様子を知って力づけられ――間違った「従順」に陥らない信仰者


フィリピ2:12~30 新聖歌1/154/204

パウロとテモテ

 前回は、フィリピの使徒への手紙に載っている、初代教会で歌われた賛美歌のことを申しあげました。フィリピ1:6~11のことですね。その賛美歌は、イエスさまはどんなお方かを頌えて歌っているんだ、ということを申しあげました。
 それはすごいお方が、私たち人間の世界に来てくださった。そのお方はすごい方なのにへりくだってくださった。そのことによって私たち人間は救われる。そのへりくだりによって、その方は主として崇められている。そういう内容の賛美の歌です。

エドワード8世

 イギリスの2代前の国王、エドワード8世が皇太子だった14、5歳の頃、海軍兵学校に在学していて、そこで同級生からいじめられていたんだそうです。彼が泣いているので海軍将校が生徒たちになぜエドワードくんを蹴飛ばしていじめるのか聞いた。
 すると生徒たちははじめ、もごもご言ったりもじもじしていたがやがて白状しました。彼らは将来、海軍の司令官や艦長になるわけだが、その時に「俺は昔、国王を蹴っ飛ばしたことがあるんだよね」と言いたいからだ、というのです(デール・カーネギー「悩まずに進め」より)。同級生たちにとってエドワードは、未来の究極の上司である国王になるわけで、まあイギリスらしいたいへんユーモラスなエピソードだと思います。
 イエスさまの場合はそれどころではない! イエス・キリストさまは神のご身分であられる。すなわち三位一体の子なる神さまでいらっしゃる。全地全能の神さまです。それが、神である特権を捨てて人間となってくださった。何を捨てて下さったかというと、すなわち、神さまだけがお持ちの全知、全能、遍在を捨てて、限界のある、疲れもする肉体をとって、限界ある人間という存在になってくださった。
 そういうことが歌われているところを一緒にお読みしてみましょう。

 フィリピ1:6、7です。ご一緒に。
06キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
50002007かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ

 そして前回、創世記においてアダムとエバが作られた時、人間というものは本来、自分の意志で、創り主なる神さまを愛し、神さまのみこころに従う生き方をするために、するように作られたということを申しあげました。
お茶入れ直し
 たとえば、お茶を入れて欲しい、と言われて出す。そんな小さなことでも、いろんな人間の思いが渦巻き、描き出されます。
 高圧的に「とっとと茶ぁいれんかい!」と言われて、ものすごくそれが嫌で、本当はお茶なんて入れてやりたくないと思っているのに、逆らうと怖いから入れる場合だってあるでしょう。
 何も考えず、淡々と入れる場合だってあるかもしません。
 しかし、本当に愛し合っているあつあつの二人の間で、そういうことが起こったらどうでしょう。
 頼む方も、どんなにか心を込めて、お茶を入れてくれることを頼むでしょうし、入れる方も、幸せいっぱいな心持ちで、いろんな思いを込めてお茶を入れてあげるしょう。

 神さまと人間の関係って、そんなに単純なものではないでしょうが、それでも、「神さまは」人のことを大事に思い、慈しんでおられること。人間は、その神さまからの愛を受けて、それにお応えして生きるべき存在である。基本的にはそういうものとして、神と人間の本来の関係はあった、ということを心に留めておきたいと思います。

楽園追放

 アダムとエバは自分の意志で神を疑い、神に逆らい、神がしてはいけないとはっきりおっしゃっていたことをしてしまいました。それが実は大変なことだったんですね。神と人との関係が根本的に損なわれてしまったからです。それ以降、人というものは、本質的に創り主である神を疑い、逆らっている者となってしまいました。そして他の被造物も「虚無に服す」というとんでもない影響を与えてしまった。人間が、神さまの前に罪人であると言われる所以です。

そのことに対して、人となって生まれてくださったイエス・キリストさまは、父なる神さまの愛をいささかも疑うことなく、ご自分も父なる神を愛し、神のみこころを求め、ご自分の意志をもって、父のみこころに従って生き抜かれました。
その生き方を、福音書は記録してくれているわけですね。

