イエスが道――それは真理でいのち


ヨハネによる福音書14:1~16
新聖歌18/172/105

寒い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか?
さて前回は「御言葉は道の光」という題でお話ししました。
今朝は、道つながりで「イエスが道」とつけさせて頂きました。

では早速ですが、中心的な部分であるヨハネによる福音書14:6を一緒にお読みしましょう。
06イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
道であり真理でありいのち
イエス様はここで、「わたしが道だ」と仰せられたのですね。
道というのは、そこを通って行くわけです。そして目的地があります。イエス様という道を通って行く、その目的地をイエス様ははっきりと言っています。
そうですね。「父の御許です」。イエス様という道を通らなければ、誰も、天の父なる神さまの許に行けないのだとイエス様はおっしゃいます。
裏返して言えば、イエス様という道を通れば必ず、父なる神さまのところに行ける、お会いできるということです。

父なる神は、無から有をお造りになった神様です。光を創り、時間を創り、空間をお造りになった創造主なる神です。銀河を含む宇宙の全て、また地球をお造りになり、そこに住む全ての生きとし生けるものをお造りになったお方。そしてお造りになった全てのものの真の支配者、所有者でいらっしゃる御方です。
人間「が」造った、何の力もない、偶像の神ではありません。人間をお造りになりいのちをお与えになった全地全能の神様です。

その神にお会いすることができる! それは何とすごいことなのか改めて思い巡らしてみましょう。

例えば、トヨタ自動車は従業員が35万人いるそうです。すごい規模の会社であり組織ですね。味の素はその十分の一の3万人だそうです。それでも、日本に住む人で味の素を知らない人はいないでしょう。
さて私たちは、トヨタ自動車や味の素の会長にお会いすることができるでしょうか? そうそう簡単には会えませんね。電話一本することすらできないでしょう。取り次いでもらうことすらできないでしょうし、そもそも社長につながる電話番号も分からないでしょう。
しかし、もしも私が、超セレブであったり、超有名人物であれば話は別かもしれません。それでも特別の時間を割いてもらうのは簡単ではないでしょう。たくさんお金も使わなければならないでしょう。
では、父なる神に会うということはどういう事態でしょうか?
父なる神は、トヨタ自動車や味の素の会長などを遥かに超えて、いや、この世のどんな権力者をも遥かに超えて、畏るべきお方です。接し方を間違えればいのちの保証さえない恐ろしいお方です。
旧約聖書に記されている神様は、そのような神であり、イエス様が父と仰ったのは正にその同じ神様です。

しかし、私たちはイエス様という道を通れば誰でも、父なる神に直々にお会いできる、と約束されているのです! すごいことをイエス様はいっているのです。もしもイエス様が口から出任せを言っているとか気が違っている、というのでない限りは。

そして、イエス様は、私は真理であり、いのちであるともおっしゃいました。
真理だというのはどういうことでしょうか? それは自然の物理法則のようなものとも説明できます。
物理の法則というものは変化しません。それは真理を語っています。10年後の何月何日の何時何分には、月は地球に対してどの位置にあるか、私たちは正確に割り出すことができます。もしも、天体の動きが気まぐれであって、10年後に月がどこにいるのか分からない、ということになれば、人類は決して、月にロケットを正確に着陸させて月面に立つことなどできなかったでしょう。
しかし、物理の法則は嘘をつきません。

イエス様が真理であるというのは、まさにそのような意味で、いやそれ以上に、絶対的に信頼することができる方でいらっしゃるということです。

そしてイエス様はいのちです。
いのちって何か? 私たちはそれを直感的に知っています。死んだもののように冷たくはなく、暖かです。息をしています。心臓が動き血が脈打っています。泣いたり笑ったりしています。

ヨハネによる福音書の中でイエス様は、ご自分と「いのち」というものの関係を、何回も語っていらっしゃいます。
ここで「いのち」と訳されているゾーエーという単語が、ヨハネの福音書の中で何回使っているか数えてみました。約30回使われておりました。全てイエス様ご自身がお語りになった言葉のなかでです。
イエス様は学者のようにではなく、非常に分かりやすく「いのち」ということを語っています。そしてその「いのち」が、あなたにとって必ず必要なものなのですよ、ということを分かりやすく教えてくださっています。

ヨハネ6:33を見ると
33神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。
と仰っています。そして35節で
わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
と仰っています。

何も食べなければ人は生きることができません。食べ物がないとおなかがぺこぺこになり咽が渇き、ついには死んでしまいます。パンを食べることで人間は生きて行けるのです。いのちを与えられるのです。
食べるということは誰でも分かります。ものを食べたことがない、という人など一人もありません。また、食べればお腹が一杯になって元気になることを誰でも知っています。

イエス様は、そういう誰でも分かる言い方で、ご自分のことを「わたしがいのちのパンなんだよ」と、誰でも分かように教えて下さっているのです。

また、それと似た表現で、イエス様の与える命、イエス様ご自身が命の源であられることを言っておられます。
ヨハネ4:14
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。

