救い主の系図――ボロボロの人々が恵みの源に

マタイ1:1~17 新聖歌1/68/182

 筆やペンでものを書けば、文字が残りその内容が残ります。
何年経っても、書いた人がいなくなっても、その文字は残り、文は残ることを考えると不思議な思いが致します。
 今朝は「救い主の系図」という題をつけさせて頂きました。系図というのものは、退屈な文字の羅列です。しかし、それらの名前の人々が、自分自身の先祖だったり、自分が興味を持つ歴史上の人物で、その生きざまを知っていれば、単なる文字の羅列ではない、心を惹きつけられるもとなるでしょう。

司会者にお読み頂いたイエス・キリストの系図は、ユダヤ人の方々にとって、興味深いものなのではないかと思います。また、私たちクリスチャンにとってもそう言えるのです。そういうお話しを通して、神様の、現在に生きる私たちへの大いなる救いの備えを覚え、神様の恵みに感謝を捧げたいと思います。

人のつながりトリ拡大
 この系図の最初の人物はアブラハムです。中興の祖のようにダビデ王が特記されています。そして、この系図のゴールはイエス・キリストです。
 それではマタイ1:1~6節前半まで一緒にゆっくりとお読みしましょう。あなたが旧約聖書を読んでいて、知っている名前は誰と誰でしょうか? 知っている名前があることに気付かれることと思います。
001アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
40001002アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、
40001003ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、
40001004アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、
40001005サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、
40001006エッサイはダビデ王をもうけた。

はい。ここまでに致します。

 アブラハムは、ユダヤ民族にとって、おおもとの大先祖です。今から4000年近く前の人物です。その子イサク、孫のヤコブと共に、天地をお造りになった神様のことをお呼びするのに「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言い方がされる超有名・超重要人物です。
 そこから始まる系図です。

 ユダヤ人は系図というものをとても大事にした民族のようです。削除==ユダヤ戦記を書いた歴史家ヨセフォス(1世紀のユダヤ人)も、自らの自伝を系図から始めており、「先祖は祭司で…高名な氏族に属していた」と述べているそうです。そしてその系図について、「公式の登録簿に記録されている」と述べているそうです。また別の本(アピオン反駁論)でイスラエルの地から離れて住んでいるユダヤ人も、子供の名前をエルサレムに届け出て、その系図に公式に記録しているのだ、ということを述べているそうです。==削除
 ヘブライ語聖書、すなわち私たちが言うところの旧約聖書にはたくさんの系図が載っています。ユダヤ人たちは、そんな何百年、あるいは千年以上前に書かれた系図と、自分たちが「つながって」いることを誇りに思っていたことでしょう。
 それは、自分たちは根無し草ではない。バビロン捕囚の憂き目に遭った時も、故郷から引き離されて暮らしていても、自分はユダヤ人なのだ。天地を作られたまことの神を主として仰ぐ民族なのだ、ということを意識して生き、だから故郷の地に帰ってくることができたのではないでしょうか。

また、紀元70年、ローマ帝国によって完全にエルサレムの街が破壊されてしまった。その後、今日に至るまで2000年間。世界の各地に流浪の民として散らされたが今も、民族としてアイデンティティを保っているのは驚くべきことだと思います。

 日本を含め、世界中どの民族でも、系図を大事にすることは、「自分の祖先はかくも立派な人々なのだ」という誇りを表したいためなのかも知れません。
 しかし、それは必要以上の自惚れですとか、そういうものを生み出す可能性もあると思います。
そういう戒めが、新約聖書に記されてもいます。テモテへの手紙第一1:4は、
04作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないよう
 と注意を促しています。そういうものは、
 信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。
 と忠告されているわけです。そういうことが初期のクリスチャンの間でも実際にあったわけなのでしょう。