その、神に従って生きることは、アダムがそう生きるべきなのにそうすることができなくなってしまった生き方です。
 そんな、まったき人としての生き方を全うされたお方がイエスさまです。このお方が、十字架の死に至るまで父なる神さまに従順であられた。

 その十字架の死は、神のみこころを求めることを嫌う、罪人である私たちの身代わりの死なのです。私たち人間は、そもそも神に従おうなんて考え方自体を持っていませんし、神に従う生き方をしたいと思ったとしてもそれを行う力もありません。
 罪のない、まったき人であるイエスさまが身代わりになってくださったから、自分の罪が赦されていることを感謝して信じる者は、神さまとの関係が回復されます。そして聖霊を与えられて、その内側から、神さまを愛し、神さまのみこころを求めることを喜ぶ生き方に変えられて行くのです。
 そして全ての被造物も、虚無の呪いから解放されることが始まっているのです。
 ですから全ての作られたものはこぞって、十字架にかかって購いを成し遂げて下さった、神の御子イエス・キリストさまを誉め称えることになるのです。とても壮大な歌です。

 そういうことを歌った部分を読みましょう。8から11です。
08へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
50002009このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
50002010こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
50002011すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 そういう流れの中、12節の従順ということが言われています。
 では12、13節を一緒にお読みしてみましょう。
12だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
50002013あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

 ここで従順という言葉に注意を向けてみたいと思います。
 これは取り方を間違えれば大変な言葉、悪い言葉になってしまいます。
 たとえば、カルト的な教会があったとして、そこの独裁的になった牧師さんがパワハラなんかをしているのに、信徒の疑問や諫めの声に耳を貸さず、自分の言動を正当化するために、「聖書に『いつも従順であれ』と書いてあるではないか」。
「しかも、わたしが共にいるときだけでなく、いない時にもとさえ書いてある。いつでも牧師に対して従順であることが、救いを達成する道なのだ」などと言い出したらどうでしょう。そうですね。それは聖書のみことばの使い方を間違っています。理解の仕方を間違っています。私たちはみことばを正しく解釈することに気をつけなければなりません。

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さて、ここで言う従順という言葉は、日本語でいう従順とそんなに意味が違わないようです。素直に言うことを聞いて従うことです。
ですから、誰に対して従順であるのかが一層大切になります。
6から11節では、イエス・キリストさまがどれだけ、父なる神に従順であったか。それはアダムが本来、そうあるべき従順だった。そういうことが描かれた直後に出てくる従順であるわけですから、根本的に、私たちは、父なる神さまに対して従順であるようにと勧められていることが分かります。

13節を見ますと、
13あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
とあります。ここは新改訳ではこういう訳になっています。
13神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

ここは元のことばで見ますと、先ず冒頭に、
なぜなら神が、あなた方のうちに生じさせているから
とあります。神はあなたがたのうちにあることを生じさせる、起こるようにしているから従順であれ、ということが言われているわけですね。

では神は何を「私たちに」生じさせているか。それは
神に喜ばれることのために「願望すること」と「活動していること」
 それを神は生じさせている、起こるようにさせている、と記されているのです。
 
私たちが、神を喜ばせるために、願いを起こしたり、その実現のために活動していたりする。
それは大きなことも小さなこともあるでしょう。家族のために一生懸命やるのだって、神さまがお喜びになるから、と思うかもしれませんし、お花に水をやって涸れさせないようにすることさえそうなのかも知れません。
 そういうことが私たちに起こるようにさせることをしているのは神さまなのだ。神はそのことを、私たち信じる者の内側で、ご自分の働きとしてなさっておられるというわけです。

削除==興味深いことに、神さまが「させておられる」の「させる」と、人間がする「働いていること」の「働いている」とは、全く同じ動詞が使われているのです。自動詞だと働いているとか活動しているという意味になる同じ動詞が他動詞として使われると「なになにを生じさせる」となる。
 私たちが、神さまに喜ばれるようなあんなこと、こんなことを企て、その実現のために働いているということにおいて、それは隣の誰かさんの中にも、そういうものを生じさせている、ということが起こっているのかもしれません。

