神は我々と共に――救い主の系図2


マタイ1:18~2:6

 新聖歌67わが心は/88独りの御子を/261流し給いし
 日ごとに寒さが増してきました。いかがお過ごしでしょうか。
 さて今朝は、「神は我々と共に」という題を付けさせて頂きました。目には見えなくても、イエス様が、私たちと一緒にいて下さることを感謝し、その信頼の信仰が、ますます豊かに、深まりますようにと祈ります。
サブタイトルとして「救い主の系図パート2」と付けさせて頂きました。前回「パート1」では、マタイの福音書1:1~6、アブラハムからダビデまでのお話しさせて頂きました。
インマヌエル トリ
系図の中に名の記されている人々が、如何に人間としてボロボロであったか。にも関わらず、まことの神が生きておられ、悔い改めや祈りを聴き上げてくださる。罪を赦して下さる。そのことを信じる信仰の故に、ボロボロの人々が神に喜ばれ、救い主イエス・キリストへつながる系図に入れられたのだ、というメッセージをお伝えさせていただきました。
彼らのボロボロ具合を思い出して下さい。前回ご紹介した面々は、アブラハム、イサク、騙し騙され人生のヤコブ。ヤコブの子として、4人の女性から生まれた12人の兄弟たち。その中の四男ユダ。ユダの息子の嫁タマルが、ユダによって得た子たち。…飛びまして、ダビデ。そしてダビデの忠実な部下ウリヤ、の妻。ダビデと「ウリヤの妻」から生まれたソロモン。彼らのボロボロ人生と、にも関わらずの神の圧倒的な憐れみ。そしてその神への信仰の有り難さを思い出して下さい。

さて今日は、ダビデ以降の系図に載った人たちについて、違った角度からお話ししたいと思います。それは、やがて救い主が来られるのだという預言や、準備があった、といった観点です。その預言や準備の不思議さを知って、イエス様が実際に生まれて下さったことへの感謝を捧げたいと願います。
それではイエス様のお生まれについて、旧約聖書の預言を引用した、マタイ1:18~23を一緒にお読みしましょう。
18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
40001019夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
40001020このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
40001021マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
40001022このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
40001023「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

22節に、
預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
と記されていました。この内容は、イザヤ書7:14から引用されています。マタイの方を再び開けるように、しおりでも挟んでおいて頂いて、イザヤ7:14を開いて一緒にお読みしましょう。
14それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ
 そして、マタイ1:23は、そのインマヌエルという名前の意味するところについて解き明かして書いていました。すなわち、
 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

さてイザヤ書7章の方に戻ります。これは紀元前700年頃に活躍した、預言者イザヤ書による預言を記録したものです。
旧約聖書の他の箇所と同様、イザヤ7:14についても、それが語られた時代の背景があります。そして7:14は、第一義的には、その時代の困難な課題に対する神様のみこころを、イザヤが神様から教えられて語ったものです。
そしてそのみことばが同時に遠い将来――それは700年後であったわけですが――の救い主の登場を預言しているわけです。

なぜそういうことがあるのでしょうか?
そのことを例えで説明してみたいと思います。電車から明石海峡大橋を見る、ということを頭に思い浮かべて下さい。
ある日私は、JRに乗って神戸の方から帰ってきました。電車の窓から見ていると、前の方に明石海峡大橋が近づいて来ました。そして電車は間もなく、明石海峡大橋の真下にある舞子駅に停まります。
削除==正確に言うと大橋からつながった高速道路の下です。とはいえ大橋から北へ100メートルの至近距離です。==削除

私は車窓から、目の前に、巨大な橋脚(橋を載せる台ですね)がそびえ立っているのを見ます。それはそれは巨大なものです。高さが30メートル以上ののっぺりとしたコンクリートの塊が、私の目の前に存在しているのです。30メートルというのはビルの高さで言うと10何階建てのビルと同じ高さです。その上を道路が走っているのです。
上の方を見上げると、遙か高いところに、これまた巨大なコンクリートの天井が見えるのです。私は全く圧倒されてしまいました。しかし、3分も経たないうちに電車は動き出し、明石海峡大橋は私の視野から去ります。

それからしばらく走ると、明石海峡大橋全体が車窓の後の方に見えてくるのです。海の上に、明石海峡の中に、2本の塔がそびえ立ち、海面に近いところに橋桁が通って、吊り橋になっているのが遠くに見えます。そして、その上を、豆粒のような自動車が走っているのが見えます。その時私は、明石海峡大橋の一部分ではなく、吊り橋の全体像を見たのです。
橋脚は目の前で見た時にどんなに巨大であっても、それはもっともっと大きな明石海峡大橋のごく一部分に過ぎません。それだけではなく、橋に続く道路が、建物や木々に包み込まれ、そのようにして明石海峡大橋が周囲の町並みや、海や山や平野といった、地形の中に溶け込んで存在しているのを見るのです。

