私の証し 超教派人生と乗り越えた危機


証しの機会が与えられて感謝致します。
私は、小学校六年生の時に、母に連れられて教会に行き、イエス様を私の救い主と信じてクリスチャンになりました。

主の導きで私は、一つの教会の枠を超えた、超教派的な働きに関心があり、ずっと関わってきたと思います。
 学生時代、KGK(キリスト者学生会)の活動に熱心に取り組みました。それはクリスチャの学生たちが、所属教会はそれぞれ違っていても、学校の中で助け合って、クラスメイトにイエス様のことを証しするムーブメントです。
そのご縁で数年前まで、KGKの全国理事の一員として活動させて頂いたこともありました。

大学卒業後は、いのちのことば社に就職し、文書伝道に取り組みました。クリスチャン新聞の部門に配属されて十五年間、記者として仕事を致しました。北海道から沖縄まで、さまざまな人や教会を訪ね、主の御業を拝見致しました。
 最寄り駅までクルマで迎えに来てくださり、助手席に座ると早速、取材ノートを取り出して取材を開始。食事中も、これは、と思う話があれば、ノートを取り出してメモする。もちろん写真も自分で撮る。そんな日々でした。
日本の諸教会の傷みや悩みと共に、見えないところで懸命に誠実に、主に仕えている方々がおられることを知りました。

また、主は常に、目立たないところであってもいろんな兄弟姉妹に志を与え、新しい息吹を吹かせておられることを知りました。
いまも、応援を必要としている教会に、助っ人として行かせて頂いたりしています。文書伝道も続けております。
また日本の伝道にとって大きな影響があるけれども、  協力して取り組ませて頂いております。そういうこともあるのかなぁと、お祈りに覚えて頂ける方があればとても心強いです。

さて、昨年始め、私は腎臓の病気で入院し、病院では陽気に過ごしていたのですが、退院してからあることをきっかけにメンタルが落ちました。それはひどい落ち方で、「もう自分も一巻の終わりか」と思ったほどでした。
そのきっかけは、病気になったことが自分の不注意であった。そのことを思い、また、昔のことを、あの時ああしていれば、こうしていれば、と思い返してしまったのです。
そんなことばかり考えて、喩えて言えば、ドリルで脳みそにキリキリとアナをあけながら、ねじ込んで行くように、過去を悔やんで、あれこれ考え続けるのが止まらなくなりました。ところが過去のことを考えていないときにも、アナだけがぽっかりと残っている状態になってしまったのです。すなわち、私は鬱になりました。

安定剤を処方して頂いて一日三度は飲むようになりました。出口を求めて一生懸命祈り続けました。その祈りは、「どんなことがあっても、父なる神様は私のことを愛しておられることが、私に分かるようにして下さい」という祈りに導かれ行きました。
ところが神様の襟首をつかむようにして願っても応えられないと感じ、おこって聖書をバーンと壁に投げつけるようなことすらありました。
しかし必死で求める愚かなしもべを、主は哀れんで下さいました。もう冬になったある日、メールで相談に乗ってくれていたある方が、夜、こんなメールをしてきたのです。「私も、神様に向かって怒ってばかりいたけど、そうではなくて主に感謝するとか、賛美するとかしないといけないことが分かりました。そうしたら祈りがきかれたと実感できることができました。三浦さんもそうして下さいね」というのです。
私はとても釈然としない思いでその晩は休みました。そして朝、目覚めると、私のデスクの、ある一角だけが異様に片付いていて、そこに「ある本」が、裏返るでもなく斜めになるだけでもなく、すっと真っ直ぐに置いてありました。
それは、マーリン・キャロザースという方が書いた「獄中からの讃美」(Prison to Praise)という本でした。もちろん家族が置いたわけではありません。

それは、どんな出来事が自分に起こっても、それがイエス様がお掛かりになった十字架よりも酷い出来事でない限り、主に感謝しなさいと勧める本でした。たくさんの証しが載っていて心励まされました。
「そうだ。父なる神様が許可なさらない限り、どんなことも私の身に起こらなかったのだ。だから、理由が分からないことも含めて、全てのことを主に感謝しよう」と心に決めました。 
そして熱意を込めて取り組んでおります。結果は、喩えて言うなら、私にとってはよく効く、「祈り方」のクスリを与えて頂いた感じです。
以前は、全てのことを主に委ねよ、と示されているのだが、ハウ・トゥー委ねる、どうやって委ねるかが分からなかったのです。それへの答えを与えて頂いた思いがしています。問題の、神様への丸投げというわけです。

イエス様の十字架も、天のお父様は、それが起こらないようにしよう思えばできた。しかし、その出来事を通して、それが恵みに変えられるから、父は御子イエス様がお苦しみになることを許可された。私の身に起こることも、益に変えられる可能性のあることしか主はお許しにならない。そのことを信じることにしたわけです。
自分が悪くて起こってしまった出来事でも、もちろんそれを悔い改めると共に、「これも主の許可がなければ起こらなかったのだから」と感謝してしまいます。そしてピリピ書4章6節にあるように
あらゆる場合に感謝をもってささげる祈りと願い
によって、「このことはこうして欲しいのです。私の弱いところも変えて下さい」という具合に祈り、願います。そうすると「すごく祈りが聞かれた感」があるのです。
安定剤はもう要らないな、と思うようになって数か月になります。というよりも、今回の試練を通して、一つの大きな信仰の山を越えさせて頂いた思いが致しております。小さなしもべのためにも続けてお祈り頂ければ幸いです。
また、一番大変な時に見捨てないで、支え続けてくれた妻・ゆたかと、家族に、心から感謝を表します。
お聞き頂いて、ありがとうございました。

==尾上聖愛教会(正会員として家族で所属)の8月19日礼拝にて