 いろいろ聖書オタク的に調べてみました(笑)ので、もう少し付け加えますと12節の「従順」ということばなのですが、これは24時間いつでも、何でもかんでも「はいはい」と言うことを聞いているという感じの言葉ではないようです。
そうではなく、注意していて、指示があったら従順である、そういう感じですね。同じ言葉が使徒言行録12:13に出てきまして、そこを読んでみます。
13門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。
 これはペテロが捕らえられて投獄されていたのが、超自然的な方法で夜中に解放され、仲間が集まっている家に戻って戸をどんどんとたたいた。その時にノックに応じたということですね。夜中であってもノックされたらそれに応える。そういう感じをもっている言葉だと言うことが分かります。(しかもアオリストの時制で書いてある!そこにalwaysという意味の副詞が修飾する、そんなかたち)==削除
 
 さて、私たちは、実は神さまによって志を起こさせられ、その実現のために労させて頂いているということを見ました。それに引き続いて14節以降が書かれているのは大変興味深いところですでは14から16を一緒にお読みしてみましょう。
14何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。
50002015そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、
50002016命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。
 

 神さまが起こさせて下さったような志を与えられているなら不平や理屈、この理屈という言葉は新改訳では疑いと訳しています。不平や屁理屈や疑いなしに、やり続けなさい、と記されているのです。
 そうして行くことによって「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝く」ようにすらなる。「命の言葉をしっかり保つ」者になるとさえ言うのです。
 フィリピの人たちに福音を伝え、イエスさまを信じる生き方を伝えたパウロにとっても、それは「自分が走ったこと」が無駄ではなかった。「労苦したことも無駄ではなかった」ということになる。あなたたちがそういう人に育ったということを「キリストの日に誇ることができる」とさえ言っているわけです。

拡大パウロとテモテ

 そんなパウロが喜びを感じる人物としてテモテが登場して来ます19節に
19さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。
とテモテは登場して来ます。パウロは20から22節でテモテのことをこう評価しています。

50002020テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。
50002021他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。
50002022テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。
もうべた褒めです。

こんなテモテは聖書にたくさん登場する人物です。パウロがテモテ宛に書いたスペシャルレター「テモテへの手紙」が1、2とありますし、その他、使徒言行録や書簡の中、ざっと20箇所ほどに登場します。
その中で、歴史的に一番早い登場場面は使徒言行録16:1です。お読みしてます。
01パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。
44016002彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。
44016003パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。

 これはパウロがアンティアキアに留まっていた頃に、それまで宣教活動をしていたバルナバと、人事の考え方を巡ってケンカ別れしてしまった(いろんなことがあるものです!)。
 そこで、自分が相棒として連れていくのにテモテを選んだわけです。
 といっても、パウロにとってテモテは親子ほども年齢差のある若造でした。この若者のテモテを伝道旅行に連れて行って、パウロは実戦のなかで育てていったわけですね。

その伝道旅行の中で興味深い箇所があります。使徒言行録17:10から15です。一緒にお読みしてみましょう。
10兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。
44017011ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。
44017012そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。
44017013ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた。
44017014それで、兄弟たちは直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせたが、シラスとテモテはベレアに残った。
44017015パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った。

11節にあるようにベレヤで、会堂に集っている人たちは、パウロらが語るみことばを熱心に聞き、またそれが聖書(当時は旧約聖書しかないわけですが)に照らして正しいことをいっているのか自分たちで毎日調べたんですね。その結果、イエスさまがキリスト、救い主だと、少なからぬベレヤの信者さんたちは信じたわけです。
カルト的なものに絶対に騙されることのないだろう、しっかりした人たちです。
14節を見ると、パウロはベレヤを離れることになるわけですが、テモテのことはベレヤに置いていったのですね。

