道の同伴者――三位一体総がかりの救い

ヨハネによる福音書14:6~19、25~27
新聖歌4/303/138
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はや2月も10日となりました。
1月から、「御言葉は道の光」「イエスが道」という題で、聖書のみことばから共に教えられ、思い巡らして参りました。
さて、今回も、「道の同伴者」とつけさせて頂きました。私の名前が三千春(みちはる)であるだけに、道シリーズという感も致します(笑)。

「御言葉は道の光」では、詩篇119:105節辺りを共に読みました。それでは、詩篇119:105、106をもう一度一緒にお読みしてみましょう。
あなたの御言葉は、わたしの道の光。
わたしの歩みを照らす灯(ともしび)。

私たちは、人生の暗闇の中においても、神様の御言葉、聖書の御言葉に照らされて人生の歩みを一歩一歩歩いて行けると言うことですね。

すごい信仰の言葉です。御言葉への信頼の言葉です。この神の御言葉への信仰の確信の言葉を、こんな詩に歌ったのは、一度は、失敗や挫折を味わった人々でした。しかもまことの神様を信じていて、神様の約束を頂いていながら失敗した人々です。
だからこそ、この祈りの言葉を、心底から、祈りの言葉として告白することができるようになったのです。
それはイスラエル民族です。
長い歴史の中で何回も彼らは失敗しています。
彼らは何度も何度も神様のみこころに美事に従い損ねたのです。

ユダヤ民族は、その父祖、アブラハムが神と約束を交わし、その神さま――それは全地全能の創造主なる、まことの神さまです――のお言いつけを守って生きる民族となりました。
モーセによる出エジプトの時は、たくさんの奇跡をも目の当たりにして、超自然的な守りと導きの中でエジプトから旅立ち、約束の地に向かったのでした。
神様は今日では考えられないような、目に見えるかたちでイスラエルの民を奇跡的に助けて下さいました。
エジプトの軍隊が追いかけて来ました。世界最強の軍隊です。一方イスラエルの民は、昨日まで奴隷だった烏合の衆です。どれほどの恐怖だったでしょうか。
そしてイスラエルの民は追い詰められました。紅海です。前は海で進むことができません。老人や赤ん坊もいるのです。泳いで渡るわけにもいきません。後ろからはエジプトの精鋭部隊が、哀れな奴隷民族を再びつかまえようと、馬に乗って迫ってきます。絶体絶命のピンチです。

その時、イスラエルの民は、「なぜ我々をエジプトから連れ出したのか」と、神とモーセを罵りました。
しかしモーセは、
「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いをみなさい」(出エ14:13)
と告げ、神に命じられたとおり
杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べ(出エ14:16)
たのです。すると、
主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。
すなわち海の水は
右と左に壁のようになった
のですね。続けて出エジプト記のその部分をお読みしますからお聞き下さいね。
02014022イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。
02014023エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。
02014024朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。
02014025戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」
02014026主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」
02014027モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。
02014028水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。

そのような決定的な助けを神はイスラエルの人々の目の前で見せ、体験させて下さいました。また、マナを天から降らせて毎日食べるものに困らないようにさえして下さったのです。
神は様々な助けを送り整え、律法もお与え下さり、準備もできたところで、エジプト脱出の2年目にいよいよ約束の地に入る寸前まで行きました。

ところがこの時、神が約束の地に入れと言って下さっているのにイスラエルの民は「私たちは入れない」「入らない」と言ってしまった。それどころか、
「03どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。」
04014004そして、互いに言い合った。「さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう。」

とまで言ったのですね。
結局、彼らは約束の地に入ることができず、40年後に自分たちが死に絶えた後、子供の世代になってようやく約束の地に入れたのでした。40年ですよ! 苦労して、祈って、やっと出エジプトして40年間を棒に振った。荒野の40年になってしまった。

イスラエルの民は大きな失敗をしたのです。痛い目に遭ったのです。そのようにして学ぶべきことを学び、ようやく勝ち取った約束の地入りであったのです。
実は聖書のこの辺を読むと私は、自分自身のこととして心が痛むところがあるのです。荒野の40年がどんなにダメだったか、切々と書いてあるところを読むとですね。
自分も、若い時からクリスチャンだ。一応、クリスチャンとして一生懸命やって来たつもりだった。けれど、後から思えばいろいろな判断の間違いや怠慢や失敗があった。何をやってきたのだろうか、と思うわけです。

