喜びのクリスマス――イエスというお腹の子の名の意味は?


ルカ2:1~20
【子どもたちと共に】
クリスマスおめでとうございます!
寒い日が続いていますが、みなさんお元気ですか?

さて今日は、ここ魚住キリスト教会でも、クリスマスをお祝いしていますが、いまこの時間、日本中のいろんな教会でクリスマスをお祝いしています。賑やかな町にある大阪の教会でも、雪が積もっている北海道の教会でも、温かい沖縄の教会でも、いま、クリスマスおめでとう!と言っているでしょう。
私たちももう一度、クリスマスのご挨拶を致しましょう。

クリスマスおめでとうございます!
クリスマス羊飼いとトリ
さて、クリスマスって何の日か知っていますか? そうです。イエス様がお生まれになったのを記念する日です。
 皆さんも生まれた時、おぎゃーおぎゃーって赤ちゃんで、お母さんのお腹から生まれて来たんですね。そのようにイエス様が生まれて下さったことを、世界中の人々がお祝いしているのです。
そのイエス様のお誕生は何年前のことか知っていますか?
答えは2018年前です!

今年は2000何年でしょうか? そうですね2018年です。
実は、今年が2018年なのは、イエス様が生まれてから1年、2年と数えていったら、今年が2018年になるからです!
それは世界中の人が知っています。

アメリカの人に会って、「今年は、this year is twenty eighteen(2018年だね)」って言えば、「そうだね」って言います。ドイツの人に聞いても、中国の人に聞いても、マレーシアの人に聞いても世界中の人が「そうだね。今年は2018年だね」って言うでしょう。(略 AD=アンノドミニ(AnnoDomini=「主の年の」への言及)
すごいですねー!
 (略 もしも、田中太郎って人がいて、今年は田中太郎が生まれてから12年だから今年は「田中太郎の12年だ」って言ったらどうでしょう! でも、そんなこと誰も言わないですね。あり得ませんね。笑っちゃうだけです)

イエス様がお生まれになって2018年目のクリスマスのお祝いを私たちは祝っています。世界中の人々と一緒にお祝いしています。
それは、イエス様が、世界の人々の救い主だからです。世界中の人々が畏れ敬い、礼拝を捧げるべき神様だからです。

イエス様はそんなにすごいお方です。だけど、威張ったり、弱いものいじめをしたりしませんでした。逆に弱い人の味方になってくれました。助けてくれました。そして、私たちの罪を赦すために十字架に掛かって死んでくださいました。

私たちの罪って、自分の思う通りにならないとすぐにかーっとなって怒鳴ったり、誰かのことを憎たらしい!こんな人いなくなっちゃえばいいのに!と思ったり、「この人、私より誉められてる」とか「頭がいい」って妬みを持ったりする悪い心、意地悪な心です。
そんな自己中心でワガママな私たちの罪の身代わりに、イエス様は十字架に掛かって死んで下さいました。
だから世界中の、素直にごめんなさいする人々の罪は赦されるのです。私も赦されるのです。ですからイエス様は救い主であり、私たち世界のみんなの主なのです。

さあ、もう一度、クリスマスのお祝いの挨拶を致しましょう。
クリスマスおめでとうございます!

【大人と共に】
私が子供の時、クリスマスは楽しみでした。
子供時代、我が家は教会なんかに行ったこともありませんでした。けれども、クリスマスは楽しい家族行事でした。
 クリスマスイブの夜に、ちょっとしたホームパーティーをやるのですね。いつもの牛乳配達やさんにクリスマスケーキを予約しておいて、トリのもも肉を焼いたものとか、ちょっと凝った料理を母が準備してくれます。
私たち兄弟も、折り紙を細長く切って、紙の輪つなぎを作って部屋を飾ったり、もちろんクリスマスツリーを出して、うきうきとしたイベントでした。
皆さんも是非、大事な人とそのような時を持って下さいね。

 さて、2018年前、正確には、近代になっての研究の結果、約2022年前ということが分かっているそうですが、イエス様はお誕生になりました。
 そして、いま子どもたちと一緒にお祝いしたように、私たちは世界中の人々とともに今年のクリスマスをお祝いしています。
 お手元に、聖書の「ルカによる福音書」に記されている、イエス様のお誕生の記事のプリントをお届けしています。
 世界で初めのクリスマス、オリジナルのクリスマスがどんなだったかを、福音書記者・ルカが記した文章の日本語訳というわけです。