からからに咽が渇いている時に水を飲む。そうすれば何が起こるか、誰でも分かります。渇きは潤されます。元気を回復します。イエス様は、そういう水に例えられるものを私たちに与えて下さる。「飲ませて」下さる。そういう体験をさせて下さるのだ、と仰っているのです。
それだけではない。そういう水は、飲んだ「人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とまでおっしゃったのです。

ここで使われている「いのち」という言葉は、イエス様が「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃったのと同じ言葉です。
イエス様は、父なる神さまのところに必ず行くことができる道でいらっしゃることの中に、イエス様が確実な真理で、いのちなのだ。だから道なのだ、ということが含まれているのです。

このことから分かることは何でしょうか?
1つめは、先ほどのパンや水のように、イエス様のパンを食べる、いのちの水を飲むということを通して、私たちはいのちを与えられるということです。またそれ自体が道であるということです。
日常的に聖書を読んで、神様への感謝と賛美を、またその感謝を以て私の悩みや苦しみ、問題課題を、イエス様のお名前によって父なる神さまにお話しし、祈り、お願いする祈りの営み自体が、父なる神さまへの道を歩んでいることなのです。イエス様という道を私たちは日々歩んでいるのです。

2つ目は、私たちはイエス様を信じることによって、この世の命を終えて、すなわち死んだ後も、父なる神さまの御許にいって生きることができる。永遠の命が与えられているということです。
それは、14:1から読めば分かります。
では1から3まで一緒にお読みしましょう。
001「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
43014002わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
43014003行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

これをイエス様がおっしゃったのは、イエス様が弟子たちと最後の晩餐を終えなさって、これから敵に捕縛され、十字架に掛けられてお死にになる。そのことが起こる直前だからです。
弟子たちは、それがまだ起こっていないけれども、イエス様が捕らえられるのではないか。殺されるようなことになりさえするかも知れないと感じ取っています。状況がそうだからです。またイエス様ご自身がそういうことをほのめかすことをおっしゃっているからです。

それで弟子たちの心は怖れによって騒ぎ立ちました。
イエス様は、その弟子たちに
心を騒がせてはなりません
とおっしゃいました。

では、イエス様を信じるものは、心が騒ぐような感情を持ってはいけないのでしょうか? あるいは全く心が騒がないような境地に至るということがあるのでしょうか?
これはそういうことではありません。
ていねいに聖書を読むと、実はイエス様ご自身が心を騒がせられたことがあることが御言葉に記されているからです。
それはヨハネ11:33です。

33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
34言われた

というところです。これはイエス様の若い愛弟子の一人が死んでしまって、皆が集まって嘆き悲しんでいる。そういう場面です。ラザロが死んでしまったその場所で、皆が悲しみ動揺している様子をご覧になって、イエスは「心に憤りを覚え、心を騒がせた」のです。新改訳では日本語もそのように「騒がせた」と翻訳しています。
新共同訳では「興奮した」と訳されているわけですが、この言葉はヨハネ14:1でイエス様が「心を騒がせるな」と仰ってる「騒がす」と同じ動詞が使われているのです。

しかし、その二つには違いがあります。
14:1の方の「心を騒がせる」という言葉は、
実は正確に元の言葉で読むと、「心を騒がせられる」と受身形で書いてあるのです。
一方、11:33イエス様がなさったのは受身形ではありません。能動形で書かれています。非常に示唆に富んでいることと思います。また、14:1の方はギリシャ語の現在形で書かれ、11:33はアオリスト形という時制で書かれています。

それはどういうニュアンスの違いをもたらすかというと、14:1の、心を騒がせられると言う方は、現在形で書かれていることによって、その騒がせられることを「いつも、習慣的に、継続して」行っている、ということを示しています。そういう風に心をいつも、習慣的に、継続的に騒がせられているということでありなさんな、とイエス様は言って下さっているのです。
他方、11:33のほうでアオリスト形で書かれているというのは、これまでそうでなかったのが、時間のある点においてそういう行動をぱっとした、ということが強調されている言い方です。ですから、イエス様も生身の人間として心を瞬間的に騒がせる、ということがおありになったのだ、ということが分かります。
しかし、イエス様は、14:1のように、どんな状況でもあなたがたは心を騒がせられ続けたり、騒がせられることを習慣とする必要はないんだよ、と言って下さっています。

それは何故?どのように? イエス様はおっしゃって下さっています。すなわち
神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

では、その信じるべき神はどのような神か。またイエス様がどういう方かイエス様は続けて仰っています。2節3節。

43014002わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
43014003行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

これは、この地上の命を終えた後、すなわち死んだ後に与えられる永遠の命に関連して仰っておられます。
ズバリいいますとイエス様は「これから自分は死ぬ。だけどそれは、父なる神のところに行って、あなたがたも永遠に生きることができる場所を備えに行くことなのだよ」と仰っているのです。

すなわち、イエス様が十字架におかかりになって命を捨てて下さる、死んで下さるのは、人類、私たち全ての罪を赦して下さる身代わりとして死んで下さるのだ。
そして復活、すなわち父なる神によってよみがえらせられ、天に帰られ、父なる神の右の座にお着きになる。そのことをイエス様はここで「行ってあなたがたのために場所を用意」するという言い方で仰ったのです。