さて、目の前で見た明石海峡大橋、の橋脚にように、私たちがリアルタイムで体験することは、とてつもなく巨大です。それは全く個人的な、不況の煽りをうけて倒産したとか、政府の政策が変わってこんな影響を受けたといったことでもです。それは小さい人間には、あまりにあまりに巨大です。
しかし、時間という電車に乗って、そこから離れてから見ると、明石海峡大橋のようにもっと大きな構造物、そしてそれが置かれている地形の全貌が見えてくるのです。
削除==そうであっても、私は橋脚を見た時に、目の前で実感を込めて「明石海峡大橋を見た」のです。≒≒削除

さて、イザヤ書7:14のインマヌエル預言に戻りましょう。これが語られた背景を知るために7:1を一緒にお読みしてみましょう。
01ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。
はい、そこまでに致します。アハズの治世と記されていました。このアハズ王は紀元「前」700年頃の人物です。ダビデ王の子孫として生まれ、マタイ1章の系図にも、9節に名前が記されている通りです。
アハズ王登場の200年前にはダビデ王、ソロモン王がおりましたが、彼らが死んだ後、王国は、北イスラエル王国と南のユダ王国に分裂してしまいました。アハズはユダ王国の王です。ユダ王国は、神に従う王と、逆らう王が交代で登場しました。アハズは残念ながら、神に従わない王でした。北イスラエル王国の方は初代から、神に逆らう王ばかりが続くありさまでした。
分裂した両国は力が衰えて、周辺の力の強い国々、エジプトやアラムやアッシリアに狙われ、攻められ、翻弄されるようになって行きます。

そして、ユダ王国のアハズ王の時、あろうことか、宿敵アラムと、同胞であり兄弟の国であるはずの北イスラエルが連合軍を組んで攻めて来ます。イザヤ7:1後半に、
アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。
と書いてあるとおりです。そして続く2節にあるように、
23007002しかし、アラムがエフライム(これは北イスラエル王国のことです)と同盟したという知らせは、ダビデの家(ユダ王国ですね)に伝えられ、王(これはアハズ王です)の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。
のです。

その時、預言者イザヤに、主がみことばをお与えになりました。3節から記されいますが、4節から一緒に読みましょう。イザヤに与えられた主のみことばです。4節。
23007004彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。
はい。アハズ王やユダの人々は神様から、
 落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。
と言われたのです。4節後半から、さらにアハズ王にイザヤが伝えた主のことばが続きます。

その中でイザヤは驚くべき予言を語ったのです。4節後半。
アラムを率いるレツィン(これはアラムの王ですね)とレマルヤの子(北イスラエルの王です)が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。
この時、アラムと北イスラエル連合軍は勢いがあって、だからこそ、ユダ王国は森の木々が風に揺らぐように動揺したのです。けれども神様は、そのどちらも「燃え残ってくすぶる切り株」に過ぎないと仰るのです。
5節から、アラムの計略についてイザヤは神に教えられたことを語ります。それは、ユダの王アハズを却け、自分たちに従う人物を王として即位させようという計画です。しかしそれに対してイザヤは、7節のように、神様のご計画をバシっとアハズ王に伝え、言い切ります。では、7節をいっしょにお読みしましょう。
07主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。

アハズ王はどう反応したでしょう? 彼は、それを信じなかったのです。神は預言者を通してさらにたたみかけます。9節の後半です。
信じなければ、あなた方は確かにされない
そこまで釘を刺されたのにアハズは信じなかったのです。

にも関わらず神様は、ご自身の力ある救いの腕をお示しになるために、2人の王の敗北と、のみならず、その領土も失われることを預言されるのです。

では13節から一緒にお読みしましょう。
13イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
23007014それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

はい。インマヌエル預言に帰ってきました。インマヌエルというのは「神は我々と共におられる」という意味の、人の名前です。このインマヌエルって一体誰なのでしょう。またこの預言が意味することはどういうことなのでしょうか。
続けて15節から、おとめが身ごもって生む、ミスター・インマヌエルが、将来、行うことを神様はお示しになります。16節からお読みします。ミスター・インマヌエルは、
災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。

二人の王とはアラムの王と北イスラエルの王です。いま、連合してユダ王国を攻めてきている両国の「領土は必ず捨てられる」とイザヤは預言したのです。
そして20年後、その預言の通りになりました。
時間が迫っているので詳しくは語れませんが、アハブ王は、「落ち着いて、静かにする」ことをせず結局、アッシリアに頼ります。そしてアッシリアがアラムを滅ぼします。

ところがアッシリアは、間もなく北イスラエル王国をも滅ぼしてしまいます。それはアハブの判断が仇をなして、結局、同胞である、兄弟の国である北イスラエルを滅ぼすことになってしまったわけですね。

さらに、アハブが死んで、その子ヒゼキヤの時代となります。ヒゼキヤ王の名前も、マタイ1:9に出ておりますね。そしてこのヒゼキヤ王の時代に、アッシリア帝国は、今度はユダ王国を攻め滅ぼそうとするのです。
けれども、ユダ王国は滅ぼされませんでした。ヒゼキヤは神のみことばに従順な、神に従う王として知られるようになった人物です。だから彼がインマヌエルなのです。神が共におられるのです。ですから守られたのです。

