善をもって悪に勝つ――自分の存在を否定しないで


ローマ12:3~21
新聖歌18/256/257

 おはようございます!
 ほんとうにさわやかな朝になりました。いかがお過ごしでしょうか?

 さて、今朝の中心のみことばは、ローマ信徒への手紙12:21です。一緒にお読みしてみましょう。
21悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

 いいみことばですね!
21悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
新改訳聖書ではこう訳しています。
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
ブラザーサンシスタームーン十字架

人間というものは悪に負けやすいのかもしれません。しかし悪に負けないで! それは、単に受け身で悪を「避ける」だけではなく、攻撃は最大の防御なりと言いますか、
積極的に善、良いことによって悪に勝つんだ。
その積極的な善をなすことが、最大の守りといいますか、悪に勝つ道なんだ、と言っているように思います。
しかし、どうやったら自分が、善を考えたり行ったりできるか、ということが問題になってくるわけです。すなわち、それはそんなに簡単にできるわけではない。人生経験を経れば経るほど私たちは分かってくるわけです。
聖書が言っているのは、一生懸命、自分の力で、自分の努力で善行、いいことを行うというのとは違う、もっと、神様から力を頂いて、というものであることを始めに申し上げて置きたいと思います。

さて、ローマ信徒への手紙は、オードリヘップバーン主演の映画、往年の名作「ローマの休日」の舞台となったあの花の都ローマです。とはいえ、今から2000年前のローマですが。
ローマは、その名から想像がつくように、ローマ帝国の首都であり、当時の人口は50万とも100万とも言われています。
まさに大都市! そこに複数の家庭集会や、クリスチャンの群や、またそれに毛の生えたような教会が複数存在していたのでしょう。

実際、ローマにおける教会の始まりについては、確かなことは分からないようです。ローマの教会は誰々が立てた、と聖書に書いていないわけですし、ほかの歴史的文献で、そういうことを書いているものがあるわけではありませんので。

もちろん、パウロがローマの教会を設立したわけではありません。
パウロはローマ帝国の中でも、小アジアに当たる地域で広く伝道旅行を繰り広げました。けれども、人生の最後に至るまで、なかなかローマには行けませんでした。(略 パウロはおそらくローマで殉教して世を去ったわけです)
しかし、いつかはローマには行きたい、ローマに行きたいとずっと思っていました。それはイエス様の救いの福音をもっと広めるために、その足がかりとしてローマは重要な拠点と思っていたからでしょう。

ですから、実際にローマを訪れることができる前の根回しという考え方もあって、1:7にありますように
神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ
すなわち、ローマにあるクリスチャンの群々に向けて、この手紙を書いたのだというのが通説になっているようです。

(ローマ)16章には、いろんな人々の名前が記されています。ローマ市のあちこちに散らばる、いろんな背景の、いろんな人やものごとが発端となって生まれた家庭集会や群。あるいは小さい教会があったのではないでしょうか。私たち日本のクリスチャンは、そういうことを容易に想像できます。そういうことを想像しながら16章を読むと、胸が熱くなるような思いが致します。16:3からお読みします。

03キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。
45016004命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。

これは、使徒言行録18章に記されているプリスキラとアキラ夫婦のことですね。奥さんがプリスカで、旦那さんがアキラです。奥さんの方が先に出てきます。
このご夫妻は、かつてローマ市からユダヤ人は立ち去るようにという命令を受けて、コリントに住んでいた時期がありました。そこでパウロと出会って、仕事を一緒にしたわけですね。

仕事というのは、分厚い布地で作るテントの製作です。パウロは、そういう手に職というか技術を持っていたのですね。それで伝道旅行でコリントに来たとき、かねて情報を得ていた、テント作りの同業者、ユダヤ人でもあるプリスカとアキラ夫妻を訪ね、そこに厄介になって一緒に仕事するようになりました。
そしてプリスカとアキラ夫婦は、正に先ほどお読みしたローマ16:3にあるように、パウロにとって、
03キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者
となったわけですね。
彼らがいつクリスチャンになったかは書いてありません。しかし、パウロと一緒に生活して、そのパウロの生きざま、ものの考え方に触れて、そしてパウロから伝えられて、イエス様のことを救い主と信じたのではないでしょうか?