この言葉を言われた時は、ヨハネや他の使徒たちもイエス様の仰ってることの意味が分からなかったでしょう。
しかしその後使徒ヨハネは、イエス様の十字架と復活を目撃し、イエス様が天にお帰りになる場面も目撃しました。
そのすぐ後、ペンテコステがあって、イエス様を救い主だと信じる人が多く起こされ、パウロも活躍し、教会が形成されていった。

また、その初代教会の宣教活動や、クリスチャンのグループの歩みの中でさまざまな出来事があり、苦しみや試練や迫害もあり、しかし不思議な神様からの導きや助けも経験し、見聞きした。
そしてヨハネは、長生きをしたことが知られています。ほかの使徒たちが若くして殉教してしまったのですけれども。
その長い人生の最晩年においてヨハネは、これまで自分がイエス様に従って来たこと、ことに直接イエス様から教えられたこと、イエス様について直接この目で見たことについて思い巡らし続けて来ました。
初代教会の展開の中で、「いま」起こっている出来事を通して、イエス様が先に言っていて下さったことはこういうことだったのだ!ということをだんだんと、さらに深く深く分かってきた。イエス様の仰ったことの意味が分かってきた。その長年の信仰の人生の体験を踏まえて、ヨハネによる福音書に書き記したくれたわけです。いや、聖霊がそのようにヨハネに書かせたのです。

ですから、ヨハネによる福音書は、さっきのパンとか水のようにイエス様の平易なことばを使って教えて下さったことが、どんなに深いものであるかを語り尽くしているわけです。
それは、初代教会において、聖霊の豊かな導きの中で、イエス様はこんな方だ、こんなことをして下さった、教えて下さったのだということが教えられ続けている中身であるわけですから、ヨハネによる福音書を読んだ人々、朗読を聴いた人々は、ヨハネの福音書に書かれている信仰的な意味を、その深さ、豊かを以て良く分かったわけです。

ヨハネ14:2にはこのように、イエス様の言葉が記されています。
わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。

これは、イエス様を救い主として信じる者たちが、死んだ後にそこに行って住むことになる場所があるんだ。イエス様はそのことをはっきりと教えて下さったのだ、ということです。
父なる神さまの家なのです。そこが、私たちの永遠のホームとなるのです。

考えて見て下さい。私たちが旅行にいって、帰る家がなければどうでしょうか? 帰る家があるというのは何とほっとすることでしょうか?
この世の旅路を終えて私たちは確実に、父なる神の家に備えられたわたしの場所に、私の家に帰ることができるのです。
それは父なる神のホームです。父なる神が一緒にいて下さいます。イエス様の十字架が、自分の罪の身代わりだと感謝して信じるものは、十字架に掛かって身代わりとなって下さったイエス様を道として、必ず父なる神さまの御許に行けるのです。

そして、その父の家には住むところがたくさんある! 限定されてはいないのです。何千万人限定!それ以上はそこに入れません、ということではないのです。遠慮してはいけないのです!
イエス様の十字架による赦しは絶大な赦しです。悔い改めて信じるものは誰でも救われて父の家に行かせて頂けます。

もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
というのは、イエス様が念を押して、強く強く約束して下さっているのです。そのことに例外は絶対にないよ! もしも例外があったり、そうならない可能性があるのだったら、私は
あなたがたのために場所を用意しに行く
なんていわないよ!と、強く仰っているのです。

そして4節でイエス様は、ご自身が、そういう父の家に行ける「道」なのだということをおっしゃった。その道のことは私について来ているあなたたちは分かっているでしょ?とイエス様は仰ったのです。それはすなわち、イエス様の十字架と復活と天に帰って下さったこと。
そして、もう一度、こんどははっきりと世界の王、主であることを明らかにしながらこの世にお出でになる。すなわち再臨なさる(このことは現在でもまだ起こっていません)ことを含めてイエス様はおっしゃっているわけです。イエス様としては、そういうことを弟子たちに教えてきてくださったはずなのです。

しかし弟子たちは、それを聴いた時点ではその全貌が分からなかったのですね。ですから5節でトマスは正に、
05「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
と質問しました。良い質問ですね!

イエス様はこうお答えになりました。6節。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

それは、何かの教理的な理屈だとか教えと言うことが道なのでありません。イエス様ご自身が父なる神さまのところに行ける救いの道なのだ、イエス様をひたすら信じて歩いていくそのことが、ということが父なる神に至る救いの道なのです。
将来、死んだ後において父なる神の御許にいけるだけではなく、いま、この瞬間瞬間、私たちは聖霊なる神によってイエス様の名によって父なる神に祈っている。それはイエスの救いの道を通っているわけだし。父の元に行くというのは実は、現在形で書いてあるのです。
いまの現実の生活の中で、習慣的に繰り返して絶えず絶えず父なる神のところに行く、そういう生き方ができるのです。「あなた方がそうであるための、私は道であり真理であり、命なのです」と、イエス様は仰っ下さっているのです。
そのことを自覚し、さらに求め、実行して生きたいことと願います。