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成長させてくださる神――植える人、水注ぐ人


Ⅰコリント3:1~17

 種を蒔けば芽が出て、葉がついて、大きくなって花が咲いたり実が生ったりするのは考えて見れば不思議なことです。
 こんな小さな種を土に埋めれば芽が出てきて育つ・・・。でも蒔かないと芽も根も出ないんですね。これも不思議なことに感じられます。

水やりトリ

 2000年以上、芽も根も出ないで種のまま見つかった有名な種がありました。それは大賀(おおが)蓮です。戦後間もない頃に、千葉県の遺跡から種で発見された蓮です。その種を、植物学者で、ハスの権威者でもある大賀一郎さん――実はこの方は無教会派のクリスチャンの方でありますが――が、3粒だけ発見された種を自宅で、発芽育成させるよう試みたところ、一粒が芽を出し、ついには花を咲かせるに至ったのでした。
それで、その2000年間眠っていた蓮は「大賀蓮」として知られるようになったわけですね。大賀蓮は根分けされて、全国20箇所以上で大事に育てられているようです。私も埼玉県行田市に行った時に拝見してきました。
 兵庫県でも、淡路市と加東市にあるそうですね。

 しかし、大賀博士は蓮の大家とは言え――この方は中国にいた時、古代蓮の研究で東大から理学博士を授与されたんですね――、2000年前の蓮の種がちゃんと芽を出すか、非常に不安と責任を覚えたのではないでしょうか。
 それにそもそも、蓮の種って、どこにどうやって蒔くものなのでしょうか? 園芸の得意な方はご存知でしょうか?
 古代の蓮の種をどうやって博士が扱ったか、ネットでちょっと調べた程度では詳しいハナシは載っていませんが、園芸の話題としてはネットに、「蓮(ハス)の育て方のポイントは?」「蓮(ハス)の種まき、苗植えの時期と方法は?」といった記事が出ておりました。
 私はそういうことは全く疎いのですが、ネットの記事によると、
種まきは「4~5月。種に傷をつけないと発芽しないので、下処理をする。それには1. 種の凹んでいるお尻の部分を、白いところが見えるまで傷つける
2. 発芽するまで水に浸ける
3. 4~7日ほどで発芽したら、鉢に入れた土へ横向きに置き、2cmほど土を被せる
4. 水を入れた睡蓮鉢などの容器に鉢を沈める

また、苗植え=削除=については3~4月、7~10号の鉢に2/3ほどまで土を入れ、新芽を上向きに置いて、土を被せる。そして、水を鉢の縁までたっぷりと注ぎ、日当たりがよく、暖かい場所に置きます・・・=削除=も難しいようで、なかなかデリケートな植物のようです。
大賀蓮も、そのように発芽育成に至ったわけでしょうか。それにしても2000年間芽を出さなかった種が芽を出すなんて、考えて見ればアタマがくらくらするようなすごい出来事です。
(この後にもう一度、大賀さんと古代蓮のとっておきのエピソードあり)

しかし、古代蓮でなくても、どんなありきたりの植物であっても、種を蒔けば芽を出す、植えれば大きくなっていくのはすごいことだ、ということに思い至ります。
人間は、種を手に入れて蒔くことはできますが、種そのものを作ることはできないのですね。正に自然の神秘。私たちに言わせると創造主なる神さまのお造りになった作品です。

今朝お読みしたコリント信徒への手紙第一でパウロは、この種と、種を植える人について、そしてさらには水をやる人について言及しています。
シンプルですが味わい深いところです。では、その箇所と、今朝の題である「成長させてくださる神」という言葉が入ったところを一緒にお読みしてみましょう。3:6、7節を一緒にお読みしましょう。

46003006わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
46003007ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

これはパウロが書いた手紙の一節です。わたしパウロが種を植え、アポロという人が水を注いでくれた。しかし、成長させてくださったのは神です、というわけですね。

ではここで言われている「植える」とか、水を注ぐって何を意味しているのでしょうか? 2人で園芸当番を決めて、パウロは何でも好きな種や苗を手に入れてきて植える係、アポロの方は苦労して水をやって世話する係だった・・・というわけではありません。これはもちろん冗談ですが、そうやって考えるのもなかなか趣き深くて楽しいことかと思います。
さて、実際はどういうことかと言えば、クリスチャンのいなかったコリントの町にパウロが始めに来て伝道し、イエス様を信じる人々が起こりすなわちコリント教会ができた。そのことを「わたし(パウロ)は種を植え」たと例えているんですね。その辺りの経緯は、お開きしませんが、使徒言行録18章に書いてありますね。

そして、パウロはその時、ユダヤ人にも異邦人にも積極的に伝道し、少なくとも1年半、コリントに腰を据えて伝道しました。そしてその後、新たな宣教地に向かって出発した。
その後に、コリント教会の働きをアポロが引き継ぐことになったことが使徒19:1にもちらっと書いてありますね。

ですから、コリント教会というものについて、パウロが植えた人、アポロはその後、水をやってお世話した人とⅠコリント3:6にパウロは記したわけです。
 けれども、パウロが植えた、アポロが水を注いだ、というのに続けて
しかし、成長させてくださったのは神です。
46003007ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