さて、続けて5節
45016005また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。
プリスカとアキラ夫婦はその後、ローマに戻り、彼らを基礎として、家の教会ができた。そしてそこでイエス様を救い主と信じてクリスチャンになる人が起こされたわけですね! それはローマ市にあるクリスチャンの群々の一つとなったわけです。

続きをお読みします。ローマ市にいろんな群、教会があり、そこにいろんなメンバーが集っていて、パウロからもたらされた手紙を回して読んだであろうことを思い浮かべながらお聞きになって下さい。

5後半 わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。
45016006あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく。
45016007わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。
45016008主に結ばれている愛するアンプリアトによろしく。
45016009わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキスによろしく。

==削除
45016010真のキリスト信者アペレによろしく。アリストブロ家の人々によろしく。
45016011わたしの同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく。
45016012主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく。
45016013主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。

彼女はわたしにとっても母なのです・・・・
続きがありますが、==削除

この辺にしておきます。

さて、ローマにパウロはまだ行ったわけではないし、当然のことながらパウロがローマに教会を立てたわけでもない。しかし、これからローマを拠点にして、もっと福音が伝わっていない地域に伝道したい。また牧会がもっと手薄な地域の教会を手伝いたいと考えていたのでしょう。
そういうパウロの手紙をローマのクリスチャンたちは受け取って、大事にしました。こんにち教会宛にいろんなダイレクトメールが来るわけですが(爆)、ローマの教会にも、手紙なんていくらでも、いろんな人から来たでしょうし、価値のないものなら回して読みなどしなかったでしょう。ましてやそれがローマの教会以外でも共有されて、最終的にはこのように新約聖書27巻に聖典として入るということなどなかったわけです。

ローマ信徒への手紙には、先だって学びました、ガラテヤ信徒への手紙にあった「とんがった」感はありません。
ガラテヤ信徒への手紙では、ユダヤ人でも異邦人でも、ただイエス様の十字架の購いにより、ただ神の恵みに依って神の前に義、正しいものと見なされ、また、だから聖霊が心に注がれて、信じた人自身の生き方が変革していくのだいうことを強調していました。

その時は、絶対容認できない考え方をパウロは激しく譴責してもおりました。すなわち、イエス様の十字架を信じるだけでは足りない。異邦人もユダヤ教の律法を守り、割礼を受けないとクリスチャンになれないのだ、という主張に対してです。ペテロに対してでさえ、この点では容赦しないで、福音の根幹たるところをパウロは主張しました。
ガラテヤ信徒への手紙は、新約聖書27巻に含まれています。すなわち、パウロを通して主張されたことが、聖霊の導きによって、各地の教会で「ちゃんとしたこと、合っていることを言ってる」と認められ、大事な文書として残ったということです。

その後に書かれたローマ信徒への手紙なのですが、その激しさはありません。それは何故かというと、ローマの教会でも、パウロを通して教えられたことは、既にコンセンサスになっていたわけですから、あえて強い調子で言う必要はなかったわけです。

しかし、ローマ信徒の手紙も、イエス様の十字架の購いを中心メッセージとし、1章はそのことから書き始められています。
そして、1:18から人間というものの罪深い実態、実相が記されます。けれども3:21から信仰によって、値成しに義と認められること、また、6:1から、イエス様を救い主として信じれば救われ、また聖霊によって、その力を以て新しい人に作りかえられていくことが語られていきます(ハリソン新約聖書緒論)。
そのようにして8章39節まで参りまして、9:1から11:36までは、先ほど少し触れました、ユダヤ人のことに関してパウロは述べています。

ガラテヤ書ではパウロは、異邦人もユダヤ人と同じ割礼を受けないといけないという意見を却け、そのことは、各地の諸教会に集う人々もうなずいて受け入れたわけですが、こんどローマ信徒への手紙では、クリスチャンの信仰のルーツはユダヤ人にあるのだから、ユダヤ人もイエス様を救い主として信じられるように祈り、尊敬と礼節をもって助けなければならないことを、「今回は」書く必要を覚えたのでありましょう。今日は時間もありませんので、この問題には深入りできません。

