御言葉は道の光

 詩編119:97~112
新聖歌6/38/285
さて今朝は、詩編の119篇97~120節をお開き致しました。
それでは早速ですが、119:105を一緒にお読みしましょう。
105あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯(ともしび)。
良いみことばですね~。
「あなたのみことば」とは神様のみことばです。ザックリ言うと聖書のみことばです。それが「私の道の光」「私の歩みを照らすともしび」だというのです。
ランプの灯拡大
まだ朝暗いうちに、公園に行って散歩しながら祈ることがあるのです。日が登る前ですから暗いです。星がまたたいています。外灯の光や月灯りが届くところはともかくとして、生い茂った松林の陰などは真っ暗です。
そういう闇にですね、入って行こうとしても、岩があるんじゃないか、穴があって落ちるんじゃないか、蛇がひょっとしているんじゃないか? だけど何も見えないんです。まさに一寸先は闇です。とてもじゃありませんが、そんなところに踏み込んで、入って行くことはできません。
そこで何が必要になるかと言えば光です。
懐中電灯をポケットから取り出してスイッチを入れれば、光がさっと出て、足元を照らします。暗闇に中に何があるかが分かります。だから真っ暗な松林の中でも歩くことができるのです。

神様にお呼びかけして
あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯
と言い、「私の道」とか「私の歩み」と言っているのは、私たちの人生の歩みになぞらえて言っています。
詩編が書かれた昔々はもちろん懐中電灯なんかなかったわけで、道の光とか、歩みを照らす灯火というのは、ランプを手に持っているわけです。

この105節を考えるのに、光とか灯火というものがもし「なかったら」と考えたらどうなるでしょうか?
私の道は闇。私の歩みも闇――。
ということになってしまします。それは光がないということですね。では灯の光って何? 105節で「あなたのみことば」と言われている聖書のみことばです。もしもそれがなかったら、105篇はこういうことになります。

あなたの御言葉がなかったら、
私の道は闇。私の歩みは闇――。

しかし感謝です。わたしたちは聖書のみことばを読むことができます。学ぶことができます。また、みことばに基づいたメッセージを聞くこともできます。
私たちは「私の道の光」「私の歩みを照らす灯火」を持っているのです。今年、そのみことばを有効に活用して歩んで行きたいものです。

では、みことばが私の道の光だ、というその具体的なあり方はどんなものでしょう?
これは人によってさまざまなケースや証しがあると思います。
一ついいことは、毎日聖書を少しずつ、続けて読むことだと思います。
通読表だとか、教会の月間予定表に載っている聖書箇所に従って少しずつ読んでいけばいいのです。
それを習慣的にそれをやっていますと、いま現実の生活で起こっていることに対して、ピッタリのといいますか、語りかけてくださるみことばが与えられるようになります。

私の友人でS君と言う人の場合は、「今日読んだ聖書の箇所」から、この問題について何々の方向からどういう助けが来るはずだ、というレベルで、みことばの語りかけを与えられるのだそうです。実際、S君のひらめきはすごいです。私はうらやましいな~、と思います。

また別のケースで、教会で、礼拝のメッセージを聞いていて、ちょうど自分が思い悩んでいた問題に対して「そうだ!」という答えというか、ひらめきが与えられるという場合もあります。友人で自営業のEさんという方もよくそう言っておられました。「仕事の問題でな、行き詰まっている時に牧師の説教を聞くやろ。そうしたら、こうしたらいい!と分かることがあるんや。それも、問題がある時ほどそうなんや」とおっしゃっていました。それでEさんもクリスチャンになったのでした。
こういう場合、興味深いことは、牧師さんが「これを言おう」というのと全く違うところを通して、神様が語りかけを与えて下さることも多いということです。
私も礼拝の締めくくりの献金のお祈りで、皆さんが祈られるのを聞きながら、「そうか、神様はこの方にこんな素晴らしい語りかけを与えて下さったのか」「心に触れてくださったのか」と心秘かに驚くことがしばしばあるのです。それは、私が、これをこう語らせて頂こう、こう伝えよう、と準備したものをはるかに超えて、聖霊様がそういう驚くべき事を起こしてくださるのです。

