真実な求道者ニコデモ(礼拝での解き明かし)

真実な求道者ニコデモ
ヨハネ2:23~3:16

***火曜(2/1夜)に、同じ原稿で家庭集会にて話したものです。聖書朗読の部分は電波が途切れて音とびしている部分がありますが、メッセージの部分は「電波途切れ」の間、待って、次を話しましたので、内容的に抜けなく聞いて頂けます***
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S聖書教会の皆様、おはようございます。そして、多くの方にとって、はじめまして。
この初めてのお出会いが、リモートという形を余儀なくされたことは残念ですが、却ってこのことを、主がより良いことに用いて下さいますようにという祈りの中でお話をさせて頂いております。

私は名前は三浦三千春と申します。
学生時代、Oさんご夫妻や、またS宣教師と、KGKでご一緒させて頂いたことがあり、その点での再会も楽しみに致しておりました。

S先生とご一緒に学生時代、KGKの全国集会があって、そのために関西KGKの企画として『ああ、世界宣教!!』という冊子を手作りで作ったことがありました。懐かしい想い出です。その頃から、世界宣教に重荷をお持ちだったのだなぁと思い起こすところです。

私の方は、大学卒業後、いのちのことば社の一部門であるクリスチャン新聞に長く勤めました。目に見えない大きな、主の御身体である教会のお働きを、超教派の報道、文書伝道を通して共に担わせて頂いたことを感謝致しております。

自己紹介はこのくらいにして本題に入って行きたいと思います。

「真実な求道者ニコデモ」という題をつけさせて頂きました。
求道というと、まだイエス様を一回も信じたことのない人がイエス様を求めて行く、という風に受け止められることが多い言葉かもしれません。

しかし、良い意味で、「生涯求道者」あるいは「永遠の求道者」というような言い方をする場合があり、私は結構、そういう考え方が好きな方です。

私と同じ教会で、いろんな話――多くは雑談であるわけですが――をさまざまにして、長くお付き合いしたある男性の方が、「自分は死ぬ間際まで洗礼を受けない」とおっしゃっていました。
しかし、どういうわけだか数年前、洗礼をお受けになりました。その理由をお訊きして――長くなるのでその内容に深く入りませんが――、「真理を求め、神を求めて生きている自分が洗礼を受けることの方がよりふさわしいと思うに至った」という意味のことをおっしゃっていました。
イエス様が救い主であることを公に信仰告白して洗礼をお受けになったことはいうまでもありません。正に「生涯求道者」「永遠の求道者」でいらっしゃる方の洗礼であったというわけです。

さて、今朝お読み頂いた箇所に出てくるニコデモという人は、当時のユダヤ人社会の宗教的、また政治的リーダー層であるパリサイびとの一人でした。

夜になってイエス様を訪ねてきたのは、彼の現実主義的な手堅い、そして誠実な姿勢だと思います。

福音書を読み進めて行けばわかりますように、パリサイ派の人々の間にあってはこの後、イエスという人物を排除、排撃するという方向に大きく進んでいきます。

ヨハネの福音書3章までの段階ではまだ「こと」はそこまで進んでいません。
2章の始めに、カナの婚礼、水を葡萄酒にお変えになる、そういう「しるし」を行われたことが記され、その後、エルサレムにイエス様は入られて「宮清め」をなさいました。

そんなことをする権限をイエスとかいうお方よ、あなたは持っているのですか? 何を根拠にそんなことをするのですか、と詰問する人々がいました。
2章18節で「ユダヤ人」と記されている人々は当時の神殿の権威筋の人々であるとティンダル聖書講解は解説してくれています。

パリサイびとたちもその権威筋に入っているわけです。
「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか」と彼らはイエスに言ったわけですが、2章23節を見ると「過越の祭の祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見てその名を信じた」とありますから、イエス様は実際、エルサレムにおいてもしるしを行われたわけですね。
そのしるしとは、英語のニューインターナショナルバージョンではミラキュラスサイン、奇跡的なしるし、奇跡のしるしと訳されておりますが、2章の前半でイエス様は水を葡萄酒に変えられた。そのような奇跡的なことをも含めたしるしを、エルサレムでも行われたわけですね。

さっき、「多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた」と記されていることを確認したわけですが、その続きを見ますとイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかったと記されています。

これはどういうことかといいますと、「ご自分をお任せになる」ということをイエス様が仮になさったとすると、それは、「良きに計らえ」という姿勢で人々に接したということになります。

福音書の他の箇所に、民衆がイエスを世俗的な王様に祭り上げようとした、という箇所がありますね。水をワインに変えられるなんて大変な経済効果です。そういう力を利用して何かをたくらもう、それがためにイエスの名を信じるというような人がたくさんいたわけでありましょう。

