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謙遜なイエス様


フィリピの信徒への手紙2:1~11
新聖歌2/102/230

謙遜なイエス様と題をつけさせて頂きました。では逆に「傲慢なイエス様」って考えることができるでしょうか? 考えることができないですね。
謙遜ということを日本人は古来、良く知っていると思います。今朝お読み頂いた中から、フィリピ信徒への手紙2:3をみますと、
へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え
なさいと記されています。

足を洗うイエス
イエス様がお話しされた中にこんなのがありました。ルカによる福音書14:7~10です。
42014008「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、
42014009あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
42014010招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。

何かの席に招かれた時に、自分で勝手に、どかどかと上座に座る。そういうことは日本では通常、あり得ません。そういう時は、まず下座に座ろうとするものである。そういう謙遜な立ち振る舞いは、日本人にとっては常識的なものでしょう。そんなことは教えられなくても当たり前のことでしょう。
「謙遜は美徳」という言葉さえあるほどです。

しかし、自分の心の内側を観察してみたらどうでしょう。
ある席に出て、黙って周囲を見渡して、内心ですね、「ああ、自分はこの辺の席に案内してもらえるはずだ」と思っていたら、もっと末席に座らされてしまった――。なんてことがあれば、表面はニコニコしていても内心はムッとしているなんてことがあるかもしれません。「何で、私の席はもっと上席じゃないんですか?!」なんて口に出して言えませんものね(笑

「そういうこと」が重なったりすると、外に向かっておおっぴらに文句を言えない分、余計に、心の中に溜まるものがあるかもしれないと、私の場合は思います。
そういう溜まった感情が、自分でも押さえがたく外に露呈してしまう。ぎこちなかったり、ちくちくっとした言動をしている自分を発見するような場合が、私だったらあるわけです。

フィリピ2:3~5を一緒にお読みしましょう。
03何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
04めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
05互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

ここにあるような、「利己心や虚栄心」ですね。そういうのが沸いてきて何か意固地になってしまう、というのは私の場合、案外、自分で気が付かないうちに、そういう「私を重んじてくれてない」という心理から出ている場合があるかも知れないと省みさせられます。
そのことはまた、「本当は自分の方が優れているのに!」と内心悔しがったり、またそこから周りのことが見えなくなって、他人のことに注意を払えない、ということになって出てきてしまう場合があるかもしれないと、自分のこととして思います。

5節を見ますと、そういうことにならないように心がけなさいね、と言われているわけですね。
しかしそれは、自分で一生懸命の自己修養して、悪い心を押さえつけてそうしなさい、と言っているわけではないようなのですね。
ではどういう具合にということが、
それはキリスト・イエスにもみられるものです。
というところからうかがい知ることができるわけです。この部分を直訳的に見ますと、
「心がけなさい」に続けてまず、「in you」(あなた方の中に)と来ているのです。そして間髪を入れずにすぐに続けて、「それはalso in Christ Jesus」(それはイエス様の中にも)と来ているのです。
すなわち、イエス様の中においてそのようであるように、あなたの中でも心がけなさいね、と言っているわけです。
ここを文語訳では
キリスト・イエスの心を心とせよ
と訳しています。いい訳ですね!「キリスト・イエスの心を心とせよ」

では、そんな私たちが倣うべきイエスさまの心ってどういうものでしょうか?
それが6節から11節に記されています。以前お話ししたことがありましたが、この11節まで、実は初代教会で歌われていた賛美歌の一節なのです。
では今日は、6~9節を一緒にお読みしましょう。
初代教会の人々のイエス様に対する思い、心情を思い抱きながらお読みしましょう。
06キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
50002007かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
50002008へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
50002009このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました

6節で、「キリスト・イエスは、神の身分である」と訳されています。新改訳は「神の御姿」と訳しています。これは、イエス様という方まるまるが、隅から隅まで、神様の状態なんだ、ということが書いてあります。その神は、天地を創造された、全地全能の神、旧約聖書に記されている神様です。
思い切って訳せば、
「キリスト・イエスはまるまる神のご本性でいらっしゃる」
と歌って、誉め称えているわけです。