 しかし、マタイ1章の系図は、立派な人々ばかりの系図ではない。むしろ傷だらけの人間たちの系図であることを見て取ることができるのです。
 もちろん悪いことばかりではなく、いいこと、素晴らしい人物もたくさんおられます。
 しかしその人物を評価する一番の基準というものは何か? 新約聖書の、ヘブライ人への手紙11章に、その基準は、その人が、まことの神様への「信仰を持っていたかそうでなかったか」にあるのだ、ということを指摘しています。ヘブライ人への手紙の著者は、旧約聖書の出て来るたくさんの人物の例を挙げながら、この人は神への信仰によってあんなことをした、こんなことをした、と記していった上で、
 この人たちはすべて、その信仰のゆえに神にみとめられ(た)(ヘブライ11:39)と総括しているのです。

 その観点は、旧約聖書にアブラハムが登場する時点で述べられ、旧約聖書の歴史の中で繰り返し繰り返し確認されています。
では、創世記で一番始めにアブラハムが登場した場面を見てみましょう。創世記の12章を開けてみて下さい。では12:1から3を一緒にお読みしましょう。アブラムと名前が出てきますが、これはアブラハムのことです。
01主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
01012002わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
01012003あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。

 なぜ「アブラハムが」、天地をお造りになった神様から声を掛けられたのか謎です。ひょっとしたら同じ時代に、声を掛けられた人は他にもいたのかも知れません。しかし、
「わたしが示す地に行きなさい。祝福の源となるように。
という招きの声を信じて、応えたのはアブラハムだったのです。正に信じた者勝ち!ですね。そんな4000年前の出来事が記録として書き残されて、21世紀の、地球の裏側の私たちが、日本語の翻訳でその物語を読んでいます。実際にアブラハムの子孫は大いなる国民となったわけです。何度も歴史の荒波に消えてしまいそうになったのに、21世紀の今もアイデンティティを保っているのを私たちはインターネットやテレビや新聞を通して知っています。
 その確かな事実を、私たちは静かに畏れを持って受けとめたいことと思います。

 そのアブラハムに対する神様からの評価は次の通りです。創世記15章を開きます。神様は、アブラハムのその後の人生の中、何度か直接的な語りかけをお与えになりました。そのなかの最初の方の出来事です。15:5、6を一緒にお読みしましょう。
05主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
06アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 アブラハムもその連れ合いさんも当時、もうかなりの年齢でしたが子供はありませんでした。
けれども「あなたの子孫は空の星のように増える!」と神様から言われて、「荒唐無稽です。そんなの不可能です」とは言いませんでした。アブラハムは、生きていらっしゃるまことの神様、また全地全能の神様が確かにおっしゃることならその通りになるだろう、と信じたわけです。
 そういうアブラハムの信仰を神様は義、正しい、とお認めになった。高く評価されたのです。

削除==アブラハムが世渡りがうまいとか、あるいは品行方正であるということすら、神様にとっては評価の基準ではありませんでした。
 むしろアブラハムはたいへん倫理的に見てずるいことをやっています。創世記12:10あたりから見ますと、アブラハム夫婦が飢饉を逃れてエジプトに避難した時、アブラハムが大変間違ったことをしたことが記されています。自分の身を守るために、エジプトのファラオに向かって、自分の妻のことを「妻ではない。妹だ」と嘘を言いました。そのためエジプトのファラオは、サラのことを妾として召し入れようとした。しかし神様がファラオに警告をして下さったため、サラは無事にアブラハムのところに返された。とてもアブラハムが正しい男であるなどと言うことはできないわけで、しかしそのアブラハムは
06…主を信じた。(だから)主はそれを彼の義と認められた。
(創世記15:6)のですね。==削除

 さて、アブラハムから始まる系図は、私たちユダヤ人ではない、異邦人のクリスチャンにも深く関係のあるところだと、お話の最初に申しあげたことでした。
 その根拠は、ヘブライ語聖書を正しく解釈したイエス様の教えであり、初代教会の教えであり、すなわち新約聖書です。そのこと、11月11日の礼拝でも、ナアマンの物語をイエス様ご自身が引用なさったルカ4章の記事からご説明致しました。
また、5月27日の礼拝で「初代教会 疑似体験 日本の教会を思う」6月10日の礼拝で「初代教会に学ぶ2 あくまで聖霊によって」と題し、ガラテヤ書からお話しさせて頂きましたが、ガラテヤ3:29にアブラハムのことが、このように明確に記されています。

29あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

パウロが、いや、神の御言葉が言うように、私たちはイエス様を救い主キリストと信じる信仰において、アブラハムの子孫なのです。ですから、アブラハムに始まる系図に登場するような人々の物語や信仰の歌(詩篇ですね)、すなわち、旧約聖書は私たちと関係のあるものだし、私たちが信仰、人としての生き方を学ぶために触れるべきものとなるわけです。

 さてイサクが生まれたのは、アブラハムが最初に神様の招きに従って約束の地に入ってから25年も経った後のことでした。正にアブラハムの信仰の忍耐です。

 イサクの次男、ヤコブについても、なかなか「大変な」人物です。というのも、この系図に入るのは本来長男のエソウだったはずなのです。ところがヤコブは、お父さんのイサクとお兄さんエソウを騙して、長男の権利を奪ってしまったんですね。そのやりとりがとても面白い話です。人生の教訓に富んでいます。そういう話がたくさん載ってますから、ぜひご自分でも聖書をお読みになってみて下さい。

 そしてお兄さんを騙したヤコブは、お兄さんに殺されることを恐れてアラム人の伯父さんのところに逃亡します。その逃亡先で、今度は自分が騙されるんですね。それは、伯父の娘に恋をして、そこから騙されるんです。そして、長年「ただ働き」させられ、2人の女性と結婚するハメになります。
それだけではなく、その2人の妻と、それぞれの女奴隷、合わせて4人の女性からルベン、シメオン、レビ、ユダ・・・・といった12人の息子たちが生まれます。今の日本だったら考えられないような話ですね。
 しかし、そうなってしまったヤコブの苦悩、また女性たちの、人間としての苦悩を聖書は十分に描いています。今日に生きる私たちにもいろいろと酌み取ることの出来る教訓があります。

さてその12人の兄弟たちがマタイ1:2の最後に記された、
ヤコブはユダとその兄弟たちを(もうけた)
と記されている兄弟たちです。
それが、イスラエル12部族といって、イスラエル民族はそのどれかの部族から出てきたことになります。ですからユダヤ人がこの系図を見たときに、すべての人が、血のつながりとしてヤコブ(その名を改め「イスラエル」と改名するのですが)に通じていることになります。

さてヤコブは、今回詳しく述べる暇はありませんが、さっきちょっと触れた話からも分かるように、かなり「はちゃめちゃ」な人物です。
しかし、その人品、品性の問題性を超えて、ヤコブが本気で神を信じ、またアブラハム「に」約束された祝福を自分が継ぎたい!頂きたい!そんな信仰の貪欲さをもっていた。その点を神は喜んでおられたことが、創世記の物語を読むとひしひしと伝わってきます。もちろん、ヤコブという人間が、試練を通って、人間として練り上げられていく、いわば金や銀が精錬されるように「きよめられ」ても行くわけです。削除==(ニンゲンの精錬に関しては9月9日「しらがは光栄の冠――金を精錬するように」との題でお話ししたところです(^o^)。==削除

 年老いたヤコブとその息子たちは、イスラエルの地を大飢饉が襲ったのを受けてエジプトに下ります。はじめ、兄弟の末っ子ヨセフが、数奇な運命を経てエジプトの総理大臣になっていたので優遇されていたのですが、ファラオの王朝が変わって、いつの間にかイスラエル民族は奴隷民族とされる。そして苦難の400年を経て、そこから「出エジプト」するわけです。
 しかし、マタイの系図にはヨセフの名もモーセの名も出てきません。これも大変興味深いところですが今日は深入りできません。