そして、今朝お読みした12章から、救われてクリスチャンとなった人々の具体的な生き方、どうやってイエス様のことを証ししながら生きたらいいかを記しているのです。

12:2に目をとめたいと思います。では一緒にお読みしましょう。
02あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

それはひと言で言ってクリスチャンの生き方は外から強制されて見かけを何か「クリスチャンぽく」するものではないですよ、ということなのです。

心を新たにして自分を変えていただき
とありました。この箇所をつまびらかに見ますと、
削除==あなたがたはこの世に倣ってはなりませんに続いて、まず、そうではなくって、と来ます。そして「変革されなさい」と続きます。この==削除
変えて頂き、いうのは元の言葉では、メタモルポオーという動詞なのです。名詞にすれば「メタモルフォルシス」。女の子が見る漫画でプリキュアなんかに出てきそうな言葉です(メタモルフォーゼですね 爆)。英語に訳せば「transform」という言葉です。それは、青虫が、あの晴れやかな蝶になるような変化のことを言う言葉なのです。
子どもの番組で、仮面ライダーをご存知でしょうか? ずっと昔からやってますね。あれは藤岡弘演じる本郷猛(ほんごう たけし)が「変身、トーッ」とやると、仮面ライダーに変身してしまうわけです。メタモルポオーは、そういう、変身!というイメージの言葉です。
それを受動態、受け身のかたちで書いてありまして、すなわち、変革「させられよ」、変身「させられよ」と書いてあるのです。それは神様によって、聖霊の働きによって、変革「させられる」ということですね。
そしてメタモルポオーは、現在形で書いてあります。そうしますと聖書ギリシャ語では、継続してとか繰り返してとか、習慣として、という意味合いが出てきます。クリスチャンの生きざまは、聖霊様によって変革させて頂くことが繰り返して、続いていく、そういう生き方であれ、ということですね!

では、その変革はどんな変革なのか。それは続けて書いてあります。「心を新たにして」に当たる部分ですが、それは「マインドのリニューアルへ」変革させられよ!とパウロは書いているのです。
 心、マインドというのは、考え方の道筋、その人がそういう考え方をするのに、そうさせる性分というか気質とかいったものであるようです。
そのマインドのリニューアル。「新しく違ったものになる」ということです。

さらに、into(何々に向かって)とパウロはたたみかけます。では何にintoなのか? それは、直訳的に見れば、「あなたが確かめ続けること」ということが書いてあります。何を確かめるか。それは、
何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか
という部分です。元の言葉では、「神の望みは何か」ということがまず書いてあって、続いて何が善か、何が喜ばれることか、となっているのです。

私たちは、自分のやってることは絶対に正しい、と思いがちですが、聖書は、神様の前において、神様にとって、
何が善いことで、喜ばれ、また完全なことであるか
ということをあなたは確かめ続けるように、わきまえ続けていくようにと言っているのです。そのように、自分の方のマインド、こころが変革させられていくのです。

3節からは、その変革のなされていく舞台が、人間関係にあるのだということをパウロは指摘します。いろんな種類のさまざまな人が世間にはいるんだ、ということを、痛い目にも遭ってよく知っているパウロです。
 伝道旅行の最中に、石を投げられて殺されそうになったり、敵対者の策謀によって牢屋に投獄されたりした男がパウロです。

そのパウロが述べて行く一つのクライマックスとして21節に来ます。そうです。
21悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい
21悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
(新改訳)

この地点が、聖霊によるメタモルフォルシス、変革によってパウロが辿り着いた地点でした。
それはよく分かります。そうなんですね。でも私たちはどうしたら良いのでしょうか? 私は変革させて頂けるのか、という疑問が残ります。それは2節で聖霊によって変革され続け、父なる神さまのみこころを知っていけ!ということが鍵のようです。しかし具体的にどうやったらそんなことが起こるのか。

それは、そういう生き方を祈り求めることですが、
より具体的なヒントになるかも知れない事を申しあげます。

使徒言行録16:23-25をお読みします。
23そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み(この二人とはパウロとその相棒です)、看守に厳重に見張るように命じた。
44016024この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた
(何と悲惨な場面でしょうか)
44016025真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。

