へりくだって下さったイエス様――「アダムの子孫」の救いの根拠

35分


フィリピ2:1~24 新聖歌4小羊をば/99馬槽の中に/89神は独り子
最初のアダム最後のアダム50_scale(x2.000000)
おはようございます。
うだるような暑さですね。いかがお過ごしでしょうか。

あついと言えば松岡修造! 前回に続いて、松岡修造より熱い男、パウロから、フィリピの信徒への手紙です。前回のお話しから、週報に載せて頂いた説教要旨から抜粋してお読みさせて頂きます。
略===================
 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。「いい言葉」ですね。パウロがそれを言っている、その根本精神を見ましょう。
 パウロは先ず、愚痴を言っています。私を妬んで、不純な動機で伝道して、牢屋にいる私を苦しめようと図る人々がいると。しかしパウロは「それが何であろう。結果としてキリストが伝えられるなら」と言います。
 そのことが、「あなたがたの祈りと聖霊の助けによって私のdeliverance(救い)になると知っているから」というのです。本気で神を信じ、祈りを信じているパウロです。
 パウロはただ闇雲に忍従する姿勢ではありません。「私が恥をかかないよう。十分な励ましがあるよう」にとひたむきに希望しています。そして私たちがパウロのこの手紙を読んで、納得していること自体、その祈りが叶えられたことを意味してはいないでしょうか?
 死んでこの世を去る方が自分には楽だ、と心情を吐露するパウロだが、同じく本音を以て「生きていてあなたがたの信仰の助けになる方がはるかに良い」と言うのです。
 そんなパウロを見習う信仰の線上にフィリピの信徒たちは立ってるし、だから分かるでしょ?とパウロは確認しているんです。自己中心なambition大志や無駄な自惚れからは何もせず、純粋にイエス様を愛する動機から神の働きをして欲しい。
それこそ、同労者である私、パウロを励ますことですよと。
===================以上略

その前回のメッセージの中で、2:6~11は、初代教会で歌われていた賛美歌なんだ、ということを申しあげました。
イエス様ってこんな方なんだ!ということが、信仰の告白や教えのために歌われていたのです。
それは、全地を創られた全地全能の神様が、まるで蟻んこのように小さな私たちを気にとめ、十字架にかかって命を与えるまでに愛して下さった。そういう内容の歌なんだと前回お話ししました。

それでは早速ご一緒にお読みしてみましょう。フィリピの信徒への手紙2章です。それでは、その賛美歌の部分に入って行く少し前から読みましょうか。2:3から読みましょう。

03何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
50002004めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
50002005互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

はい。そして、6節から賛美歌の部分に入って来ます。11節まで一緒にお読みしましょう。さんはい。

50002006キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
50002007かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
50002008へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
50002009このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
50002010こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
50002011すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

なんと申しますか、非常に広大で高い、といいますか、スケールの大きな歌です。そしてある意味、キリストというものを厳密に、神学的に、とさえ言って良い言い方で解き明かしています。
 それががちがちの神学論文ではなく、賛美歌として歌われているのです。
そしてパウロがそれを引用するときも、論文としてではなく、お手紙として、しかもその手紙は、自分の愚痴あり、憤りの気持ちの吐露あり、しかしそれをどう考えたかの正直な告白あり。人生の秘訣の助言あり、それも「自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」ねという日常のレベルで、分かりやすくアドバイスが書かれているのです。

 頭の固いがちがちの、きまりを守らなアカン、という世界でなく、わくわくするような活き活きとした信仰生活の実態を背景として、このお手紙は書かれているのです。
だから私たちも聖書を読んで、信仰生活を、祈りを実践することは楽しい、わくわくすることです。
 
ジョン・ストットという方でしたでしょうか、ちゃんと調べてないんですけど、イギリスの、世界的に有名な聖公会の司祭さんがいます(知っている方は教えて下さい)。その方は、世界のKGKネットワーク、また福音派のリーダーのお一人だった方ですが、その方が次のような意味のことを言っています。
クリスチャンというのは、この地上に足を着けて歩きながら、アタマは天の上に突き出して、そこで天の空気を吸って生きている。わたしのように疲れた中年のおじさんでもね!

いかがでしょう。Let’t imagine! 想像してみて下さい。
あなたはこの大地に足を着け、日常の暮らしを疲れて、這いずり回るようにして生きています。でも頭は雲の上、天にまで突き出して そのすがすがしい天の空気を吸うことができる!
 そのところを変な風に、コミカルに想像しちゃうとダメですね。天に届くってどんだけ背ぇ高いんですか? うんと細長い体なんですね?というツッコミになってしまうわけです。もちろんそういうことをジョン・ストット先生は言いたかったわけではないですね。

天は地の上にあるというのは、日本を走っている列車は全て、東京の方に向けて「上る」という意味合いで、ユダヤ人の間でも、上、下という言い方がある。エルサレムの都に「上る」、と言う風に把握する概念があるわけです。
天が「上」にあるとはそういう意味においてです。そういう説明を、後で名前をご紹介するN.T.ライトという神学者も言っています。
今申しあげた地とか天ということは、イエス様がおっしゃった「神の国」に関係します。神の国が来たとイエス様がおっしゃっているところを一緒に読みましょう。
ルカによる福音書17:20-21です
20ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。
42017021『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