 ヨセフの系譜も後のモーセの系譜も救い主の系譜につながらないのですが、では誰がと確認するとマタイ1:3にあるように
ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、
 とあります。このユダはヤコブの4男で、そのユダの子孫からキリストが出るわけです(イエス様を裏切ったユダの名前はそこから採られたのだと思いますが全く生まれた時代が違う別人物ですね)。
 実はこのユダも地味に、曰く付きの人物です。創世記38章というところなのですが、多くの人はほとんど知らないところかと思います。ちょっと語るのが憚られるところだからです。

 かいつまんで言いますとユダは、ユダヤ人ではないカナン人の女性と結婚。実はこれはユダヤ人的にはかなり問題性のある行動でした。そして3人の子が出来た。その長男が、タマルという女性と結婚します。
ところがその長男は子を残さずに死んでしまいます。そこでタマルは今度は、次男と結婚する。ところがこの次男も死にます。当時の考え方、またユダヤ人の考え方として、家を継ぐ男の子を残さないといけないないのですね。
そこで、幼い三男が成人するまで、この嫁タマルは待っていたのですね。しかし、義理のお父さんのユダが、結局この約束を破ったようです。
それでこの嫁は憤ったわけでしょう。そして一計を案じます。嫁が住んでいた土地にユダが来たときに、嫁は売春婦の恰好をして道ばたに立っていました。それをユダは、亡き長男、次男の嫁と知らずに買うわけですね。そして子が出来る。
ユダは「怪しからん、
あの女を引きずり出して、焼き殺してしまえ」(創世記38:24)
と言います。ところがその嫁は、ユダから証拠物件を取っていましたからそれを差し出し、ユダに
「わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女を息子のシェラ(3男のことですね)に与えなかったからだ。」(38:26)
と言わせるわけです。それが、
ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、
と救い主につながる系図に載っているわけですね!

まあ、ドロドロした話です。実はそういう感じの話が、ユダ以降の人たちにもいろいろあるわけです。
ですから私たちは旧約聖書だけを読むのでなく、新約聖書の光に照らして読まなければなりません。そうでないと、極端に言えば、重婚OKとか買春OKとか、へんてこりんな教えや宗教や理屈や教理を自分で作り出してしまう可能性が十分にあります。そうならないように、新約聖書の光を照らして読むこと。またそういう読み方をちゃんとトレーニングされた人から聞いたり、またお互いに聖書理解を分かち合って、こういう読み方はどうか絶えず絶えず互いにチェックし合うことが大切です(牧師さんであっても!単立教会の場合は特にでしょう!)。そうやって、今日私たちへの信仰のメッセージとして旧約聖書を読むことが大事になるのです。省略==(ちなみにユダヤ教でも、ヘブライ語聖書をどう「今日的に」読むかを論じ、その多くの議論や結論が記された文書が残されて重んじられています)==省略

さて、ドロドロの代表格は、ユダヤ人が約束の地、現在のイスラエルのある土地に戻って、国王を頂いて王国を築く。その最も名高い王として知られるのがダビデとその子ソロモンです。
6節の後半に
ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ
とあります。もう時間がありませんから詳細には語りません。とにかくダビデは大きな罪を犯しました。大変な問題を起こました。結局ダビデは、不義密通の罪を隠すために、密通の相手の夫ウリヤを、間接的にではあるが計画殺人するわけですね。その不義密通の相手が生んだ子がソロモンであり、そのソロモンが、イスラエルの最も輝かしい時代を築いた王となるのです。

旧約聖書にその物語が記録されていること自体が大きな驚きです。なぜならダビデは、ユダヤ人の中で最も偉大な人物の一人であり英雄だからです。
その不祥事が、聖典に赤裸々に記されている。聖書はそういう性質の本なのです。だから真実の書なのです。
大事なことは、ダビデが預言者に罪をはっきりと指摘された時、その自らの罪を認め、悔い改めたことです。最高権力者なのですから、その預言者を殺して闇に葬ることもできた。その預言者にスキャンダルをでっち上げて冤罪を着せたり、いくらでも人間の目、国民の目を誤魔化すことはできたでしょう。
しかしそうしないで、まことの神様が見ていらっしゃることを認め、犯した事実をありのままに認め、悔い改めた。