さらにたたみ込むように25節に、イエスが「人についての誰の証言も必要とされなかったからである」と記されています。
これは、誰かについて「この人はね、イエス様、これこれこういう人なんですよ」という説明をしてもらう必要がなかった。「人のうちに何があるかを知っておられた」。すなわち、その人、その人のホンネを見抜くそういう能力をイエス様がお持ちであったことを記しているわけです(1章48節ナタナエル)

さて、そのイエス様が人のありのままを見抜くということが記された直後のニコデモの登場です。
聖書が最初に書かれた当時は、何章何節という風に区切られていませんでした。ですから、章が変わったということを意識しないで、イエス様が人を見抜くことが記されているのに続けて読むと、イエス様がいかに高くニコデモのことを買っていたかが分かる気がします。3章1節の「さて」という言葉も「それで」くらいに訳して良いことばなのです。
イエス様って、人の実質、本当のところを見抜く方なんだよね。それで、ニコデモという人がいたというわけです。

さて、夜――これは日暮れから夜明けまでの間の時間を指す言葉です――夜になってイエス様の所にやってきたニコデモが言った言葉ですね。2節です。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」。この知っていますは実は完了形で書かれています。イエス様がエルサレムでしるしを行われたり、語られたりすることを何回もチェックした、それで、ニコデモたちにとって、そういう結論が確定しているのだ、ということを表明しているわけです。

神が共におられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、誰も行うことができません。

それに対するイエス様のお答えは単刀直入でした。
「まことに、まことにあなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。
福音書の他の箇所(マルコ10:17)でイエス様は、ご自分に向かって「良い先生」と呼びかけた人に向かって、「なぜ私を『良い』と言うのか。良いお方は神おひとりのほか誰もいません」といった塩対応をなさっています。

しかし、ニコデモに対しては、彼が一番知りたい、それを掴みたい、と心底思っているはずのことを教えてあげたい、と願われたのです。
イエスは答えられた「まことに、まことに、あなたに言います。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」

これは直訳的に言えば、「神の国を見る力がない」ということです。

神の国とは何か。私はこれまで聖書を読んできて、信仰生活を生きてきて、神の国というのは今私たちが生きているこの世界、現実に、レイヤーのようにすっぽりかぶさっているものと表現できると思います。イエス様がおっしゃるように、この現実の生活の困難もあるなかで私たちが父なる神に祈る。イエス様のお名前によって祈る。そうすると物事が動いていき、私たち自身も変貌させられていく。また、2,3人がともに集まって祈るとき、そこにイエス様も共にいて下さる。
正に「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)。

世の中の目を覆うような酷い現実。イエス様が地上を歩まれた時代もそうでした。初代教会においてもそうです。しかし、その現実の世界にすっぽりと重なったレイヤーのように神の国は今、ここにあります。そして、その神の国こそ、永遠に継続するものなのだし、私たちは、そこに永遠に生きる特権を与えられているのです。

イエス様がニコデモにおっしゃったことを確認しましょう。
人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。
人というものは新しく生まれるということがないと、神の国を見る力がないのです。

この新しく、という言葉は「元の状態に戻ること」「あるべき姿に完全に変化すること」そういった意味を中核に持つ言葉です(Louw, J. P., & Nida, E. A. (1996). Greek-English lexicon of the New Testament: based on semantic domains)。もう一度、新たに、などと訳せる言葉です。

ニコデモは「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか」と答えました。ここでニコデモが「もう一度」と言ってるのはイエス様が「新しく」と言っているのと違う言葉が使われているのです。ニコデモが言った方の「もう一度」は「2度目に」という意味の言葉です。

「もう一回、2度目に自分のお母さんのお腹に入って生まれることなんてできるのでしょうか」というのは、まことにとぼけた言葉のようにも感じます。

ニコデモは、「本当にこの方は神からの教師だ」と思っているイエス様のおっしゃる言葉の真意を掴みたい。生半可にイエス様の言葉を受け流してしまうのでなく、おっしゃっていることの意味を明確に、はっきりとつかみたいのです。それが、こういうニコデモの受け答えになったと思われてなりません。「新しく生まれるって肉体的にお母さんのお腹の中に入ってもう一度生まれるそういう意味ではないですよね」と念押ししたわけです。

イエス様のお答えは「人は、水と御霊によって生まれなければ神の国に入ることはできません」。
「水と御霊」というのは何を指すのか、さまざまな議論があるようです。しかしヨハネの福音書に記されている文脈から見て、御霊=聖霊によって生まれる、ということをしっかり掴んでいれば間違いないことと思います。肉体的に此の世に誕生した人でないと御霊によって生まれることもできないというのはごく当たり前のことですね。また、バプテスマのヨハネが施していた水のバプテスマを当然思い起こしますし、あるいは初代教会の時点では、イエス様を救い主と信じる告白をし、祈りと学びを重ねた人が洗礼式を受けた時に、霊的な実体のある出来事が起こるというリアリティがあったようです。今でもそういう証しをお持ちの方はたくさんいらっしゃいます。しかし初代教会から時代が進んで、キリスト教が国教になって、洗礼というものが形骸化していったわけなのですけれども。
いずれにせよ、文脈的に見て、聖霊によって、ということをびしっと押さえれば結構なのだと思います。