けれども、この聖書に書いてあるイスラエルの民ほどはひどくないよと、自らを慰めるわけです、あ、これは冗談ですね。
冗談はさておき、やはり、聖書を真剣に新たに読めば、クリスチャンで良かったな、クリスチャンになってよかったなとつくづく思うことも本当です。

なぜなら聖書は本当だからです。
たいへん厳しいことについて本当のことが書かれてあるとすれば、その書かれている救いのこと、赦しのことも、本当の事が書かれているからです。

さてイスラエルの民は、あれだけ荒野の40年で痛い目に遭ったのに、約束の地に入ってからも、神に逆らうことの多い歴史でした。もしも、神を信じて生きなければ、周辺諸国から攻撃され、約束の地から追い出されてしまうよと前もって警告を受けていたのに、神様を無視し続けているありさまだったのです。
神様は何度も預言者を送り、神様に立ち返るように警告を与えましたが、聞き入れず、かえって預言者の方がひどい目に遭わせられる状況でした。
そしてついに、決定的な裁きの時は来てしまいました。北イスラエルは約束の地に入って500年後にアッシリアによって滅ぼされ、10部族は失われた10部族となって世界に散らされてしまいます。そこからさらに150年の猶予があって後、南のユダ王国もバビロン捕囚の憂き目に遭います。

まことの神を知っているというのに、大失敗な民族です。なんと愚かな民族でしょうか。しかし、神様の憐れみは大きかった。南ユダ王国の人々はまだ生きている間に、ペルシャ王国の寛大な政策によって約束の地に帰ることができました。
しかし、そこは、家も畑も城壁も壊され、焼き尽くされ、そして、あの壮麗な、民族の誇り、心の拠り所であったソロモンの神殿も破壊し尽くされていたのです。

彼らは茫然自失でした。故郷の地、約束の地の場所には帰った。しかしそこは焼け野原です。もう経済力はない。名誉ある社会的地位もない。拠り所となるものが何もない。
そうなのでしょうか?
いいえ。神様ご自身がいらっしゃるのです。天地を創造された、全地全能のまことの神は、アブラハムの子孫に向かって「インマヌエル」私はあなたと共にいるよ、と招き続けて下さっているお方です。
そうであったとしても、もう落ちぶれてしまって、力も失ってしまって、何の影響力も無くしてしまってから神様に気がづいてもしょうがないではないか? そうではない。それこそが神の恵みであり、憐れみであり、神様の御旨の大きさです。

信じている人たちが大したものだからその神は大したものだ――。そういう発想を神様は超えていらっしゃいます。
自分が選んだ人たちがどんなにどうしようもない人たちであっても、最後まで見捨てない。インマヌエルだよ、と招き続けていて下さることに、私も昨今ますます目が開かれ、深い感謝や感動を覚えさせられているところです。

イスラエルの民は、取り返しの効かない失敗を通して、しかしだから、神様を真剣に求めた。
そして、その神がすでに、与えて下さっていた「みことば」=聖書に立ち返ることができたのです。
それは、これから、自分たちが、人間として気力をもって生きて行けるように。生きる目的を見出せるように。希望を見て行けるうに。だから真剣に御言葉を求め、向き合う者となったのです。私もその気持ちが非常に分かります。

そのような御言葉への取り組む積み重ねの中から、真珠のように生み出されてきた告白がこの告白でした。
あなたの御言葉は、わたしの道の光。
わたしの歩みを照らす灯(ともしび)。

そしてイエス様はおっしゃいました(前回のメッセージ)。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:6)
それは、前回一緒にお読みしたヨハネ14:6ですね。
イエス様は、ご自身が道であり、その道を通らなければ、父なる神さまのところに行けないよと言った。
その父というのは、旧約聖書に記された、アブラハムを選び契約を交わした、今まで話題に出ました創造主であり全地全能の神です。畏るべき厳格な神です。
しかしイエス様は、私という道を通れば、血筋としてアブラハムの子孫でなくても、いや、どんな人間でも、必ず父なる神のところに行けるよ!インマヌエル、神様が私たちと共におられるという人生に至るよ、と断言して下さいました。

それはイエス様御自らが十字架に掛かって、私たち全人類の罪の身代わりになって下さったからです。イエス様ご自身が、
たとえ全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら何の得がありましょう(マタイ16:26新改訳)
とおっしゃった、その通りに、何ものにも屈することなく、神様だけを畏れて、完全な人としてイエスは生ききって下さいました。
だから恨まれ、妬まれ、憎まれて十字架に掛けられることになってもしまいました。
しかし、それは元々神様には分かっていたことであり、そうなるために、神の子であるイエス様が受肉して、マリアのお腹から人として生まれて下さったのです。

