しらがは光栄の冠――金を精錬するようになさる神によって


箴言16:28~17:9 新聖歌9/145/206
【お話しは原稿より分かりやすいです】
今年は大きな台風が来まして、先週も参りましが、皆さまのお宅や職場では如何だったでしょうか?

さて、今年の敬老の日は9月17日です。敬老の日の始まりということをインターネットで調べてみたら面白いことが分かりました。
敬老の日が日本で一番初めに始まったのは兵庫県なんですね。しかも、我が東播地区です。加古川市の北の加西市のもう一つ北の多可町八千代区、昔は多可郡野間谷村で、終戦後すぐの昭和22年(1947年)9月15日に村主催の「敬老会」をしたのが「敬老の日」の始まりとされています。
これは、野間谷村の村長さんが「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」という趣旨から開いたもので、9月15日という日取りは、農閑期にあたり気候も良い9月中旬ということで決められたということです。

昭和22年といいますと、終戦後すぐのことで、我が子を戦場へ送った親たちの多くが精神的に疲労の極にあった。村長さんは、そうした方々を労うべく、9月15日を「としよりの日」とし、55歳以上の人を対象に敬老会を開催したとのことです。(ちなみにアメリカ合衆国では、9月の第一月曜日の次の日曜日(すなわち今日ですね!)がNational Grandparents Day(祖父母の日)とされているそうです!)

さて、今朝は旧約聖書の箴言をお開き致しております。
 それでは早速、16:31を一緒にお読みしてみましょう。
031白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。
「白髪は輝く冠」。素晴らしいみことばです。
新改訳では
 しらがは光栄の冠
 と訳しています。
 年老いて、白髪は、美しいものだ、輝くものだ、光栄なものだ。これが聖書の価値観です。
 
 白髪をたたえることばは他にも記されています。同じく箴言の20:29
29力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳。
若い人は若いから、元気で力にあふれています。その力が若者の光栄だ、というのですね。
しかし、歳をとってくると、若者のような力はなくなってきます。しかし聖書は
力は若者の栄光。(長い間)白髪は老人の尊厳。
と言うのです。

また、次のように、老人を敬うことを教えたみことばがあります。レビ記19:32です。
032白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。

私が子どもの時、母はこういうことを言っていました。「お年寄りは、長く生きて来られたということだけで尊敬すべきなのよ。あれができるから、これができるからという理由は抜きで」
ほんとうに、良いこと、真っ当なことを教えてくれたと親に感謝しています。

ところで、日本で現在、最も歳をとってらっしゃる、最高齢の人って何歳でしょうか? 福岡にお住まいの115歳の女性がおられるそうです。
では、その115歳の方と、聖書の神さまとどっちが歳が上でしょうか?
それには、神さまのお歳を考えてみなければなりません。1000歳でしょうか? 10000歳でしょうか? いえいえ、それでも全く足りないですね。
創造主なる神は、この世界をお造りになった方です。この世界の始まる前から「おいでになる」お方です。10万歳、100万歳でも言い足りない。敢えて言えば、無限大歳でありましょう。
 
ですから私たちは、どんなに自分が歳を取っても、神さまの方がうんとうんと歳が上のお方です。
私たちは歳を取ると、自分の親も先に世を去り、心細くなるものですが、天のお父ちゃんであるまことの神さまを知っています。そのことは何と心強いことでしょうか?

さて、今朝は、箴言をお開きしています。箴言の中心的なテーマは「知恵」です。
神学校の恩師である鍋谷尭爾先生が、いのちのことば社の新聖書講解シリーズで箴言の講解を書いておられるので(見せる)それを参考にして、知恵に関してはお話しさせて頂きたいと思います。

削除==鍋谷先生は箴言講解のまえがきで、復活のイエス様がエマオの途上で2人の弟子に解き明かされたとき、ルカ24:27にあるように、
モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。(ルカ24:27)
という時に、箴言も入っていると指摘されています。

そして鍋谷先生は、旧約聖書を3つに分ける分類法について、1モーセ五書、2預言者、3諸文書という分類を、ユダヤ人たちは今日に至るまでしてきたし、またイエス様もそうなさったと。3番目の諸文書というカテゴリーに箴言は含まれ、他は詩篇、ヨブ記、雅歌、ルツ記、エレミヤ哀歌、コヘレト、エステル記、ダニエル書、歴代誌です。
また、新約聖書だけでなく旧約聖書も、箴言を含めて、聖書の全体としてキリストを指し示しており、もしもその観点を抜かして箴言を読んだら、箴言は単なる、古代ヘブル人の教訓を学ぶ単なる「人間道徳」のレベルになってしまう。
ですから箴言もキリストを指し示しているという視点が欠かせません。ではカテゴリー3の諸文書に一貫している思想や原則は何か。鍋谷先生は、それは多様な人生の細々したところに浸透している物語性であり、また、人生最大の目標であある「賛美であり知恵であると看破します。
そういうs所文書の中で箴言は、知恵を代表する書物

