主を喜ぶことが力2――神がいないと「話にならない」


ネヘミヤ8:9~18
 おはようございます。
 庭に父が植えたりんごが今年始めて実が生って、それが緑色から赤い色になってきました。過ごしやすいシーズンですがいかがお過ごしでしょうか。

さて、今朝は「主を喜ぶことが力2(ツー)」というタイトルをつけさせて頂きました。
それでは、前回の第1回の説教要旨を週報に載せて下さっていますので、それを朗読致します
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主を喜ぶことが力――4000年の歴史に学ぶ方向転換の必要性 ネヘミヤ記8:9~18
紀元前460年頃、ネヘミヤの指揮のもと、崩れたままになっていたエルサレムの城壁(総延長5キロ、万里の長城並みの高さと幅!)の修復作業が52日で完成しました。

 この記事は、イスラエル民族の歴史の一場面です。
彼らの源流の祖先アブラハムは、キリストを信じる信仰において私たちクリスチャンの信仰の祖であるし、何よりイエス様ご自身が、(旧約)聖書は「ご自分について書かれている」とおっしゃっている(ルカ24:27)から、旧約のイスラエル民族の記録を、自分たちへの信仰的な語りかけとして読みます。

イスラエル民族は、創造主なる神との約束を長年破り続けた結果、約束したときに予告されていた通り、母国を追われて異境の地で捕囚の民として暮らしました。しかし、散らされた先で悔い改めの祈りがあったため、神殿の徹底的破壊の50年後に、母地に帰ることができました。ここに歴史のただなかで働かれる神の御力と、あわれみと御真実を見ます。
ネヘミヤの時代は、その帰還から70年後のことです(日本が戦後70年ということでその月日の長さを思います)。

 神殿は再建されていましたが往時の栄華は全く無く、敵に囲まれ陰謀に囲まれ、問題山積でした。
 そんな中で、再建の仕事をさらに進めないといけない。ともすれば厳しい「現実」を前に、疲れ果てて、力がなくなってしまうような状況です。

 そんな中の大集会で、トーラー(モーセ五書)の朗読があり、彼らは、自分たちの先祖が神様と生きた関係に生きていた歴史を再認識し、自分たちの離反を知り、悲しくて泣いた。
 その時にネヘミヤは、「悲しんではいけない。主を喜ぶことこそが力の源である」と勧めた。私たちも自分の実状を知るときかえって悲しくなる。しかし主を喜ぶことに力があるという秘密を教えられています。
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スコット
さて、今朝も前回と同じ聖書箇所をお読み頂きました。
それでは、「主を喜ぶことが力」という内容が書かれている個所と、そこから引き続いて、「祭り」ということが書いてありますのでそこを少し、一緒にお読みしたいと思います。
ネヘミヤ9:10~15を一緒にお読みしましょう。小見出しに入っている「仮庵祭」というところも読みたいと思います。
10彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
はい。ここに
主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である
と記されていました。

続けて11節から、はい。
16008011レビ人も民全員を静かにさせた。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」
16008012民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。
仮庵祭
 はい。ここで日が改まって、次の日の出来事に入って行きます。小見出しをつけてくれているように仮庵祭というものが開かれた、という出来事です。では仮庵祭の記事を続けて読みましょう。13節から一緒にお読みしましょう。

16008013二日目に、すべての民の家長たちは、祭司、レビ人と共に書記官エズラのもとに集まり、律法の言葉を深く悟ろうとし、
16008014主がモーセによって授けられたこの律法の中にこう記されているのを見いだした。イスラエルの人々は第七の月の祭りの期間を仮庵で過ごさなければならず、
16008015これを知らせ、エルサレムとすべての町に次のような布告を出さなければならない。「山に行き、オリーブの枝、野生オリーブの枝、ミルトスの枝、なつめやしの枝、その他の葉の多い木の枝を取って来て、書き記されているとおりに仮庵を作りなさい。」
16008016民は出て行き、枝を持って来て、各自の家の屋上、庭、神殿の庭、水の門の広場、エフライムの門の広場に仮庵を作った。

はい。そこまでに致しましょう。
15、16節にあったようにネヘミヤと、イスラエルの人々はオリーブだとかミルトスだとかなつめやしだとか、葉っぱの多い木の枝を取って来てそれで仮庵を造ったんですね。
 仮庵、って何でしょうか? 漢字で、仮のいおり、って書きます。いおりというのは、徒然草にでも出てくる、「草木でつくった粗末な家」ですね。それの、しかも仮の、期間限定のものなのです。