イエス様は7節でこうおっしゃっています。
「あなた方は新しく生まれなければならないと私が言ったことを不思議に思ってはなりません。
風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来て何処へ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」

風というものは、それ自身が「そこへ行きたい」と思うように吹くもんだ。あんたはその風の音を聞く、そういうもんだ。しかしあんたは、風がどこから来るもんで、どこへと行くか知らない。それは確かだろ?というわけです。

御霊によって生まれた者は、みんな、それと同じことだというのです。

御霊によって生まれるとはどういうことでしょう?
ニコデモの質問によって明らかになったように、文字通り物理的に母親のお腹から出てくることではありません。
しかし「生まれる」ということばで言うのがぴったりであるような、聖霊のお働きによる霊的な実体がある、現実があるということをイエス様はおっしゃっているのです。

非常にあたまが優秀な方、また聖書を読むのに語学がものすごく達者で元のギリシャ語で細かく読める。そういう方でも、この聖書の箇所を読んで「分からない」ということは十分あり得ると思います。

しかし逆に、日本語の聖書を読むだけで、また、自分はそんなに頭が優秀なわけじゃないよといっても、いや逆に、そういう場合の方が、イエス様が「人は新しく生まれなければ」とか「神の国を見る」とかおっしゃったのを、「そうそうそうだよね」と分かることができます。それは体験的に知っている、そういう知り方、分かり方です。

そういう風に分からせて下さっていることこそ聖霊様のお働きです。
「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはでき」ないのです(Ⅰコリント12:3)。

三浦なる人が小難しいことを言っているけれど、そんな風に言わなくたって、「人は新しく生まれなければ神の国を見ることができない」なんて当然のことだよね、と思っている方がおられるなら、正にそれは聖霊のお働きによって、イエス様が救い主だ、そのことを信じて自分は救われているのだ、という事実を知らされているのです。

しかし、厳しい社会の現実の中で、なかなか神の国が見えにくくなっている。あるいは永遠のいのちを与えられているのだから、そのことで喜び踊ることができるはずだと知っていても、なんだかそれが遠いことのように思える。

そういう信仰生活の実態もあり得ると、私は自分自身の体験を通して思います。それは、神の国のただなかにいるはずなのに、神の国が見えにくくなっている、そういうことなのかもしれません。

聖書には「目が開かれる」「霊の目が開かれる」ということがしばしば大事に記されていますが、私たちは何度も目が開かれればいいのではないでしょうか?

新しく「生まれる」としか表現しようのない魂の出来事の実体があることをイエス様はニコデモに明らかにされました。
そして、ご自分がこれから掛けられることになる十字架についてニコデモに明らかにされます。13,14節ですね。今日は時間がありませんのでそこには深く入っていきませんが、イエス様は十字架にぶら下げられて衆人環視の中で十字架の上にさらされて殺されるのだ。それが必然なのだよ、とこの時点でイエス様はニコデモに前もって言ったのでした。

さて、ニコデモはイエスの言ったことを理解したのでしょうか?
新しく生まれるということを体験できたのでしょうか?

最後に、ヨハネの福音書にあと二回出てくるニコデモの姿を確認して、そのことを思い巡らしてみたいと思います。ニコデモはヨハネの福音書に3回登場する以外、聖書のどこにも登場いたしません。

しかし、このニコデモが夜に訪ねてやってきた、という話を、マタイもマルコもルカもそれを書けるほどには知らなかったこの出来事をここまで詳細に文章にすることができたのは、ニコデモの生々しいイエスの目撃体験をヨハネの福音書の著者が聞くことができたからに他なりません。(リチャード・ボウカム『イエスとその目撃者たち』新教出版社 参照)。

ヨハネの福音書自体にニコデモの出来事が記されていること自体、ニコデモがペンテコステの後、イエス様の弟子として歩んだことを証ししているわけです。

ニコデモが次に登場するのはヨハネ7:50です。

これはもう、パリサイびとたちが、イエスという男はなき者にしよう。そうでないと宗主国ローマ帝国につけいられて、私たちは滅びてしまうかもしれない、というところまで話がまとまってきてしまっている中での発言です。
7:50です。
ニコデモは彼らにいった「私たちの律法はまず本人から話を聞き,その人が何をしているのかを知った上でなければ裁くことをしないのではないか」
これは大変に勇気のある発言です。少数意見です。しかし、夜にイエス様を自分で訪ねたニコデモは、そのように言わざるを得ない。私たちユダヤ人が、イエスのことを邪魔者、取り去るべき男などと思うのはとんでもないことだ! 皆さんも直接イエスと対話して確認しなさいよ、とはっきり表明したのです。