では知恵とは何なのか、筆を進める。
箴言に描かれた知恵には大きく2種類あって、一つは人間の知恵、もう一つは神の知恵。

人間の知恵として、日本で現代人が考える知恵として、仕事を実行して行く能力とか熟練、それと賢さや悪賢さ。すなわち、
ものごとの実体を見通して事態を切り抜けていく能力
日本人が普通、知恵を考えるときその範囲でしか考えないが、偏差値の高さとか受験勉強の成功不成功、バイオテクノロジーのような先端技術の推進などは、仕事を実行する上での能力に過ぎず、経済的環境の中で会社の経営をどうしたら状況を切り抜け売上げをのばせるか
しかし、聖書が知恵と言っているものは文化や教養の高さ、また正しい生活を送ること、神に対する敬虔さまで含んでいる。
学校の成績がよかったり有名校に進学することで知恵のあるなしを論じることは聖書の言う知恵の多様な意味から言えば非常に偏っている==削除

鍋谷先生がおっしゃるには、日本人は人間の間の知恵しか意識しないが、聖書は「神さまの知恵」について多く語っていると解説してくださっています。
人間の知恵は限りのある、有限なものです。しかし神さまの知恵は、はるかに人間の知恵を超えていて限度がない。無限なのです。
そして、その無限の知恵をお持ちの、聖書の神さまに対して、人間ができることは、自分たちの限界を認め、神さまを恐れることです。

箴言1:7に
主を畏れることは知恵の初め
とあるのですが、では主をおそれる、神さまを恐れるとは何か? 鍋谷先生は、「怖がる」という意味での「恐れ」の感情を大事にして、神さまに対する「畏れ」の気持ちを持つべきであるという趣旨のことを書いておられます。

非常に平たくいうと、神さまは、人間には計り知れない、何をなさるか分からないお方です。
だから、神さまが次の瞬間、何をなさるか、何が起こることをお許しになるか分からない、非常に怖いお方です。そういう感情を私たちは忘れることはできません。
神さまを私たちの方が、好きなように利用する、飼い慣らすことはできないのです。

しかし、その神さまが私たちを愛していてくださり、気に掛けていてくださり、祈りに耳を傾け、おこたえを与えて行って下さるお方であることはなんと言う驚きでしょうか。
そういう愛なるお方として、神さまはご自分のことを、聖書を通して教えて下さっていることも、驚くべきことであり、神の知恵の極致です。
そのことを、私たちは畏れをもって受けとめたいことと思います。

さて、箴言16:31に戻って参りましょう。
白髪は輝くかんむり、神に従う道に見出される

ここは実は16:28から7:9までが、一つのかたまりをなしています。
それは、日本の俳句が575「古池やかわず飛び込む水の音」という規則、ルールと言いますか、手法で作られているのと同じように、聖書の文章が、キアスムス(交差配列法)というルールに従って書かれていることから分かるのです。

キアスムスは、以前お話ししたことがありましたが、
ひとまとまりの文章があって、その文章が山のようになっている。そして、その山をA、B、Cと登っていく。そして山の頂上というか中心に来て、それが文章の中心点です。そして、その中心点からCダッシュ、Bダッシュ、Aダッシュと下って行く。そして、「ABC頂上Cダッシュ、Bダッシュ、Aダッシュ」の頂上の部分が、一番言いたいことを書いているのです。そういう文章の構造のことをキアスムスというのです。

削除==ごく短いキアスムスを考えれば、こんな文章です。
「とても寒い日が続きます。おからだに気をつけて下さいね。凍りつくような寒さです」
 この場合、「とても寒い日が続きます」がAで、「凍りつくような寒さです」がAダッシュで、Aの内容を強めていますキアスムスは短いこともあるし、うんと長い場合もあります。==削除

そして、ここでは16:28から17:9がキアスムスを成していると考えられます。
その16:28から17:9の中で、中心点、著者が一番言いたいところはどこか?
それはズバリ!17:3です。

では一緒にお読みしてみましょう。17:3。
03銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主。

銀にはるつぼ、金には炉、って一体何でしょう?
これは1000度もあるような高温で銀や金を解かして、金や銀を混じりけの少ない純度の高いものにする、精錬の工程のことを言っています。

調べてみましたら、どうやら「灰吹法」という精錬の方法のようです。

◆純度の高い金や銀を得る方法(「灰吹法」による)
参考https://www.town.minobu.lg.jp/kinzan/tenji/haihuki.html