その仮庵で一週間寝泊まりして、家族や友だちと一緒に過ごすのです。
そうですね。ちょうど、私たちも山に行ってテントを張って泊まるように、テントではなく急ごしらえの小屋を作るのです。それを、自分の家の庭や町の中に造って、わいわい楽しんでしまうわけです。わくわくする行事なのです。
実はこの仮庵の祭というものは、現在も毎年行われております。

それは現在の、中東、イスラエルにおいて、イスラエル人が行っているわけです。仮庵祭、仮庵の祭、ヘブライ語ではスコット、あるいはハグ・スコットと言います。
インターネットで調べましたら、今年の仮庵の祭、スコットは9月23日の夕方から30日の夕方であったそうです。
毎年、秋のこの頃に行われます。イスラエルでも収穫を終えた時期に当たり、収穫感謝の祭りという意味合いがあります。

削除==仮庵の祭は、毎年、第7の月の、第15日から7日間です(現在のユダヤ暦では新年の第15日になる)。それは一般のこよみに当てはめると、毎年9月の後半から10月のはじめに辺り、今年は9/23だった訳です。
またイスラエルでは、雨の降る雨期は、秋の終わりから春の初めにかけてであり、仮庵の祭の頃は、雨の心配もほとんど無いようです==削除

インターネットでいろいろと調べますと、仮庵の祭の仮小屋や、そこで楽しんでいる写真がたくさん載っていました。
日本の海水浴場の休憩所を思わせるような、よしずばりのものもあるし、ベニア板で囲ってるのもある。枠組みを作って布で囲っているものだとか、聖書の記述のように古式ゆかしく?ハッパのある枝で壁や屋根を被ったものとか、バラエティーに富んでいます。一緒に映っている人々の表情を見ても、みんな、楽しんで仮庵を作っていることが伝わって来ます。

削除==ネットでいろいろ見ていますと、庵の祭りで使用する小屋を現代風に再構築するコンペなんてものもありました
http://www.sukkahville.com/sukkahville-2014-2/finalists/
かたちといい素材といい、まことにしゃれたものです。国民こぞってスコットの祭を楽しんでいる様子が伝わって来ます。==削除

さて14節にこう書いてありました。
14主がモーセによって授けられたこの律法の中にこう記されているのを見いだした。イスラエルの人々は第七の月の祭りの期間を仮庵で過ごさなければならず

これは、前回学びましたように、数万人の、ものごとを理解できるほどの年齢の男女が集まった大集会と言いますか聖会(ネヘ8:8)の中で起こった出来事でした。聖会のなかで、モーセ五書の朗読と解説が行われており、それをしている間に、仮庵の祭という大事な祭のことがトーラーに書かれてあったのだ、ということを再発見したわけです。

その仮庵の祭をしなさいと言うことがモーセ五書のどこに書いてあるかと言えばレビ記23:34です。
ではそこを開いてみましょう。そして一緒にお読みしてみましょう。レビ23:34です。
34イスラエルの人々に告げなさい。第七の月の十五日から主のために七日間の仮庵祭が始まる。

はい。それでは少し飛ばしまして40節から読みましょう。43節まで一緒にお読みます。
040初日には立派な木の実、なつめやしの葉、茂った木の枝、川柳の枝を取って来て、あなたたちの神、主の御前に七日の間、喜び祝う。
03023041毎年七日の間、これを主の祭りとして祝う。第七の月にこの祭りを祝うことは、代々にわたって守るべき不変の定めである。
03023042あなたたちは七日の間、仮庵に住まねばならない。イスラエルの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばならない。
03023043これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である。

この箇所が、大聖会の中で読まれたわけです。これはネヘミヤたちの時代から約900年前に、イスラエル人の先祖たちが出エジプトをして、荒野の40年を過ごしている間に、神様がモーセを通じてお命じになった一節です。
そこを読んで、ネヘミヤの時代の人々は、仮庵の祭というものがあったんだ!そしてそれをするのは、正に今でしょ!今のの季節でしょ!ということにはたと気付いたわけです。

削除==エルサレムの大変な城壁の修復工事が終わって、日常生活に没頭する間が少しあったのでしょうか。そして、聖会を開くのがちょうどこの時期になったのか。あるいは、ネヘミヤや祭司のエズラが仮庵の祭を行おうという計画を立てていたのでしょうか? その辺は記されていませんから分かりません。しかしネヘミヤ8:7から8などを見ると、周到に聖会の準備はなされ、説明・解説をした人々の準備があったのではないかな、という気がします。==削除

レビ23:43節に、この祭を祝うべき目的・意義が記されています。
43これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である。