 では、2:1から一緒にお読みしましょう。これはイエスの母マリアと育ての父ヨセフが旅行をして、旅先でイエスを産むという記事です。2:1から5まで読みましょう。
01そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
02これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
03人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
04ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
05身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。

 1節に出てきたアウグストゥスとは、ローマ帝国の皇帝です。西は現在のイギリスの一部やスペインから、東はトルコやシリヤ、またアフリカの北部までの広大な領土を支配していた権力者です。
「ブルータス、お前もか」と言って暗殺されてしまったジュリアス・シーザーの後釜で、権力抗争を勝ち抜いて、大国ローマを我がものとし、初代皇帝として君臨した、あの絶対権力者アウグストゥスです。

1節に「全領土の住民」とあったのは、そのローマ帝国の領土ですね。ヨセフとマリアが生まれ育ったユダヤの国も、ローマ帝国の領土となっていました。ですから「住民登録をせよ」という皇帝の勅令に従わなければならなかったのです。
それはもちろん、ユダヤの民にとって非常に不本意なことでした。なぜならその住民登録は、自分たちを植民地支配するローマ帝国に、税金を納めたり、支配されるためになのです。削除==だから、何年か後に行われた別の住民登録の際には、ユダヤの人々の間では、ローマ帝国に対する反乱が起こったことが歴史の記録に残っています。==削除

 しかし彼らには、皇帝の勅令に従わないという選択はあり得ませんでした。なぜなら、ユダヤの国も隅々まで、ローマ帝国の支配力が及んでいるからです。駐在するローマ軍に捕まって殺されたりはしたくありません。監視の目だって行き届いています。

 実はユダヤのお国の命運は、ローマ帝国が興ってくるその前から、周囲の大国によって翻弄されてきました。実はユダヤの国というものは、ヨセフやマリアの時代からさかのぼること約1000年前、ダビデ王という偉大な王に治められた王国でした。独立し、大国として治めていたのです。

 そこにつながることが4節に書いてありました。「ヨセフもダビデの家の属し、その血筋であった」と記されています。しかし当時、ヨセフは、王家の子孫である名残もなく、一介の貧乏な大工として身を立てておりました。マリアもダビデ家の血筋で、下級士族ならぬ下級祭司の家の娘だったようです(1章)。
 だから彼らの本籍地は、ベツレヘムという「ダビデの町」でした。しかし実際に住んでいるのはガリラヤの町ナザレというところだったのです。ですから住民登録のためには旅をしなければならないのです。距離にして110キロです! ここから大阪も通り越して、京都や奈良まで行けてしまう距離です。

もちろん歩いて!またマリアだけはロバに乗っての旅です。健康な人で3、4日かかります。妊婦にはどうだったでしょう?
 今でも、妊婦の旅行は、通常よりリスクが伴います。旅先に産婦人科があるか調べておき、母子手帳や健康保険証を必ず持っていくでしょう。飛行機だって8か月あたりからは原則として乗れないのではないでしょうか。
 マリアの旅はもっと過酷だったのです。6節から一緒に読みましょう。

06ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
07初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

110キロ歩いて、ロバに揺られて、その慣れない旅先のベツレヘムで月が満ちてしまったのです。そして男の子を産みました。しかも、初めての出産だったのです! どんなに大変だったでしょうか。

日本でも昔は、子どもが生まれる直前まで農作業をして、その晩に生まれたと言うようなことは普通にあったのではないか、というご意見もありました。それにしても、マリアの何と、生命力に満ちていることでしょうか!
しかしそれは、好き好んでの旅ではなく、強制されての旅でした。110キロの旅をしないといけない羽目になったことでもヨセフは困惑したに違いありません。
そして実は、そのこと以外にも、先ほど出たローマ帝国の支配下にあるという時代状況。さらには、今回は時間がないので詳しく述べることができませんが、さまざまなプレッシャーやストレスの元になる問題課題を二人は抱えておりました。

しかし、彼らには、心の深いところに支えがありました。
それは、自分たちは守られる。そして、お腹の子供が必ず守られて産まれるという確信があったのです。
なぜなら、お腹の子供は、彼らが信じるまことの神様から約束された子供であったからです。そしてその子供は、ダビデ王をはるかに超える、まことの王となる者だと約束されていたからです。その子供がイエス様です。
(略 ルカによる福音書の、今日読んだ個所の前にある1章というところに、その約束が与えられた時の様子が記されています)

さて、その時にマリアはすでに、与えられるのは男の子であることをすでに告げられていました(今日でも、男の子か女の子か100パーセントは分かりませんネ!)。 そして、イエスという名前も、その時、神様御自らが、「イエスと名付けなさい」と、お決めになったのです。
イエスという名は深い意味があります。それは、「神様は救って下さる」という意味なのです。イエスというのは、「神様は救って下さる」ということなのです!