これはベレヤの信者たちが、多くギリシャ人であったため、ユダヤ人とギリシャ人のハーフであるテモテは、ギリシャ人の心情が良く分かっているので、ベレヤの人々を教えてあげるのに適任だと思ったのかもしれません。

それと共に思うのは、ベレヤの人々によってテモテが育てられることをパウロは期待したのではないでしょうか?
テモテはパウロから見て子どものような年齢の若者です。そのテモテが、その伝道生活の最初期において、
非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べ
たように、信仰的にしっかりし、またものの考え方がしっかりした人々と共にいて、良い影響を受けるように、良い訓練を受けるようにとパウロが期待したように思われてなりません。

私が知っているある教会は、そういう役割を果たしている教会でした。神学校を卒業したてのような教職を受け入れて、一緒に活動して、ご本人たちはそう思っていないかもしれませんが、その先生を育てるわけです。
そしてその教職はいっちょまえに育つ。それはその教会の信者さんたちの信仰が、実があってしっかりしているし、ものの見方もおとなで堅実だからそういうことができるのでしょう。
そういうことが自分たちの使命である、と心得ている面があるようにすら見受けられました。

さて、テモテはパウロの書いた手紙にたくさん登場します。ローマ、コリント、フィリピ、コロサイ、テサロニケの信徒への手紙、フィレモンへの手紙に登場します。その登場の度に、テモテの立ち位置が微妙に変わっているのを発見して、たいへん興味深いものがあります。今日はもう時間がありませんし、これ以上、その辺は立ち入らないことにします。
(また、ヘブライ人への手紙での言及も大変興味深い。パウロの筆ではない。テモテの殉教が記されている。だが今回はそのことに言及しない)
 
 言えることはテモテはパウロたちにとって、子どものような世代。ネクストジェネレーション、次の世代の人間であったということです。そのテモテに対してパウロはしばしば手紙の中で「自分の兄弟」と表現しています。テサロニケの信徒への手紙第二3:2では
わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテ
と表現しています。
 一方、テモテへの手紙の中では「信仰によるまことの子テモテ」「愛する子テモテ」と呼びかけています。
 パウロにとって、そのテモテに対する親愛の情は我が子みたいな者であるとともに、他の人にテモテを紹介するときに「あれは俺の子どもなんだ!」という言い方でなく、あくまで兄弟と言っています。兄と弟の違いはあるかもしれませんが、兄弟なのです。同じ親をもっている兄弟同士なのです。

 正木茂という大衆伝道者の先生がよく、こんな例話をお話ししておられました。
 「神さまは子どもはもっているが孫はもっていない」と。
 それは、クリスチャンの誰かの強い影響を受けてクリスチャンになったとしても、あるいはクリスチャントホームに生ま育ったとしても、その人その人が一人ひとり、イエスさまを自分の救い主として信じてクリスチャンになるんだ。
 一人ひとりが直接、父なる神さまの子どもなんだ! だから神さまには孫はいないんだ。そう強調なさっていました。私も全くその通りだと思います。

 パウロは19節にあるように、そんな兄弟であるテモテを、フィリピの教会の人たちの所に送って、
わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたい
と手紙に記します。だから、
間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています
と書いています。
 何度も語りましたように、フィリピのクリスチャンたちはパウロの苦労、苦難を良く知ってくれていますし、その苦労を共にしてきたとパウロは感謝し、そういう意味でのレスペクトと親しみを覚えています。
 だからフィリピの人たちが今、どうしているのか知りたくて仕方がないのです。その様子を自分で直接見に行くことができないにしても、テモテを遣わして知らせてくれるならば、そんなに自分が、人として、クリスチャンとして
力づけられ
るかと言っているのです。

2000年の時を経て、私たちもパウロやフィリピに住んでいたクリスチャンやテモテと同じ兄弟です。
 先輩から後輩へ、先輩から後輩へ、福音は2000年にわたって私たちにまで受け継がれて来ました。

 そして、今の私たちも「様子を知って力づけられる」ということが起こる兄弟姉妹の関係性や、その信仰の実質、実態を、日本において共有していることを感謝したいと思います。
 お祈り致しましょう。