ですから、皆さんが礼拝の時など、お互いに、メッセージを語ったり自らの証しを話すことはとても素晴らしいと思います。自分が人生において体験したこと、考えたこと、それは聖書のみことばを聞きながら、読みながら生きてきたクリスチャンのあなたが、祈りながら準備し祈りながら語ることですから聖霊様が用いて下さるのです。聞く人の助けになるのです。ある時は、自分が思いもしないような助けになっているのです。

話があちこちに飛びますが、聖書を毎日習慣的に読むように心がけることを、毎日の食事に例えた人もいました。
聖書を読んだその時に、ピンと来ないことだってあるのです。味気なく感じることさえあるかも知れません。
しかしそれは、毎日食べる家庭料理のようなもので、必ず養いになっているのです。聖書を習慣的に読むということが、知らず知らずのうちに信仰を成長をさせてくれているのです。

また、日々御言葉を読むことは、心に燃料を蓄えるようなものだと表現した人もいます。
その時にすぐに燃え上がらなくても、蓄えられていて必要な時にそれは燃え上がるのです。
みことばを心に蓄えるということではいろんなことがあります。
蓄えてあったみことばの中から、人生のある場面において、一つのみことばを通して神様が豊かに語りかけて下さる、ということもあるのです。

私の父が――もう退職しておりますが――神戸製鋼の技術職の現場にいた時に、大きな責任ある仕事を受けるか受けないか決断を迫られたことがありました。
当時40代だった父は、自分の書斎にこもって、父なる神さまに一生懸命祈ったんですね。
そうすると「みことばが与えられ」ました。

そのみことばは
然れど凡てこれらの事のうちにありても、我らを愛したもう者により、勝ち得て余りあり。

という御言葉でした。ローマ8:37ですね。当時、私も通っていた教会は文語訳聖書を使っていましたから、文語体なんですね。
然れど凡てこれらの事のうちにありても、我らを愛したもう者により、勝ち得て余りあり

それで、父はその責任を引き受ける決断をし、十数年にわたってそれをやりとげました。
そのみことばが与えられた時、「どういう風に」与えられたのか? 聖書を開いた時に文面が目に飛び込んできたのか? その言葉が聞こえたのか? 印象としてひらめいたのか? これまで突っ込んで聞いたことはありません。また会った時に訊いてみたいと思います。

「みことばが与えられる」ということの別のケースですが、私の体験として、実際に耳に聞こえたわけではないのですが、明らかに、心の中で思い浮かんだという以上にはっきりと、脳に音が刻まれるような感じで語りかけられたことが人生で2回だけありました。

一つは、阪神大震災直後です。私も神戸に行きまして、神戸ルーテル神学校を救援基地として、クリスチャンを中心としたボランティア活動が始まり、神学校に何泊か泊まり込みました。その時のことです。
神学校は冬休みの期間だったので、全国から届き始めた救援物資の倉庫になっていた第3教室で、トイレットペーパーを枕にして寝ておりました。すると、旧約聖書の一つの聖書箇所が、「マタイ1:1」みたいに、聖書番地だけはっきりと語りかけられるということがありました。このみことばについては何を指しているのか、未だに解明されません。謎のままです。

そして、もう一つは3年前の夏の初め頃だったと思います。
自宅で、畳の上で薄い布団を敷いて、うとうとしておりました。その時に何の前触れもなく、一つのみ言葉が、耳に聞こえたのではないのですが、しかしきわめて明瞭に、そして何回も何回も繰り返して語られるのを聞きました。
最初、聖書のことば、とは分からず、「え?なに?」と思ったわけです。何と言いますか、漫画なんかで文字が立体になって出てくる表現があるではありませんか。そういう、文字が縦に流れていくような感じで、はっきりと目の前をというか脳内を、言葉が流れていきました。それでその途中に、なるほど!これは聖書の御言葉なんだ、と気付きました。それは、
しかし、私たちは、私たちを愛して下さる方によってこれら全てのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

ローマ信徒の手紙8:37のみことばだったのです。新改訳聖書を長く読んでいましたから、新改訳で出たんですね。その頃は別段、ローマ書の辺りを読んだり考えたりはしていなかったので、前触れのない、たいへんに唐突な出来事だったのです。
そういう体験をして、当時は、「こういう風に語りかけられる。こんなこともあるのだな~」という具合に受けとめておりました。そして、何か分からないけど、とにかく神様が私に励ましを与えて下さってるんだなぁと思いました。
しかし、後になってふり返ってみますと、それから半年経った、2017年の初めに私は入院することになったわけです。
半年後にそんなことになろうとは、夢にも思はなかった出来事でした。