灰吹図解

灰吹法は、西アジアでは紀元前2000年には行われていたようです。
ということは、高度な文明を持つ古代エジプトでもそれは行われ、そこに住んでいたヘブル人(ユダヤ人)もその方法を知っていたでしょう。
出エジプトして荒野で幕屋を作った際にも、金や銀の調度品を作る過程でその技術が用いられたかもしれませんし、その後、自分たちの国を持つようになってからも、特にソロモンの時代などにはその技術が駆使されたのではないでしょうか?
(そういう金、銀を純化する技術をエジプトで得たものでないとしても、箴言が書かれた時代までに周辺諸国から学んだのでしょう)
 ちなみに、奈良県明日香村の飛鳥池工房遺跡(金属加工、ガラス・水晶・琥珀などの玉類加工、更に漆器や瓦・鼈甲細工など業種別に配置された。総数300以上の炉を有した)で、灰吹法が行われていたのではと推定されています。

*粉成
金や銀の原石を掘り出してくると、まずそれに「粉成」という作業を行って、おおざっぱに純化する作業があります。
それは金や銀の原鉱石を熱してもろくしておいて、地面に掘った穴に入れ、シーソーの原理を応用したようなかたちなどで、餅のように「つく」。そうすると鉱石は細かくなります。

さらに、臼でそれをひきます。鉱石を水と一緒にひくというかたちで、鉱石が泥のようになって下の臼から「とい」を伝って流れ出てそれを椀で集めます。

その金の入った泥を「汰り分け(ゆりわけ)」します。
それは、セリ板という道具がありまして、そのセリ板は木でできた四角いお盆のようなもので、表面に、斜め格子状に刻まれた微妙な角度の鋸目がある。
そこに水でびちゃびちゃの金の泥を入れて左右に傾けると、金の粒だけがその鋸目に溜まっていきます。

しかし、その金の粒そのものの中に不純物が含まれているし、金でない粒もあるわけです。
さらにそれを精錬して、純度の高い金にしていく工程が必要です。

*灰吹
この製錬の工程で「灰吹」の手法が用いられます。
直径20センチほど鉄製のるつぼ(中華鍋のようなもの、とも言える)に灰を敷き詰める。
その灰は、動物の骨などを焼いてできた灰などで、その目的は、溶けた金属を吸収する(吸い込む)ことである。
そのるつぼを、地面を少し掘った炉に固定する。
そして、先ほどの「粉成」の過程でできた「金の元の小さな粒々たち」を、しゅろの葉か何かにくるんで、るつぼの中の灰の真ん中に置く。その周りに、鉛の塊を置いていく。
そして、るつぼの周りに炭を敷き詰めて火をつける。温度は1000度にまでなる。その際、るつぼの上に鉄棒を通し、鉄棒の上にも炭を置き、上からも熱を加える。

そうすると、金の元の粒々も、鉛も溶けて、解け合って合金になる。その金と不純物と鉛の合金は、灰の上でどろどろに溶けた山のようになっているわけである。
そこに「ふいご」でそっと風を送ってやる(この時、吹き方が強すぎると温度が下がってしまうので、そっとやらないとダメだ)。
そうすると不思議なことに、溶けた鉛と不純物だけが、どろどろの山の上の方に浮かび上がってきて、山の裾野から灰に吸い込まれていく。
そして最後に、純粋な溶けた金だけが灰の上に残る。それを冷やせば純度99%というような純度の高い金が得られるわけだ。
この時、化学的に起こっていることは、ふいごの風で酸素が供給されて、鉛や不純物は酸化する。それらは金よりも軽いので、油が水に浮くように金と分離して浮かび上がってくるわけだ。金は、そういう化学反応を起こさない。
そして、鉛や不純物の酸化物は、灰に吸い込まれていく。
ところが純粋な金が溶けたものは、表面張力が高いので灰に吸い込まれず、かえって溶けた金の固まりのようになるわけだ。
古代人は、そういう科学的な「理由」は知らない訳だが、経験的に、純粋な金に精錬する方法を知ったわけであろう。

◆銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主

さて、箴言17:3に「銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主」とある。これは、先ほどの灰吹法により、金や銀の精錬の情景を思い浮かべながら言っているのであろう。

第一読者たちはその話を聞いて、またそれを読んで、赤く熱された炉の中に置かれたるつぼ。その中の灰の上で、金や銀の入った合金がどろどろに溶けて、だんだんと純粋なものになっていく情景が目に浮かんだわけである。
そういう知識を持った人たちが、聞き手であり読者だったわけだ。

さて、「銀にはるつぼ」「金には炉」は、元の言葉で見ると、
「るつぼfor銀」「炉for金」という書き方がされている。それはヘブル語で「and(そして)」に当たる「ן(ヴ)」という短い接続詞でつながれている。
(この「ן(ヴ)」は、ものすごくよく使われる一般的な語である。それだけに、英語のandがそうであるのと同様、「そして」ともとれるし「しかし」とも訳し得る。前の語と後ろの語、あるいは前の文と後ろの文を「どう接続」しているか、訳の解釈が分かれることも多い。私はこの「ן(ヴ)」のことを、前と後ろにそれぞれひっかけてつなぐ便利なつなぎ棒のようなイメージを持っている。 爆)

そして、「心を試すのは主」というテーマの登場である。
これは元の言葉で見ると、
「こころ(複数形)を融かす者(単数形)は主」
と書いてあるのである。
融かす者は、動詞を分詞にして名詞化したもので、不定詞とは違って、それが人格的な存在であるというニュアンスが出る(だから「者」と訳した)。
正に、先の灰吹法を行う職人ということではないか!