イエス様は十字架の上で
父よ彼らをおゆるし下さい。(彼らは)自分が何をしているか知らないのです(ルカ23:34)
と祈って下さいました。
まさにそのように、イエス様は私たち人類のために、その抜き差しならない罪のために身代わりとなって死んで下さいました。ですから、イエス様、ありがとうございます!と感謝し、私の罪を赦して下さる救い主だと信じれば、あなたの心に入って下さり、トランスフォーム、作り替えていってくださるのです。

旧約聖書は、そういう救い主がお出でになるよ。誰でもその救い主によって救われることができるようになるよ、という約束を、その道を、長い長い長い歴史の事実を通して記して下さっていたわけです。そうであることを、道であるイエス様ご自身が解き明かして下さったのです。

さて、いまイエス様を救い主として信じるならイエス様はあなたの心に入って下さる、と申しあげました。それは正確にいうと、聖霊なる神さまが、イエスの御霊として入って下さるのですね。
聖霊様とイエス様は別のお方であるにも関わらず、そのご目的、願いが一緒でいらっしゃって、絶えずコミュニケーションしておられますから、聖霊が私に語って下さるということは、イコール、イエス様が語って下さっていることなのですね。さらにそれは、父なる神さまが語って下さった、ということなのです。
そのことを短い言葉でいえば「三位一体」といいます。
父なる神、子なる神、聖霊なる神は、別々の3つの神、三神論なのではなく、唯一の神でいらっしゃるということです。

聖書そのものの中に三位一体という用語はありませんが、そうであるということなのだ、としか言いようがないことが、キリスト教の歴史の中で明らかにされてきたわけです。そして私たちは、そのことを大事な信仰の骨格の一つとして信じ、使徒信条などでも告白してクリスチャンとして生きています。
その教会史の中で明らかにされたことや、また三位一体とは何かなどについて、また学ぶ機会があれば良いですが、
それは聖書を通して、旧新約聖書に書いてあることを正確に読む中で、三位一体が明確にされていったのです。

今朝お読みした、ヨハネによる福音書全体として、またお読みした箇所は、内容的に三位一体の本当を、非常に豊かに、イエス様がおっしゃっています。
それは、教理の理屈を言っているのではなく、父、御子、聖霊なる神の、こころを通わせ合い尊重し合う命の関係として、愛し合い信じ合い生かし合う豊かな関係であられることの事実、「ご自分が知っていること」をイエス様は言っているのです。
短く言えば、三位一体なる神は、天地をお造りになる前から三位一体であられ、父、子、聖霊が愛し合い、助け合う関係のなかにおられた。そのこと自体が本質であられた。その神の似姿に似せて、私たち人類、人間の方が作られたのだ。
そういうことをイエス様はまさに、罪人になってしまっている人間には到底考えつかない本当の事を、啓示、ありのままに述べて下さったのです。

新約聖書のどの書もそうですが、ヨハネによる文書は特に、ういうことを明確に、しかし、イエス様がありのままに言って下されば人間の限りある理性には収まりきらないことだから、「ますます分からない」という、その感覚をそのままに記してくれているように感じます。
それは、ヨハネは長生きしましたから、長い信仰生活の中でいろんな体験をして、初代教会のいろんなクリスチャンの間で起こるさまざまな出来事を見ながら、その時々に、イエス様のお名前によって聖霊様によって父なる神にお祈りし、それはすなわち、神様に疑問もぶつけて率直にお話し、そしてお答えを頂いていく信仰の営みの中で、「ああ、地上にいらっしゃる時にイエス様が言っていたのはこういうことだったのだ」とより深く分かった。そういう人生経験を積ませられた後で、ヨハネは福音書や手紙を書いたのではないでしょうか?