そして、起こってくる「全てのこと」の中にあって、私を愛してくださる方によって、これら全ての中にあっても圧倒的な勝利者になるのだ。そういう脱出の道が備えられているのだ、ということはいつも頭の片隅にありました。
それで試練の中でもがき、祈り続け、求め続けることができたと言えると思います。また今も、何かはっきりしたかたちにはなっていないにしても、「これら全てのことの中にあって圧倒的な勝利者となる」と言えるようになった、なりつつある。そのように導かれていると思います。

しかし私の場合、みことばが超自然的にはっきり来たというのはその2つの経験だけで、多くの場合は、日々聖書を読む中で、ピンと来ると言いますか、「あれ、このみことばはどうも、いまのこの状況に対して神様が語りかけて下さっているんじゃないか?」という風に、御言葉が心に引っかかることがあるのです。そういう風に語りかけられることがあるのです。
みなさんも聖書を読んでいて、心に残るというかひっかかるというか、語りかけられるというようなことがありますか? もしありましたら、それを書き留めて記録に残しておかれると良いと思います。そして、何回もそのみことばを読んで、思い巡らして見るのです。

また、そのみことばをいろいろ調べたり思い巡らしたりすると、「さすが神様のみことば」といういい方も変ですが、はじめは思いもしなかったような深みに達して、感動したり喜んだりするのです。
私の場合は、そこから発展して、こんどの礼拝メッセージはこれを語らせて頂くということなのだな、と言うことになる場合も多かったのです。

また、そういう風に、みことばが与えられる時には、同じことばを何回も、別のかたちで読むとか、見るとかということも多いものです。
私の場合、最近は「主よお語り下さい。僕は聞いております」というⅠサムエル3:9のみことばですね、それを日々の聖書通読で読み、心に留まっていました。
そうしましと、たまたま聞いたメッセージの中で同じみことばが引用されるとか、インターネットでも読むことになるとか、会話の中で相手の口から出てくるとか、そういう経験をするのです。

私はかつて、そういうことをあまり丁寧には考えていなかったのです。偶然、とかたまたま、で片付けることが多かったのです。あえてそのようにしているところがありました。それはもったいないことをしていたなぁと思います。
もっと、「与えられた」御言葉を大切にして、ノートに書いて記録するとか、その御言葉にまつわって起こったエピソードなんかも記録して、そのみことばをもっと何度も読み返して、神様が自分に語りかけて下さっていることは何なのだろうと思い巡らすと、実り豊かであろうと思います。私自身、今年もっと、心がけてみようと思います。

さて、みことばによって語りかけられると言うことのケースのごく一部を上げて考えて見ましたが、もう一つよいことことは、聖書を丁寧に読むということです。
それを実際に行ったのが、聖書に収められた詩編を書いたり、また編纂したり、またそれを使って礼拝をしたり教えをしたりしたユダヤ人たちです。
それはどういうことかと言えば、詩編の詩の多くがバビロン捕囚の後に書かれたり編集されたりしたからです。

ユダヤ人たちは国が破れて、バビロン捕囚で異国に連れ去られるという苦渋を舐めました。その後、故郷の地に帰ることはできたが、大国の植民地のままであり、経済力もプライド叩きつぶされて、それは奪い去られたままです。
自分たちは何ものであるか、何の為にここに、こんなに苦労して生きているのかが分からなくなっていたのです。
そんな中で彼らは聖書に帰ることをしたのです。
そして詩編の詩というものは、その多くが、自分たちが今、通っている苦難の中で聖書を読み、それがどのように自分たちの支えになったか、支えになったかを歌い告白しているのです。
詩編119は、まさにそういう詩です。

さきほど聖書に帰ると申しあげたのは、当時にあっては、すでに書かれたものとして成立していたモーセ5書(すなわち、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)です。

詩編119:97を読みますと、
わたしはあなたの律法を/どれほど愛していることでしょう。
わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。

と記されている、律法というのはモーセ五書を指しています。

このみことばを何度も思い巡らせば思い巡らすほど、これは不思議な言葉だな~、と思います。
モーセ五書って、レビ記とか民数記の中には、まあ何というか無味乾燥に思えたり、こんな細かいことを細々とと退屈に思うようなところが多くあるわけですし、大昔に書かれた文書です。
それを愛している、という表現が私にとっては謎なわけです。
私にはなかなか具体的イメージが湧きませんでした。律法を愛するってどういうこと?と思うわけです。いろいろと思い巡らして見ました。

では、誰かの書いた、長い手紙のような文書があって、私はそれを「愛している」と考えてみたらどうでしょう。そんな、文書を愛するということがあるものでしょうか? それはやはり、その手紙の中身を何回も読まないとそういうことは起こらないだろうな、と思います。
いやいや、その手紙を開く前に、それを書いた人が誰なのか、どんな人なのかを知っていたら、その文書を「愛している」ということになるでしょうか?