聖書の他の箇所には、「主は陶器師」という喩えがある。
それと同様に、主は金の(銀の)精錬師!というわけだ。

そして、3節は元の言葉から直訳的に言えば、
「るつぼfor銀」ן「炉for金」ן「こころ(複数形)を融かす者(単数形)は主」
と書かれているのだ。

鍋谷先生の提唱する説によると、「ן」のところで、長い「間」を取ればどうだろうか。

「銀にるつぼ」
・・・・(沈黙の間)
「金に炉」
・・・・(沈黙の間)
「こころを融かす者(精錬師)は主」

非常に含蓄の深い思いがする。
===========

そういう17:3を一番言いたい中心点として、
「ABCDEFGH中心点H’G’F’E’D’C’B’A’」と文章が構成される中で、
Dに当たるのが16:31
31白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。
であり、
D’に当たるのは17:6
06孫は老人の冠、子らは父の輝き。
なのです。

そして、そのDをはさんでABC、EFGHがあるわけで、私たちが白髪頭になるまでに、そういう人生のいろいろ難しい局面を通る。通ってきた、ということを暗示しているかのようです。
そういうABCいろんな人生の難しい局面や、困難をA-A’という具合に照らし合わせて読めば、より深みのある理解に達することと思います。

たとえば6:33
33くじは膝の上に投げるが/ふさわしい定めはすべて主から与えられる。
キアスムス的にここに対応するのは17:5の前半です。お読みしてみます。
5-b貧しい人を嘲る者は造り主をみくびる者。

如何でしょうか? ある人が貧しくなってしまうようなことが起こる。因果応報的に考えれば、その人が悪かったので、その人に悪いことがふりかかって貧乏になるという考え方になりますが、
箴言、知恵の言葉はそうではありません。くじを投げて、とっても悪い目が出るような、偶然に見える出来事。それは、そのくじを投げた人が悪いわけではありません。
そのふさわしい定めは、すべて主から来るものです。
ですから、7:5の方にあるように、貧しい人のことをののしったりするのは見当違いも甚だしい。それは創造主なる神さま、天地を治めておられる神さまをみくびるようなものなのだからしてはいけないというのです。

そういう知恵を、聖書は私たちに教えてくれるわけです。
歳を取って、白髪を蓄えるようにまでなったということは、長い人生でいろんなことを見聞きして、自分も体験してきて、そういう知恵が、教訓がよ~く分かる、ということではないでしょうか?

また、17:1は如何でしょうか? 
01乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば/いけにえの肉で家を満たして争うよりよい
 これに対応するのは4節の後半です。
偽る者は滅亡の舌に耳を向ける。
いかがでしょうか? 思い巡らして見て下さい。

ご馳走である肉が有り余って、家を満たしているけれども、家の中は争いばかりだ、というよりも、たとえ乾いたパンが一つしか家にない状況であっても、家族が平安であるほうが幸いである。そういうことをいっている1節に、4節後半が響き合います。
家に乾いたパンが一つしかない。そういう危機的な状況に陥っているときに、「ああ、俺達はもうダメだ!絶望だ!」という舌、絶望的な言葉に耳を傾けてそれを受け入れてしまうということは、その危機は脱することができる危機のはずなのにそれを受け入れない、偽りということになってしまいはしないでしょうか?

そのような、人生におけるさまざまな難しい局面、困難と、それへの知恵が、これでもかこれでもか、と記されている間に、ぽっかりとはさまれて、長寿を迎える祝福が記されています。

そこを再び、一緒にお読みしましょう。6:31
31白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。
続いて17:6
06孫は老人の冠、子らは父の輝き。

私たちがはくはつ、白髪になるに至るまで、人生のさまざまな局面を通って行きます。通って来ました。
その結果の白髪は、輝く冠だ!誇りを持つべきものだ。
そしてそれは、神さまの知恵に耳を傾けてお祈りしていく道に見出される。
そんななかで、子らが誇りと成り、孫たちが私の喜びの冠である。そんな日々をもゆるしてくださるのだ、ということを感謝に憶えたいと思います。
お祈り致しましょう。