仮庵の祭は、エジプトでの奴隷状態からの脱出、出エジプトを忘れないでいるためのものだと書いてあるわけです。
出エジプトをして、イスラエル民族は40年もの間、家族ごとにテントを張って、雲の柱火の柱に導かれるがままに、みんなが一緒に移動しながら生活していました。
荒野の生活は、安定した生活ではありません。
農耕生活ではありませんから、何月頃、麦がとれて、何月頃ぶどうが採れて、それを葡萄酒にしてと言うような計画や将来の見通しも立てられない状況です。
移動していく生活は、定住しているよりも危険に満ちています。新しい場所に行く度、未知のことだらけです。
しかし、その中で神様に守られて、食べることができて、導かれて生きていたわけです。そのことを、ネヘミヤの時代のイスラエル人たちは再認識し、自分たちの現在の状況と重ね合わせて励ましを受けたのではないでしょうか。

ネヘミヤの時代の彼らも、モーセの時代、荒野の40年と同様に、しかし違う意味合いで、しかし危険や困難に充ち、未知なることだらけの状況の中にありました。

エルサレムの城壁再建を振り返るだけでも、その大変さの一端を伺うことができます。

削除==ネヘミヤのプロジェクトは、エルサレムの城壁が壊れたままであったのを修復することでした。
まず、ペルシャにいる時代に祈りを重ね、ペルシャ王の許可を上手に取りつけることから始まって、エルサレムに着いて調査を行い、緻密な計画を立てた上で、城壁再建のプロジェクトをエルサレムに帰還していたリーダーたちや人々に訴えます。
ネヘミヤ2:17に、
17やがてわたしは彼らに言った。「御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない。」
と記録されている通りです。そして、18節にあるように
16002018神の御手が恵み深くわたしを守り、王がわたしに言ってくれた言葉を彼らに告げると、彼らは「早速、建築に取りかかろう」と応じ、この良い企てに奮い立った。==削除

城壁修復はネヘミヤが神様から励ましと導きを受けてリーダーシップを執り、エルサレムの住民達が城壁の再建工事に立ち上がったのでした。ところがネヘミヤ2:19にあるように
16002019ところが、ホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤ、アラブ人ゲシェムは、それを聞いてわたしたちを嘲笑い、さげすみ、こう言った。「お前たちは何をしようとしているのか。王に反逆しようとしているのか。」

ここで王というのはペルシャの王です。ネヘミヤが、ペルシャの属国としてかなり自治を認められた先祖の地イスラエルに帰ってリーダーシップを執ったとはいえ、それはペルシャ王の権威とそのお墨付きの元で、だったのです。ネヘミヤ自身、ペルシャの王の側近という立場であり、だから今回の城壁修復プロジェクトも実現したわけです。
他でもない、その王に対する反乱に当たるのではないかという濡れ衣を着せるかたちで、敵対勢力は妨害工作を仕掛けて来たのです。

その反対勢力の妨害工作は巧妙で、しつようなものでした。
まず工事する人々のやる気を損なわせる悪口による攻撃。人々は弱気になって4:4にあるように
04しかし、ユダもこう言うのだった。「もっこを担ぐ力は弱り/土くれの山はまだ大きい。城壁の再建など/わたしたちにはできません。」
などと言うありさまでした。そこに物理的暴力を使って、工事を止めさせようという動きがありました。

しかしネヘミヤの指導によって、11節12節、
11城壁を築く者、もっこを担いで運ぶ者は、一方の手で作業をし、もう一方の手には投げ槍を取った。
12建築作業をする者は、各自腰に剣を帯びて作業した。

そのような、守備をしながら工事するという体制で事に当たりました。そこに持ち上がる怪情報、脅迫事件。6:6にあるようにこんな怪文書が出回ります。
06そこには、こう書かれていた。「あなたとユダの人々は反逆を企てていると、諸国のうわさにもなっているし、ガシュムも言っている。城壁を建てているのはそのためであろう。あなたはユダの人々の王になろうとしているということだ。
07また、あなたはあなたのことを宣言する預言者をエルサレムに立てて、ユダの王だと言わせているそうだ。今このうわさは、王のもとに届こうとしている。早速相談しようではないか。」

これは民衆を動揺させ、またネヘミヤをわなにかける工作でした。しかしネヘミヤは9節の結びにあるように
神よ、今こそわたしの手を強くしてください。
と、祈りによって事態を切り抜けました。