さて、今朝の箇所をお読みします。日本語の聖書で、――新共同訳でも新改訳でも――読んでいて、モヤがかかったようで私は分かりにくかったのです。そこで英語の聖書で読んでみました。そうしたらよく分かりました。
「人間には理解しがたいがイエス様は何をおっしゃっているか」ということがクリアーに分かりました。New international Versionという訳です。日本語では新改訳聖書に当たる、こちらも半分くらいの教会で公の訳として採用されているものです。

それを日本語に直してみました。それは、また英語の字幕がその会話の雰囲気を伝えるように、しかし、字幕がかなり大幅な意訳をしているのと違って、極力正確に、英語の聖書で訳されていることを生かしながら直してみました。

お手元にプリントアウトしてお届けします。
(配布)
ではお読みします。
聖おにいさん2 4倍
ヨハネの福音書14:6~19、25~29a
6 イエス様は答えた。
「私が道で、真理(ほんとう)で、命だよ。
私を通してでないと誰もお父さんのところには行かないよ。
7 君たちがほんとうに私を知ってたら、私の父のことも知ってたはずなんだが……。今からはさ、君たちは父を知ってるんだし、父を見たんだよ。
8 フィリップが言った。
「主よ。私たちに父を見せて下さい。そうしたら十分ですから」
9 イエス様は答えた。
「君たちは私を知らないの? フィリップ。
こんなに長い間、君たちの間にいたのにさ。
誰でもさ、私を見たってことは父を見たんだよ。それなのに何で君たちは「父を見せてくれ」なんて言えるのかね?
10 君たちは私が父の中に“いる”って信じないの? 父が私の中にいると信じないの? 
私が君たちに言った言葉って、私だけのものじゃないよ。むしろ、それは父なんだ。私の中に住んでおられる、ご自分の仕事をなさっているのは。
11 私が『私は父の中にいる。父は私の中にいる』と言った時、私を信じなさいよ。
それとも少なくとも、起こった奇跡そのものは信じるべきだ。
12 私は本当のことを言おう。私を信じてる者は私がしてきたことをするのさ。(いや)私がしてきた以上に偉大なことをする。それは……私が父のところに行くからだ……。
13 どんなことであっても私はするだろう。私の名前によって君たちが求めることを。そのことで子は父に栄光をもたらすのだ。
14 君たちが私の名によって何かを求めるなら、私はそれをするだろう。

15 もし君たちが私を愛するなら、君たちは私が命じたことをするだろうさ。
16 そして私は父にお願いする。そして父は君たちにもう一人のパラクレートス(助け主、弁護者)を、君たちに与えるだろう。君たちとずっと一緒にいるように。17 ――真理の御霊だ。
「世」(よ)は彼を受け付けない。なぜなら「世」は彼を見もしていないし知ってもいないからね。
しかし君たちは彼を知っている。それは彼が、君たちと一緒に生きているのだし、(これから)君たちの中にいるようになるからだ。
18 私は君たちを離れて孤児のようにはしないよ。私は君たちのところに戻って来るのさ。
19 間もなく、「世」は私をどこに見なくなくなるだろう。しかし君たちは私を見るだろう。なぜなら、私が生きて、君たちも生きることになるからだ。

……25 これらは全て、君たちと一緒にいる間に私が言ってきたことだ。
26 けれども、パラクレートス、聖霊を、父が私の名によって送り、彼は全てのことを君たちに教え、私が君たちに言った全てのことを思い出させるだろう。
27 平和を、君たちに遺していく。私が与える平和だ。私は君たちに「世」与えるようなものは与えないよ。
君たちは心を騒がせられるな。そして、恐れるな。
28 君たちは私が言ったのを聞いた。「私は去っていく。そして君たちのところに戻ってくる」と。
もし君たちが私を愛するなら、君たちは、私が父のところに行くから嬉しいはずなんだ。父は私より偉大だからだ……。
29 私はことが起こる前に君たちに言ったんだよ……。

もう解説する時間はありません。
私たちは、三位一体なる神からいのちと存在と交わりを与えられて、人間としてこの世に生きている。私たちの立場から言えば、生んで欲しいと頼んだわけでもないのにです。
しかし三位一体の神様ご自身が、愛に生きておられる方だ。そして、人間を作って下さったのは、その愛に共にあずからせたいとお思いになってなのです。そういう理由で、構想でお作り下さったのです。
でも人類はアダムとイブ以来、神を常に疑う罪人となってしまった。しかし神の方が、御子がまことの人となって、人としての生涯を全うし十字架で身代わりになって、信じる者の罪を赦し、そのこころを聖霊が変えて下さる道を神の方が備えて下さった。三位一体なる神の愛に加えられて生きる者に変えて下さった。
すなわち、三位一体なる神さまご自身が、私たちの歩むべき道を備えて下さったお方であり、私たちの人間としての歩みの同伴者、インマヌエルでいて下さるお方なのです。