彼らが信じているまことの神様はおそるべき神です。聖書を読むと、その一番最初に記されています。
初めに、神は天地を創造された。(創世記1:1)
人間が作った偽者の神ではありません。天地を作り、私たち人類「に」いのちを与えた本当の神様です。

ヨセフやマリアがそうであったユダヤ民族は、彼らの大先祖の、アブラハムという人物が、「その神」と契約を交わし、人間らしく生きることを約束した「選ばれた」民であったのです。
ところが、ユダヤ民族は、イエス様がお生まれになる1000年以上の歴史を通して、何回何回もまことの神様に逆らって来ました。
先ほど名前の出たダビデ王や、その次のソロモン王の時代には、経済的な繁栄、国力増大の絶頂期を迎えました。しかしその陰で、心の腐敗や堕落が深いところで起こっていたのです。
彼らはまことの神様に従う生き方を求めるのではなく、経済的な安楽だとか、見栄だとか、自分だけ良ければ、今だけが良ければそれで良いという欲望だとか、そういうものにばかりに走って、人として大事なことを忘れてしまった。自分たちにいのちを与えて下さった本当の神様を忘れた生き方、また人間としての、助け合いを忘れた自己中心の生き方になって行ってしまったのです。
それは、今日の私たち、日本に生きる私たちの生き方に重なるかも知れません。私たちは心して神様の御言葉に耳を傾けなければなりません。

削除==神様はユダヤの民に、預言者を遣わして何度も何度も警告を与えて下さいましたが、聞き従わず、無視しました。かえって預言者を迫害し殺しました。==削除
そのため神は、周囲の大国を用いてユダヤの国を攻めさせ、結局ユダヤの国は破れてしまいました。それが古くはアッシリアやバビロンという国であり、その流れで、引き続いてローマ帝国の支配下に入ってしまっていたのです。
だからユダヤ人的には、自分たちをローマ帝国の植民地支配から救い出して下さる。そういう意味でイエスという名前が意味する「神様は救って下さる」ということを求めていたのです。
削除==そのようにして、「自分たちの」尊厳や名誉や、経済的繁栄が戻って来るように願うことが一般的だったのです。==削除

しかし、神様の御心はもっと深い、根本的なところにありました。それは、人が、心の底から変えられることです。
自己中心の、神様がいなくてもお金やモノがあれば幸せに生きられるという歪んだ考え方の生き方を止めること。いのちを与えて下さった神様を求め、本当のこと、真理は何かを求め、本当に人間であることを祈り求める生き方を、神様は願っていらっしゃるのです。

削除==そうでなければ、いくら社会的に不名誉があらず、経済的に十分にあってさえも、本当に人間らしくは生きられないのです。そうではなく、私の心の深いところに、人間らしい、神様を信じて生きる生き方が起こってくる。イエス様は、そういうことが、人の心の中に確かに起こるために、この世にお出でくださったのです。==削除
そういう本当に人間らしい生き方は、21世紀の日本に生きる私たちにも可能です。それは、イエス様を救い主として信じる生きることによってです。それが、人間として本当に幸せな道です。子どもたちや子孫にとっても本当に幸いの道です。そういう意味で私たちもマリアやヨセフのようになれるのです!あなたも続けて教会に来て、そんな生き方を求めてみませんか?

マリアとヨセフは、ベツレヘムに向かう苦しい旅の途中にも、何度も何度も、我が子に与えられている名前を噛みしめ、呼んだことでしょう。
「イエス、イエス」。神様は救って下さる! 神様は救って下さる! 何度も何度も、マリアの大きなお腹をなでさすり、慈しみながらイエス、イエスとお呼びかけしたのです。

そして、そのイエス「神様は救って下さる」という名前の通り、天地を作られた、人類にいのちを与えて下さったまことの神は、マリアとヨセフの旅路を守り導いて下さったのです。
そして、イエス様はこの世に無事にお生まれになりました。「おぎゃー、おぎゃー!」。人間の赤ちゃんとしてです!

