパウロ先輩はフィリピのクリスチャンの後輩たちに言っているわけです。29~30節に参ります。

このことがかなうのです。それは、キリストのために、彼を信じるということだけでなく、彼のために苦しむと言うことがです。

こころから愛する人がいるならば、その人のために苦しむことさえできる、ということは喜びではありませんか? 母親が子どものために苦しむというのもそういうところがあるかもしれません。それは子どもを愛しているからです。
イエス様のために苦しむことができる、というのは喜びなんですよ、とパウロは証ししているのです。そして30節に続きます。

だから、あなたがたは、私が苦闘したことをあなた方が見たのと同じところを通っているのだし、そして、私がまだ苦闘していることを今も聞いているわけです。

すなわちパウロは、キリストのために、キリストの故にフィリピの信徒たちが苦しい思いをしているのは、それは私と同労者じゃないか!、真の仲間じゃないか!と言っているわけです。

現在の日本に生きる私たちも、イエス様を信じて生きるが故の多くの信仰の戦いがあり、そのための苦しみ、苦闘もあります。けれどもそれは、イエス様を愛しているから、苦しみさえ喜んで受けているんじゃないか。
パウロが戦ったのと同じような、信仰者として生きるが故の、人生の闘いを戦っているじゃないか、というパウロ先輩の励ましの声が聞こえてくるような思いが致します。

2:1に進みます
もしもあなた方が、キリストと結びついている(uniteユナイトしている)ことによる励ましがあるのなら、もしも彼の愛からの慰めがあるなら、もしも聖霊との交わり(fellowshio)があるなら、もしもtenderness(これはlove me tender love me sweetのtenderですね! すなわち)優しさとcompassion思い遣りがあるなら、

もしもの一つひとつを吟味するだけで、どんなに素晴らしいことでしょう! キリストにつながってる、って励まし。基督の愛による慰め。活きておられる聖霊様を通しての交わり。そういうところから来る、またお互いの間の、べたべたしているわけではないけれど、本当に相手のことを心配しているtenderness優しさやcompassion思い遣り。
そういうものをあなたたちは持っているじゃないですか! イエス様を信じて生きることから来る苦しみさえ喜んでいる。そういうことが分かる世界にあなたがたは生きているじゃないか!とパウロは呼びかけて、お願いに移っていきます。
2節。

それならば、私(パウロのことですね)のjoy喜びを完全なものにして下さいネ。それは同じ考え方を持つことによって、同じ愛を持つことによって、スピリットと目的において一つとなることによって。

そして、3節、4節と、最初に一緒にお読みした「他人のことにも注意を払い」というみことばへと近づいて行きます。3節。
自己中心なambition野望や無駄なうぬぼれからは何もせず、謙遜の中で、他の人々のことをbetter than yourselves自分たちよりもベターな人々と思いなさい。

続いて4節。
あなた方お互いは、自分自身のインタレスト(興味)だけに目を向けるのでなくって他の人のインタレスト(興味)にも目を向けなさい。

3節にあったambitionは、あのクラーク博士が言った「Boys be ambitious」のambitionであって、良い意味、正しい意味での大志、野望であるかも知れません。しかしそれが隠された自己中心を動機として出て来るものであったり、無駄なうぬぼれを伴うものとして出てくる場合だってあるとパウロ先輩は聖霊の導きによって看破しているわけで、
パウロが牢に入っている間に、もっとトラブルに陥れてやろうという動機でキリストを述べ伝えるという大志を実践に移した人々は、まさにそういうことえありましょう。
そういうことだって、かまわない。キリストが述べ伝えられてさえいれば、とパウロは言うけれど、やっぱりそうあって欲しくはない。
神様を愛する、イエス様を愛する、イエス様に対して聞き従う従順な態度で神様の御業をして欲しい!とフィリピの信徒たちに、そして、いまの私たちに呼びかけているのです!

もうそうろそろ結びにしますが、6節から「キリストは、神の身分でありながら」ではじまり11節「父である神をたたえるのです」に至る部分は、初代教会の賛美歌の歌詞の内容が引用されているのだと言われます。

イエス様って、こんな方だったね、こんな方だね! 全地を作られた全地全能の神様が、まるでありんこのような私たちのことを気にとめ、愛して下さって十字架にまで掛かって下さったね、ということを歌っています。

そのことが、アタマではなく心で深く分かっているパウロは、またフィリピのクリスチャンたちは、今日、お話しさせていただいたような内容の世界を、「そうだよな~」とうなづくことができた。そのように生きることができたと言うことではないでしょうか?
この賛美歌の内容はまた次回に学びたいと思いますが、ご自分でもご自分の聖書をお読みになって、これは、ああこういうことを言っているのだな、これはどういうことを言っているのだろうかと、どうぞ思い巡らしてご覧になって下さい。

それでは今週も、イエス様を愛して、祈って生きる、ということのなかで、「他人ことにも注意を払い」という生き方をして参りたいことと思います。
お祈り致しましょう。
180722フィリピの信徒への手紙の一部NIVから和訳