パウロは何も悪いことをしていないのに牢屋に放り込まれたんです! その時、パウロたちは賛美の歌を歌っていた!
その結果、大地震が起こって、牢屋の看守がパニックを起こした。暗闇の中でパウロは「慌てるな」と叫び、看守は「先生方。救われるためにはどうすべきでしょうか」と叫ぶ。
パウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と答え、看守とその家族がイエス様を救い主と信じたということが記されています。

私たちは、パウロほどのひどい目、災難に遭うことはないだろうと思います。
しかし、日常生活の中で、嫌だなと思い、嘆いたり文句をぶつぶつ言いたくなるような小さな出来事は数限りなくあります。

私は、マーリン・キャロザース先生の「獄中からの讃美」という本を読んで、深く教えられ、実践してみて深く頷かされたところですが、
自分に起こってくる全てのことは、それは父なる神さまのご許可がなければ起こらなかった。
そして、それを益に変えて下さる可能性のあることしか、神様はお許しにならないのだということを信じるわけです。
ですから、そのことで神様に感謝します。それは、悪い出来事を直視しないとか、感謝する理由付けを自分で考える必要さえもないのです(それをするとあまりにシンドイですし)。
これはこういう悪いことなんだ、としっかり冷徹に認識しつつ、しかし「神様の許可がないとこのことは起こりませんでしたから、私には分かりませんが感謝します」。その感謝することに、あるときは歯を食いしばってがんばり続けるわけです。

そうすると、キャロザースさん的な言い方を使えば、そこに神様の、聖霊の御力が「解放される」のです。さっき、パウロが投獄されて、しかし神を賛美した。その「結果」、地震が起こって、とあえて申しあげました。
キャロザースさんの本にも、感謝してみる、ということを半信半疑ながらやり始めたら、その「結果」、驚くべきことを起こして下さったという証しがたくさんたくさん載っています。

私自身、それらの証しに感動して、自分もやってみよう!と思って感謝の取り組みをやりだしたことを思い出します。その効果はてきめんでした。
その中の一つだけお分かちして今日は結びとしたいと思います。

それは、全てのことに感謝と言うことは、自分が悪くて、自分のせいでそうなってしまった状況に対しても感謝してしまうことができるのです。
自分が悪かったのだ、と重々分かってる。どうしたら良いのだろう。ああなんて、自分って駄目な人間なんだろう。そしてそれは、「自分なんて生まれない方が良かったのに」というところまで行ってしまいます。

そういう心の状況、マインドでは結局、問題の解決策には向かって行きません。心がトランスフォーム、変革されないといけないのです。自分が悪くて起こってしまったことも感謝してしまうことはその道につながるというのが私の実感です。
私たちは感謝することによって、その問題を神様の方に丸投げできるのです!そして神様はそのことを喜んで、ご自分の御手を動かして下さるし、感謝するその人のこころを、マインドを、変革していって下さるのです。それは私自身の体験したところでもあります。

いろんな悪がある中で、「自分を否定してしまうこと。自分なんていない方がいいと思ってしまうこと」ほど大きな悪、大きなわなはないのではないでしょうか。
 しかし、私たちはその悪に負ける必要はない。自分が引き起こしてしまった悪い状況でも、それは神様のご許可がなければそういう風には決してならなかった。(クリスチャンの信仰は、善悪2元論ではなく、究極的には、善と悪が闘って、どちらが勝つかの世界ではなく神様お一人が支配していらっしゃる。そういう世界です。)

 そう信じて、神様に感謝する。それは、神様の主権を認めていることです。また神様の力を認めていることです。そして神様が働いて下さるのを体験するのです。

 そのことを通して、私自身が変えられて行きます。もっと神様のみこころが分かって、神様を愛し、神様のみこころに従った生き方がしたくなるし、その心の力も聖霊によって、自分の内側からあふれ出てくるようになってくるのです。
 自分なんて駄目だダメだ、といって、悪に負けてはいけません。
私たちはむしろ、神様の力によって、「善によって悪に打ち勝つ」生き方をしたいものです。