そして、3度目の登場は悲しい場面です。
ヨハネ19:38からです。
十字架にかけられて殺されてしまったイエス様のご遺体を、丁重に葬ったのです。
38~42一緒によむ

この時に、ニコデモは、かつてイエス様を夜、お訪ねした、イエス様と交わした会話をまざまざと思い起こしていたのではないでしょうか。

しかし「こんなに期待を掛けていた方が殺されてしまった」「お助けすることができなかった」そういう思いであったかもしれません。

イエス様はご自分が復活するということを何度も何度も表明しておられました。早くもヨハネ2:19で、そのことを述べておられました。
しかし、イエス様の十字架の死という現実を前に、イエスが復活のことをおっしゃったなどすっかり忘れてしまっている弟子たち。
復活されたイエス様が弟子たちの前にお現れになって、それを見ても、イエス様のおっしゃっていた復活が分からない。そして父なる神のもとにお帰りになるんだとおっしゃっていたことを思い出しも理解もできなかった弟子たち。正に霊の目がふさがれた状態だったのです。

ニコデモも、その弟子たちの中にいたのではないでしょうか?
そして、あの二階座敷で120人ほどの弟子たち(使徒1:15)が、イエス様に命じられた通り五旬節の日に至るまで共に祈った。その中にニコデモの姿があったと考えることは自然なことなのではないでしょうか? むしろそうでないと、ニコデモの証言自体がヨハネの福音書に載っていることはあり得ないのです。

そして私たちも21世紀の日本にあって、2000年の時空を越えて、イエス様とニコデモの対話を聞くことができました。
私たちも絶えず絶えず「人は新しく生まれなければ神の国を見ることができない」とイエス様から言われています。
まだイエス様を信じたことがないという方は、さらにニコデモのように求道なさって、新しく生まれることを体験なさってください。すでに信仰生活に歩んでおられる皆さんも、「新しく生まれる」としか例えようのない実体的な出来事があることをイエス様が語って下さっていることを受け止めて、神の国を見、その中にどんどん入って行けるように、歩んでいけるように、さらに私の霊の目が、心の目が開かれますようにと祈り求めながら歩んで参りましょう。

祈り

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解き明かし「要旨」

真実な求道者ニコデモ
ヨハネ2:23~3:16
ニコデモの名前は、ヨハネの福音書に3回登場します。他の福音書には登場しません。
「人を見抜く」方であるイエス様はニコデモの純粋な、真理を求める心を見抜かれたようです。
同時にニコデモは現実主義者であり、自分の立場(ユダヤ民族のリーダー)への真の責任感もありました。
だからこそ、イエスが何者であるか、自分で確認したかったのではないでしょうか。
イエス様は「イスラエルの教師である」ならば当然分かるべきこととして、「新しく生まれる」ことが必要だとニコデモに単刀直入に知らせました。
ニコデモはこのことを理解したのでしょうか?
ニコデモはこの後、パリサイ派の会議の中でイエスを擁護し(7:50)、イエス様が亡くなった後、丁重な葬りをし、墓に納めました(19:39)。
十字架を目の当たりにして、彼はどう思ったでしょうか? 「期待した人物だったのに…」「お助けできなかった…」と思ったかもしれません。
しかし復活されたイエスに出会い、二階座敷の祈りにニコデモが加わっていなかったと誰が言えましょうか?
リチャード・ボウカムという今日の聖書学者が『イエスとその目撃者たち』(新教出版社)を出し、世界的に大きな影響を与えています。関西学院大学神学部が、この本の翻訳者を教授として招聘したほどです。
その内容は近代の一世を風靡した様式史批判聖書学のナンセンスさを徹底的に、学術的に明らかにしています。一言で言えば、「史的イエスと信仰のイエスは全くの別物である」(遠藤周作はそんな聖書観に立って作品を書いたわけです)という説を真っ向から論駁したのです。
6年前関学神学部が主催し、ボウカムが来日しての講演会で、神学部長が「例えて言えば、様式史批判によって聖書という〝時計〟はばらばらにされ動かなくなった。ボウカムの学問的業績により時計は再び動き出した」との旨を述べていました。
ボウカムらの研究によると、福音書に名前が出てくる人物は、地上を歩まれたイエス様の体験・目撃者であり、なおかつ、その福音書がリリースされた時点で、初代教会信仰共同体において名を知られ信用され、信仰生活において影響を与えていた人物です。正にニコデモはそのような人物であったことが窺い知れます(ヨハネ3:21)。
私事ながら、KGKでの交わりを頂いた方々のおられる教会に説教に招いて頂いて懐かしく嬉しく存じています。