しかし、ここで「あなたの律法」といわれている「あなた」というのは天地を作られたまことの神様です。
偶像ではない、まことの神様は目には見えません。
そして、古の時代、モーセは神と顔と顔を合わせて語り合ったといいますが、それ以降、誰も神を見るということはないわけで、どうやってそんな目に見えない神がどんな神かを知るのでしょうか? そして、その神の文書、律法を「どれほど愛している」ということが起こりえるのでしょうか?

それは、その文書が、自分たちに何を語っているのか、正確に知りたい、活き活きと知りたいという願いを持って、つまびらかに、熱心に読んだ結果、そうなったのではないでしょうか。

わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。
という表現が、まさにそのことを示していると思います。
この時代の人々は、自分の家に聖書があったり、一人一冊持っているような恵まれた状況ではありません。
会堂や神殿で、モーセの律法、トーラーが朗読されたり、メロディーを付けて歌われるのを耳をそばだてて聞いたのです。その解き明かしも一言一句、食い入るように聞いたのです。そして大事に記憶に刻んで、生活のなかで何度も思い巡らしたのではないでしょうか。

それはなぜかを繰り返すと、彼らの時代は苦しい時代だったからです。自分が何の為に生きていて、こんな苦労もしないといけないのか? 彼らは祖国を失って、国土も失って、神殿さえ破壊されてしまって、そういう時代の中で、何の為に生きなければならないか。自分たちは一体何者で、何をすべきなのか、どのように生きる使命があるのかをみことばを通して神様から教えられたのです。

それは祈りの営みでもあります。
あなたのみことば
という表現に、それは祈りであるのだと言うことが表れているのではないでしょうか?

97節の表現を、何度も何度も考えて見たのですが、あなた、と二人称で呼ぶ相手がいて、その相手に話しかけている。
わたしはあなたの律法をどれほど愛していることでしょう。
というのはそういう表現ですよね。
それだったら、目の前にいるその「あなた」に、直接口づてで、いろんなことを教えてもらったって良いではありませんか。
そうではなく、書いてまとめられた文書、モーセ五書があって、それを読んで、そして「あなた」と呼ぶ相手に向かって「あなたのこの文書を私はどれほど愛しているでしょう」と申しあげる。それはどんな状況なんだろうか?

それは、聖書の御言葉を読んで、また思い巡らして、神様に向かって祈る、ということでしかありえないと私は思いました。今日の私たちにとってもそういうことです。

もう時間がありませんので詳しくお話しすることはできませんが、そのように聖書を読んだ効果ということが続けて記されています。98節「私は敵よりも知恵ある者になった」。99節「私は師よりも勝った目覚めたものになった」。100節「私は英知を得た者となる」。
そうであれば、敵や困難に囲まれた時代の状況の中で、力強く生きて行けるではありませんか!

最初に読んだみことばに戻ります。
105あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯(ともしび)。

暗闇を照らすということを最初にご一緒に思い巡らしました。
しかし、改めて考えてみるとどうでしょう。

この詩編の読み手にとって、人生の歩みというものは暗闇なんだ、少なくとも自分にとってはそうなんだ、ということを言ってるのではないでしょうか?
暗闇でなければ光も灯も要りません。しかし、それは必要なのです。
手許に灯りがなければ、暗闇の中に立ち止まったまま、先に進むことはできないのです。しかし、感謝です。私たちには聖書のみことばが与えられています。そのみことばを日々読むことによって、また読んだこことを心に留めて日々、祈ることによって、またみことばのメッセージを聞き、また自らもその祈ったり体験したことをお互いに分かち合うことによって、その光を手にしてわたしの道を、私の歩みを照らして頂くことができます。勇気と静かな確信をもって生きていくことができるのです。
お祈り致しましょう。