神の国はもう来ている!私たちのまっただ中に神の国は来ているとイエス様はおっしゃったわけです。
それは実は、さっきジョン・ストットのお話しに出たような、天と地が、両方セットになって「来た」んです。
それはどういうことかというと、「天」というのは、神様のみこころがその通りに遂行されているところ。また、「地」に対して、いわば指令を出しているところです。ところと言っても物理的な場所ではありません。
そして「地」は、私たち人間の、日常の営みが繰り広げられている空間であり時間です。
そして天から出された指令がその通り行われる、すなわち、天における神様のみこころが、地においても行われているのが神の国なんですね。

天における神のみこころが、私たちが今生きている「地」においても行われますようにということは、イエス様が教えて下さった「主の祈り」の中で教えられている通りです。
それでは、今日の礼拝の中でも、先ほど共におささげしました主の祈りを(週報に刷ってありますが)1行目と2行目を一緒に声を合わせてお読みしてみましょう。
天にまします我らの父よ、願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。みこころの天になる如く地にもなさせたまえ。

イエス様が、この世に人として生まれて下さったことによって、神の国はこの地上に画期的にやって来ました。それは主の祈りで祈られているように、神様のみこころが地でも行われることが、イエス様において完全にそうなったからです。
イエス様は100%、父なる神様のみこころを求めて行うことしかなさいませんでした。そのことはヨハネによる福音書8:29でもイエス様が仰っているとおりです。それでは一緒にお読みしてみましょう。
29わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。

「わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」。天と地がピッタリと重なっている、そういう神の国。イエス様ご自身の存在と、生き方が、その神の国を完全にもたらしたのだ、という解説を、イギリスの、N.T.ライトという神学者がしてくださっています。ジョン・ストットの後輩筋と言うべきお方です。私もその解説は当たっていると思います。

ライトさんは昨今、イギリスやヨーロッパ、そしてアメリカでも徐々に、高く評価されています。旧約聖書からつながる新約聖書と、初代教会の人たちが書き残したことを、学術的にきちんと研究したうえで、堅実で健全、納得いくキリスト教神学を体系的に説明して下さっています。
それを大衆にも分かりやすく書き下ろした本もたくさんあります。日本語によるライトさんの翻訳本は、すでにもう6、7冊出されています。しかも、福音派系のいのちのことば社やあめんどうといった出版社と、そうではない新教出版社、教文館といった系統の出版社と両方からでています。
すなわち、堅実な、聖書に立脚したものの考え方が、広く日本のキリスト教界に良い影響を与え、さわやかな風を通し、そしてそれは、まだせせらぎのように小さなものであっても、豊かなリバイバルの兆しのように感じられます。
実は、次に日本で出されるライトさんの本に、私もちょこっとだけ編集実務で、タッチさせて頂いたのです(笑

さて、イエス様は、父なる神様のみこころだけに従うことをお求めになりました。実際、人として、そのようにお生きになってのです。
フィリピの信徒への手紙2:6~11は、そのことが如何に、すさまじいばかりに凄いことなのかを告白し教え、歌っています。6節を一緒にお読みしましょう。

06キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
この箇所を新改訳では、
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
と訳しています。この「神の身分である」とか「神の御姿である」と訳していることばは、「神様のご性質やご性格である」ということなのです。

創世記1:27には、神様が人を創造なさったときに
神は御自分にかたどって人を創造された。
と記されています。新改訳では
人をご自分のかたちとして創造された
となっています。フィリピ2:6で、「神の身分である」とか「神の御姿である」と書いてあるのは、その神の「かたち」である、と記されているのです。すなわち、イエス・キリストは、天地を創造された神様の「かたち」「そのもの」である、と言っているのです。
私たち人間はあくまでも、神のかたちに「かたどって」創られたに過ぎません。しかもそのかたちはアダムの堕落によって、ひどく損なわれてしまっているわけです。

一方、イエス・キリスト様は元々、父なる神のかたちと同じかたちのお方である。すなわち三位一体なる神のお一人であることが、ここに告白されているのです。
そうであるのに
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

これは、イエス様がクリスマスに、人間の赤ちゃんとしてお生まれになった際に、神であられることを止めてしまった、捨ててしまった、という意味ではありません。
イエス・キリスト様は100%人としてこの世に生まれて下さったと同時に、100%神でいらっしゃったお方です。復活なさってご昇天された後の、今もそうでいらっしゃいます。それが正統的なキリスト教における伝統的な理解です。

では、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
とはどういう意味でしょうか?