その経緯を少しお話ししましょう。マタイの系図や、イザヤ7章に何か挟んでおいて、イザヤ36:1を開いてみて下さい。イザヤ36:1をお読みします。
01ヒゼキヤ王の治世第十四年に、アッシリアの王センナケリブが攻め上り、ユダの砦の町をことごとく占領した。

砦の町が、すでにもう占領されてしまったのです! さらにアッシリアの王は、ユダ王国の首都エルサレムに、降伏を促す使者を送ります。
ラブ・シャケと言う名の使者が、エルサレムの生命線とも言える水道を占拠します(削除 その場所は奇しくも、先代のアハブ王の時代に、イザヤがアハブと会ったその場所です
白いご飯に美味しい焼いたシャケなら大好物でラブ鮭なんでしょうが、こっちのラブ・シャケはとても喰えない人物です。
かれは、ヒゼキヤ王への侮辱と挑発を、エルサレムの全住民に聞こるほどの大声で叫びます。7節からお読みします。ラブ・シャケがヒゼキヤとユダ王国の人々を侮辱して言った言葉です。7節です。

23036007お前は、『我々は我々の神、主に依り頼む』と言っているが、ヒゼキヤはユダとエルサレムに向かい、『この祭壇の前で礼拝せよ』と言って、その主の聖なる高台と祭壇を取り除いたのではなかったか。
これは、ヒゼキヤが父アハズの時代にユダ王国が、神に逆らったことを悔い改めて、徹底的な宗教改革を行ったことを指して言っているのです。そのことを誉めているのではなく、バカにしているのです。侮辱しているのです。
「お前たちがいくら悔い改めてまことの神、主を礼拝したって何の役にも立たないではないか。もうアッシリアは、お前たちの砦の町々や、エルサレムの水資源までも占領してしまっているのだぞ」というわけです。

さらにラブシャケは次のように挑発します。
23036008今わが主君、アッシリアの王とかけをせよ。もしお前の方でそれだけの乗り手を準備できるなら、こちらから二千頭の馬を与えよう。

こちらから馬を2000頭やるから、それに乗ってで我々と戦ってみたらどうだ。もっともお前たちは2000人もの乗り手をもうそろえられないだろうがな!と侮辱したのです。

その時エルサレムの住民は、36:21
黙っており、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。
要らないことを言わないで、神を信じて沈黙を守ります。

そして、37:1から一緒にお読みしましょう。ヒゼキヤは神様を信じ切り、頼り切ることを決意し、それを行動に表します。そこに預言者イザヤがやって来て預言するのです。アッシリア王は戦うことなく引き返し、結局殺されてしまうのだ、と預言するのです。では1節から7節まで、みことばを味わいながら一緒に読みましょう。
01ヒゼキヤ王はこれを聞くと衣を裂き、粗布を身にまとって主の神殿に行った。
23037002また彼は宮廷長エルヤキム、書記官シェブナ、および祭司の長老たちに粗布をまとわせ、預言者、アモツの子イザヤのもとに遣わした。
23037003彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言われる。『今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない。
23037004生ける神をののしるために、その主君、アッシリアの王によって遣わされて来たラブ・シャケのすべての言葉を、あなたの神、主は恐らく聞かれたことであろう。あなたの神、主はお聞きになったその言葉をとがめられるであろうが、ここに残っている者のために祈ってほしい。』」
23037005ヒゼキヤ王の家臣たちがイザヤのもとに来ると、
06イザヤは言った。「あなたたちの主君にこう言いなさい。『主なる神はこう言われる。あなたは、アッシリアの王の従者たちがわたしを冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。
23037007見よ、わたしは彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される。』」

結局、実際の歴史は、そのようになりました。この時、ユダ王国はアッシリアに滅ぼさず、逆にアッリア王は殺され、さらにアッシリア帝国は滅びてしまったのです。
これがインマヌエル(神は私たちと共におられる)預言が第一義的に表している部分です。しかしこれは、明石海峡大橋の橋脚のように、神の救いの全体像の一部分にしか過ぎません。

では全体像とは何でしょうか?
そうです。イエス・キリスト様がお生まれになったことです。そして、十字架に掛けられて私たち人類の身代わりとなって死んで下さり、そしてそのことを感謝を以て信じ受け容れる人を罪から救ってくださり、「神が共にいて下さる」ようにしてくださる。まさにイエス様はインマヌエルなるお方です。
また、イエス様を信じる人の心に聖霊を注いでくださって、その心を変革し、「神が共にいて下さる」ことを「私が」喜ぶことができ、それを力とする生き方に、導いていって下さる。そのようなことが確かに起こる時代を来たらせてくださったのです。

それこそが、インマヌエル預言の真の成就でした。それは、どこか架空の場所の架空のお話し、ではありません。
第一のインマヌエルであるヒゼキア王を通して、歴史の事実として、現実的に、まことの神を信じる共同体が守られ、敵の方が滅び去ってしまった。その確かな事実を裏付けとして、神様は私たちに、イエス・キリスト様の救いを、語りかけていて下さるのです。

では結びに、マタイ1:22から23節までいっしょに味わいつつお読みしましょう。

22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
40001023「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

お祈り致しましょう。