最後には、神様のみこころを正しく伝えることが勤めであるはずの、預言者に対する買収まで行われて、預言者であるはずの者から、ネヘミヤの命を狙うわなが仕掛けられます。そのことを描いた部分をお読みします。ネヘ6:10~14です。
10わたしが、メヘタブエルの孫でデラヤの子であるシェマヤの家に行くと、彼は閉じこもっていた。彼は言った。「神殿で会おう、聖所の中で。聖所の扉を閉じよう。あなたを殺しに来る者がある。夜、あなたを殺しにやって来る。」
これが騙しの、ネヘミヤへの誘いの言葉だったんですね。神殿の聖所は安全だからそこで密会しようとさそっているわけですが、そんなことをしたら、祭司でもないネヘミヤがみだりに神聖なところに入った、というかたちで悪評を立て、イスラエルの民衆からの支持を失わせ、完成間近の結果城壁のプロジェクトを空中分解させようとしたわけです。

それに、ネヘミヤはどう対処したでしょうか。
11しかし、わたしは言った。「わたしの立場にある者は逃げることはできない。わたしのような者で、聖所に入って、なお生き長らえることのできる者があろうか。わたしは入らない。」
12彼は神が遣わした者ではなく、トビヤとサンバラトに買収されてわたしに預言したのだということをわたしは悟った。
13なぜ彼を買収したのか。それはわたしが恐怖心から彼らの言いなりになって罪を犯せば、彼らはそれを利用してわたしの悪口を言い、わたしを辱めることができるからである。
14わが神よ、トビヤとサンバラトのこの仕業と、わたしを脅迫した女預言者ノアドヤや他の預言者たちを覚えていて下さい。

嫌になるようなうんざりするようなことばかりが続きます。
今の日本の情勢も、そういうところがあるのかも知れません。魑魅魍魎が跋扈し、騙しや横取りが横行している訳です。
その中で再建の仕事をしていかなけれならない。
しかし、14節にあるようにネヘミヤは
14わが神よ、
我が神よと、祈って祈って事態を乗り越えていったのです。

ネヘミヤも人々も、こころに力をもらわなければ、潤いをもらわなければ、疲れ果ててしまうでしょう。
そんな時に、仮庵の祭を行うようにと導かれたのです。

さて、レビ23にもう一度目を向けてみます。
仮庵の祭をやりなさい、ということの中で40節にこのように書かれていることが目を引きます。
40初日には立派な木の実、なつめやしの葉、茂った木の枝、川柳の枝を取って来て、あなたたちの神、主の御前に七日の間、喜び祝う。

あなたたちの神、主の御前に七日の間、喜び祝う。

そうです。主の御前に喜ぶということが、ネヘミヤたちの900年前に既に言われ、聖書として記録されているのです。この喜び祝うと訳された動詞は、rejoice喜ぶだとか、merry陽気になる快活になるという意味の言葉です。
その同じ神様が、自分たちを導いていて下さる、守っていて下さるということを信じたのです。そして力強く思った
正にペテロの手紙第二3:8にあるように、正に神様にとっては、
1日は千年のようで、千年は1日のよう
(参考 詩篇90:4)
です。

神様は1000年前と変わらないお方です。生きていらっしゃるお方です。私たちの祈りに耳を傾けて下さるお方です。それが実感できたのです。
 そうです。ネヘミヤの時代からさらに2000年以上経った今も、私たちが、アブラハムの信じた同じ主を、イエス・キリスト様を通して信じ、祈り、期待をかけているのです。

私たちも、いわば、仮庵の祭を祝いましょう!
出エジプトがどんなに大変だったか。そしてネヘミヤたちの再建プロジェクトが大変だったか。しかし神様がどんなに助けて下さったかを忘れず、思い出し、悟るために、私たちは主の御前に喜び祝うことをしたいのであります。

そして17節にありますように

まことに大きな喜びの祝いであった!

イスラエルの人々は結局、あの偉大な出エジプトを先祖たちに成し遂げさせて下さったその素晴らしい同じ神様を自分たちも信じている、ということを改めて悟ったのです。

もしもその神様というのが、生きてもいない、人間がでっち上げた神だったりするとどうしてそんなことが起こりえましょうか?

しかし城壁再建、祖国再建という大変な事態の中でネヘミヤは祈った。人々も祈った。いのってものごとに取り組んだ。モーセたちが信じていた全地全能の同じ神様を自分たちも信じ、導かれて、今の時代を同時進行で生きているんだ!そのことを悟ったわけです。

私たちもイエス/キリストを救い主と信じる信仰によってアブラハムの子孫として、聖書のみとこばを通して、自分たちの信じている神様がどういうお方であるかを再確認し、また信仰の先輩たちが祈り通って来た生きざまに励まされて、今のこの時代を、この状況の中を、全地全能の神様に熱心に祈り求めながら生きていきたいことと願います。

新聖歌19/220/349