それは、神でありながら、神としてお受けになることが当然の特権を放棄して下さった、捨てて下さった、ということを歌っているのです。
神としての特権って何でしょうか? ユニバーサルスタジオジャパンに一生無料で入場できる特権だとか、(足利氏の直系の子孫の今の当主が、)金閣寺や銀閣寺に顔パスで入れるのと同じようなものでしょうか?(余談ながら、いまの足利当主はクリスチャンになっているという記事を取材したことがありました 笑)

いいえ、そんな小さな小さなものではありません。
世界中、いや全宇宙の全てのことを知っていらっしゃる「全知」、そしてどんなことでも自分の思い通りにできる「全能」、そして、同時にあらゆるところに存在している「遍在」。
そのような神の特権を、イエスさまは放棄なさって人間になってくださった。無力な赤ちゃんとして生まれ、最後は、十字架に掛けられて殺されて死んでくださったのです。
そのことは7節8節に、

50002007かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
50002008へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

と記されている通りです。
文語訳聖書では
己を空しうししもべのかたちをとり
とあります。
全能の神様が、しもべのかたちをとられた。それは「己を空しうして」です。本来、神であられるのだから、自分の方が仕えられる者であり、それが当然なわけです。そのお方が、しもべの「かたち」となられた。
しもべの本質は、全能の神の全く逆です。自分がアレをしたい、コレをすべきということを、好きなようにする立場ではありません。あくまでもご主人のご意向に沿って、主がして欲しいことを、して欲しいやり方でするのがしもべというものです。

そのしもべの「かたちをとり」というのは、6節で言及された「神のかたち」と同じ「かたち」という言葉が使われています。しもべのかたちであること、神に仕えるしもべであるということが、キリスト・イエス様のご本質であり、ご目的、ご性なのです。そういう者にイエス様は、なって下さった。そういうことを歌っているのです。

そして
人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ

て下さいました。これは、内面的にも外に現れた容貌としても、ということです。100%神であられるイエス様は、100%人となって下さったのです。

そして、人として、父なる神様のしもべの立場である。父なる神様に従順である。そういうあり方の人生をイエス様は生き抜かれました。それは実は、創世記で神様が、アダムとエバをお創りになった時、人というのはそういうものであるようにとお創りになったのです。
ところがアダムとエバは、創世記3章にありますように、自分の意志で、神のみこころに逆らう選択をしてしまいました。
その出来事の本質は、アダムは、自分が神になりたい!と思ったということなのです。創世記3章に、人が神の僕ではなく、自分が神になれるよと、サタンがそそのかしたことが記されています。

それでは創世記3:4~5を一緒にお読みしてみましょう。
04蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
01003005それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

アダムとエバはまんまと騙され、神の言うことを聞かないことを通して、自分が神のようになりたいと思いました。しもべではなく神になれると思って、神がはっきりとお禁じになった木の実を、自分の意志で食べてしまいました。
しかし、結果はどうでしょうか? 神にはなれませんね! かえって、元々神の「かたち」にかたどって創られたその輝きは失われてしまいました。自分では賢いと思っているようでいて、愚かな生き方に入ってしまった人間というものなのです。私たちはそのアダムの子孫たちなのです。

しかしフィリピ2:8~11に驚くべきことが歌われています。
一緒に読んでみましょう。
08へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
50002009このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
50002010こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
50002011すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

イエス様は、父なる神にしもべとして従順に、十字架の死にまで従われた。だから父は、キリストを高くお上げになったのだと記されています。
父はイエス様を、復活おさせになり、昇天させなさった。そして高く高く上げて、あらゆる名にまさる名をお与えになった。

これは元来、アダムがとるべき道筋でした。アダムとエバはそうあるべきはずでした。すなわち人として、ご自分を創って下さり愛していてくださる神を信頼し、自分の意志で、愛を以て、神にお従いして生きていく。
そうするときに、あらゆる被造物、創られたものの上に「高く」上げられ、あらゆる名に勝る名が与えられるはずの者だったのです。それは天使たちよりも高くなのです。
そのことに関連する聖書箇所をお読みしたいと思います。コリント信徒への手紙一15:22と45です。
22つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
続いて45節。
45「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。

時間が来ましたので詳しく論じることはできませんが、創世記に登場する最初の人アダムが、父なる神に逆らって、その子孫である全ての人が死ぬようになった。のであったけれども、御子イエス・キリスト様は、まことの人となってくださった。
すなわち、最後のアダムとなって下さった。父なる神に従い損なうことなく、最後まで人として、すなわち神に従順に、真に人間らしく生きて下さり、それをすることができない私たちの代表として身代わりとして、
十字架の死に至るまで従順
であることを貫いて下さいました。最後のアダムであるイエス・キリスト様は、神が願っておられたまことの人となり、そのまことの人であることを、「最初のアダム」の子孫である、罪びとの私たち、何の功績もない私たちに、ただで、無償で「与えて」下さったのです(出版版元「あだむ書房」のオーナーとして私は、この辺ちょっとこだわってみました!)。

そして、そのイエス様を差し出して下さった救いを、ありがたく受けとめ、感謝して生きる者に、聖霊によって新しいいのちや新しい性質を与え、私たちをもフィリピ2:5にあるようにキリスト・イエスのご性質、その生き方に倣う者に、日々変えていって下さるのです。
 それは全て、極限から極限へと、へりくだって下さったイエス様のお陰です。神の栄光をたたえ、感謝致します。
お祈り致しましょう。