この箇所は、イエス様が地上にお生まれになる前から、永遠の昔から、天地創造の「前」から父なる神と共にいらっしゃった、三位一体なる神の第二位格でいらっしゃると理解することが、書かれていることに対して最も納得のいく説明になるとティンダル聖書講解は記しておりました。

そしてそのイエス様が
神と等しい者であることに固執しようとは
お思いにならなかった、と歌っています。
それだけでなく、
07かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました

何というイエス様の謙遜でしょうか?
テレビの時代劇で有名な「水戸黄門」だとか「暴れん坊将軍」と比較してみましょう。
黄門様、御老公や、将軍様は、たいへんに高い身分のお方です。
しかし、そのお方が、しがない老人や、普通の人に身をやつして世の中を見回る。
そして、世間の悪を見出すわけですね。
そして最後に、「この紋所が目に見えぬか」と言って、その正体を皆の前に現して、その権威をもって悪を成敗する。

イエス様の場合はどうでしょう。
先ず第一に言えることは、水戸黄門や暴れん坊将軍のテレビドラマは、どんなにスカッとさせられるものであるとは言え、作り話に過ぎないと言うことです。
それに対して、イエス・キリストに関して聖書に記されていることは本当の事です。

また、悪を成敗するということについては、イエス様はこれから先の未来において、最後の審判で、徹底的にそれをなさいますが、現時点で、それはまだ起こっていません。
そして、イエス様の身のやつし方は徹底的です。
僕の身分に
なって下さった!

しもべというのは、主人の意向の通りに動く者という立場を表しています。
主人のためなら命も自分のものではない、そういう立場です。
そしてイエス様は実際、ご自分が十字架にかかって死ぬにまで至ってくださった。

黄門様や将軍様においてですね、もし自分が身代わりに命を投げ出せばある人の命が助かることがあるとして、実際に命を投げ出すことがあるでしょうか? ましてや、むごたらしい死刑に処せられてです。絶対にあり得ないですね。
しかしイエス様は、黄門様や将軍様に比べることもできない、父なる神と等しい方が、ご自分が死刑になってむごたらしく死んで下さったのです。
イエス様にとって
僕の身分に
なって下さったとはそういうことを意味しています。

自分の考えでなく徹底的に神様のご意向の通りにお働きになる。それがイエス様がしもべになってくださったということでした。
それは
08へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした
というところに至りました。それしか、私たち人類の罪が赦され救われる道はないからです。
それは、父なる神様の、「そういう風にしてくれないか」という願いに従い、イエス様はこころから喜んで、その願いに応えて、十字架の死にまで柔順に従われたのです。

それは罪のないお方であるイエス様にしかなし得ないことでした。6節で
06キリストは、神の身分でありながら、
に引き続いて、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず
とありますのは、全地全能の神としての特権をイエス様は地上の御生涯の間、捨ててくださったということです。

イエス様を十字架にかけるためにイエスを捕縛する者たちに囲まれた最後の夜に、イエスの弟子の一人が剣を抜いたのを押しとどめてイエス様はこうおっしゃいました。
「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
40026053わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。
(マタイ26:52)
この十二軍団というのは、一軍団だけでも6000人ということだそうです。天使の大軍勢だってもし私が父に頼めば私を守るために送ってくれる。しかしイエス様はそれをなさらない。
それは父なる神さまの願い、ご計画、みこころに反しているからです。
そしてイエス様は十字架の死にまで従われた。そのことによって私たちの罪の赦しがあり、永遠の救いがあることを感謝します。

そのイエス様の従順の故、
神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました

父なる神への従順、十字架への報いは、そのような究極的勝利、神様からのお誉めであることを私たちは心に刻みたいことです。
私たちはそんな大きなイエス様の赦しと愛に感謝して、そしてイエス様の勝利を覚えて歩みたいものです。