削除==私たち人間は皆、誰でも赤ちゃんとして生まれました。そして、自分も赤ちゃんを与えられたり、赤ちゃんや子どもたちを見守って、この社会に生きています。
イエス様は、その私たち人類の一員として、マリアという女性のお腹から「生まれ」、同じような食べ物を食べて育ってくださったのです。==削除

そしてイエス様は人間として、まことの父である神に従った、人間らしい生き方を生ききって下さいました。33年の短い生涯であったと言われます。しかしそれは、堅苦しい生き方ではありません。新約聖書を読めば分かりますように、イエス様は、正しいことは正しいと貫かれる生き方をし、弱い者には優しく思い遣りがあり、相手が社会的に強い者でも、間違ったことをしているなら容赦なく正しいことを主張もしました。
しかし、それはとてもしなやかな生き方でした。簡単に敵の手には落ちないような知恵や、ユーモアも勿論お持ちでした。すなわち、イエス様はまことに、強い、人間であるお方だったのです。

しかしイエス様は、ご自分のこの世のいのちが、地上で生き延びることではなく、「神様は救って下さる」というお名前の通り、私たち人間の仲間が救われる目的のためだけに生きて下さったのです。イエス様は、私たち人類を救うために生まれて、生きて下さったのです。
ですからイエス様は、悪い者たちの手に落ちて、十字架に掛かって殺されてしまいました。いや、ご自分の方が私たちのためにいのちを掛けて下さったのです。
ですから私たちは、イエス様が私の罪の身代わりになって死んで下さったのだ。ありがとうございます!と感謝して受け容れるならば、自分の心や、生きる姿勢を深いところで、神様の力によって変革して頂けるのです。それは自分の力によってではなく聖霊なる神さまが働いて下さってそうして下さるのです。

 マリアやヨセフは苦難もある人生を通って、正にそういう「信じる生き方」を神によって身に着けさせて頂いたのです。
 イエス、すなわち「神は救ってくださる」ということを、心からそうだなぁと分かって生きるようになった人たちなのです。もうそろそろ締めくくりたいと思いますが、7節を見ますと、
布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
と記されていました。もしも、全てのことを支配しておられるまことの神を本気で信じていないならば、とてもとても幸せなんとは思えない。
赤ちゃんも、自分たち夫婦も、人間らしく生きさせてもらってるなんて思えない。だって、宿屋にさえ泊まる場所がないんですよ! 大切な大切な我が子を、飼い葉桶(それはロバや牛といった家畜が餌を食べる容れ物です)に、
――きっとそれはきれいに洗ってあったとしても、そして、貧しいながら大事に大事に赤ちゃんのために準備していた清潔な布地に、心を込めてくるんでやったとしても――、飼い葉桶に寝かさなければならないなんて! なんて情けないことでしょうか! もしも、まことの神様を本気で信じなければ。
しかし、マリアとヨセフは、本気で神を信じ、神への感謝に心が満たされていました。

十字架にかかって死んで下さった、よみがえって下さった、そして今も生きていて私たちの祈りに耳を傾けていて下さるイエス様を信じれば、どんな苦難の中でも感謝して生きられます。そうして、そこから力強く立ち上がっていく生き方ができるのです。

結びに、イエス様が生まれたその夜に、ベツレヘムの近くの荒野で、羊飼いたちに天使が告げた喜びのメッセージを一緒にお読みしましょう。10節から12節を一緒に読みましょう。

10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(これはである。
12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

続いて14節。
42002014「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

世界で最初のクリスマスの夜に、救い主イエス様がお生まれ下さったというグッドニュースは、パブリックな、世界のみんなが知っている素晴らしいニュースになったのです。

羊飼いたちは、マリアや、ベツレヘムの町の住民に知らせました。そして、そのニュースが広がっていきました。……そしてついに今、日本の明石にいる私たちに、日本語で伝えられたのです。
救い主イエス様がお生まれになったというクリスマスの喜びの報せを私たちは聞いたのです。

まがまがしく権力を振るったアウグストゥスのことなど人類は忘れてしまいました。ローマ帝国のことなど私たちは知りません。彼らが真の、世界の支配者ではないからです。
しかし、イエス様のことを世界中の人々は、日本の私たちは知っています。

イエス様は、私たち人類の救い主です、まことの主、心の王でいらっしゃるのです。
「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。
お祈り致しましょう。