その赦しは、まことの神だけが与えることが出来るものです。
旧約聖書の詩篇51篇に、その罪を悔い改め、赦された喜びを歌ったダビデの詩が載せられています。もうそろそろメッセージは結びますが、一緒にお読みしてみましょう。詩篇51章。では1、2節を一緒に読みましょう。
01【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
19051002ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】

 はい。このバト・シェバとは正に、マタイ1章の系図の6節後半に、
 ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ
と記されているウリヤの妻、その人なのです。では3~6節を一緒に読みましょう。
03神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。
04わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。
19051005あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
19051006あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。

ダビデが、あの悔い改めをした時を回想して歌った詩です。悔い改めの時は、幕屋に赴いて、律法に定められたきちんとした儀式に則って、祭壇の上で身代わりの小羊を殺して犠牲として捧げ、その命の身代わりによってダビデの罪が赦されたとされ、ダビデはその神からの赦しを実感したのです。

 その赦しを新約聖書の光を当てて読む時に、身代わりの、犠牲の動物の本体はイエス・キリスト様が十字架に掛けられて死んで下さったことであることが分かります。新約聖書ヘブライ人への手紙9章で、動物の血を流す犠牲はいわば本物の陰にすぎないことを述べた上で28節に、キリストは、
 多くの人の罪を負うためにただ一度身を捧げられた
と記している通りです。

 そういう本物の救い主、主が現れることをダビデは待ち望んでいたし、このマタイ1章の系図に連なった、さまざまな罪深い、しかしそれは同時に人間臭い生き方をした人々は待ち望んでいたというのが、聖書全体が告げるメッセージです。
 「ダビデの子孫」という表現で、未来の救い主の出現を預言する箇所が、旧約聖書の中で17箇所あるのだそうです。
詩篇110にダビデが、未来に表れるまことの主を預言し、待望して歌った詩が残されています。ダビデは王であり最高権力者で、人々から主と呼ばれているような存在です。そのダビデが歌ったのです。詩篇110:1から一緒にお読みしましょう。
001【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」
19110002主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。敵のただ中で支配せよ。

続いて5節から読みましょう。
19110005主はあなたの右に立ち/怒りの日に諸王を撃たれる。
19110006主は諸国を裁き、頭となる者を撃ち/広大な地をしかばねで覆われる。

そこまでに致しましょう。
 そんな諸国の王を撃ったり、諸国を裁くお方の出現をユダヤ人たちは、待つことになるわけです。それはソロモンのあとの時代、イスラエルの国は国力が衰退し、破れ、異邦人の支配下に置かれるからです。
 それは自分たちが神様に従わなかった、契約違反に対する当然の、罪の結末でした。しかし、当時のユダヤ民族は、ダビデが主と呼ぶそういうお方、メシア、油注がれた方が表れて、バビロンを、あるいはローマ帝国を打ち破ってくれると期待していくようになったのです。

 しかし、神様の側の御心は、一番最初のアブラハムへの約束に忠実でした。そうですね。あなたは、
祝福の源となるように。
01012003あなたを祝福する人をわたしは祝福し/・・・地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。
(創世記12:3)
というみことばを成就して下さいました。
 
 アブラハムの子孫から、またダビデ、すなわち、罪でぼろぼろになって、しかし心から悔い改めて赦しを与えられて立ち返った男の子孫から、イエスはこの世にお出でになったのです。全人類のまことの救い主、世界中あらゆる民族の人々が「主」とお呼びするべきお方、イエスがお誕生になったのです。

 今や、恵みの時、今こそ救いの日(コリント第二6:2)!!

 私たちはすでに、イエス様による救いが成就した恵みの時代に生きています。
 世界の王であり、主でありつつ、私たち一人一人の親しき友として、私たちの重荷や悩みを知り、私たちの願いを、叫びを、祈りに耳を傾け聞き上げて下さる救い主、主であるイエス様になおなお信仰の火を燃やして頂きましょう。