と記されていることに目を注がなければなりません。

はじめに大賀蓮の話を致しましたが、「無教会キリスト教信仰を生きた人びと」(新地書房)という本が私の本棚で見つかりまして大賀さんのことも詳しく書いてありました。

2000年前の3粒の種のうち、一つだけが育つに至った出来事の前のエピソードがあったのです。それは、おなじ遺跡から、実は以前に、もっとたくさんの種が出ておりまして、そのうち1粒だけが大賀博士の手に渡ったんですね。他は全部捨てられてしまっていたのです。
その最初に偶然もらった種を見て大賀さんは「これは生きている」と直感し、4,5日で発芽に成功した。

そしてその蓮の管理を、勤務している学校の、出来のよい生徒に任せたんですね。ところがこの2人の生徒さんは、蓮の肥料にイワシやニシンがよいと知って、ナマのイワシを蓮の根本に埋めんですね! 良かれと思ってやったことです。
そのナマのイワシは腐って、2000年前の蓮を枯れさせてしまったのでした。

2週間後にそのことを知った大賀さんは、三日三晩茫然自失だったそうです。ところが恩師の内村鑑三先生が本(後世への最大遺物)に書いておられたエピソードを思い出して平静をとり戻したのです。
そのエピソードというのは、カーライルという歴史家が「フランス革命史」という大著を完成させた。もちろんワープロなんてない時代です。紙に万年筆で書いたのですね。完成に何十年もかかった原稿です。その出版間際に、尋ねてきた友人が読みたいというので、批判を仰ぎたいと思って貸してやった。
 そして、そのカーライルにとっては命の原稿原稿を机の上に置いておいたのですね。ところがあろうことか、その家のお手伝いさんが、暖炉の火をつけるたき付けがないかと思い、その原稿を燃やしてしまったのです!

カーライルはそれを知って10日間呆然として何もできなかった。けれどももう一度書き直そうと勇気を奮い起こして再び書き直した。内村はその不屈の精神を絶賛しているのですね。
それを弟子の大賀さんは思い出し、また、あの遺跡にまだ種が残っていると確証を得る出来事もあって、その種を探し出すためだけに自らスコップを手に発掘調査をするのですね。そして、ようやく得ることのできた3粒の種だったのです。

まあ、そのように、種を蒔く、植えるだけだから簡単だろうかというとそうではない。パウロはずいぶん苦労をしてコリント教会にも種を蒔いたことが使徒18にも記されています。
パウロはそういう開拓伝道、パイオニアーの方が専門だったわけですね。
Ⅰコリント3:8の「植える者」ということばを元の言葉で見ると、植えるという動詞を分詞にして「何何する人」という名詞のかたちにする言葉が使われていますが、これが「植え“た”人」というよりも「植える人」、正に、いつも「植え屋さん」というような表現なんですね。そういう賜物なのです。役割分担なのです。
そして、それは簡単なことではない。パウロは、これまで足がかりのない、まだ誰も手をつけていない未伝地に行って、試行錯誤もし、牢屋に放り込まれるような大変な苦労をして、福音の種を蒔きながら宣教旅行をしていていったわけです。

そしてアポロは「水注ぐ者」「水やり屋さん」です。
植えるのは植えたけど、その後、適切に水をやり世話をする人がなければ植物は育ちがたいのです。
またそこには適切に肥料をやるとか、やり「過ぎない」とか、このタイミングで霜を防ぐとか、いろんなスキルや経験といったものが含まれていることと思います。アポロはパウロよりももっと面倒見がよかった、お世話タイプ、あるいは洞察力があり距離感を保つのも上手な名コーチタイプだったのかも知れません。こちらもいうまでもなく大変な仕事です。

どちらが大事でしょうか?
どうも、コリント教会の場合は、パウロをひいきするかアポロをひいきするかで、教会内部に派閥ができてしまっていたようなのですね。
Ⅰコリント3:4を見てみましょう。
03ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っている
という状況になってしまっていたというのですね。

そういうことに対してパウロは
大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
と指摘したわけです。う~んとうなってしまうような旨い言い方です。でも全くその通りです。
植える者、水を注ぐ者が、専門性の限りを尽くしてそれぞれの仕事をしたとしても、その種自身を、また種の命そのものを人間が作ることはできませんし、その命を引き出すこともできません。正に成長させて下さる神様です。

イエス様も種蒔きの例え話をなさいました。
そして、マルコ4:14を読むとイエス様はこのようにおっしゃっています。
種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。

種蒔く人、植える人は自分の何か、思想だとか考えだとか、そういうものを植えるのではないのですね。
パウロが植えたのは神の言葉であり、そこから芽を出してくるのは、イエス様を救い主として信じ、父なる神さまを信じ従って行く生き方です。

そこのところをパウロはⅠコリントではっきり言っています。1:17に、
17なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは・・・福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
46001018十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

と記されている通りです。
実はパウロは、コリントに来る直前、アテネで伝道し、使徒17にあるように、いろんな派の哲学者たちとも堂々と論じ合ったのですね。
そして、17:34にあるように、
信仰に入った人も何人かいた。
のですね。
しかしパウロは、そこでの体験から、宣教する内容に関して深く思うところがあったようです。あるいは神様に祈って示されたのでしょうか。
コリントの街に来てからは、「十字架の言葉」をもっぱら宣べ伝えたというのです。

すなわち、十字架に掛けられて死んで下さったイエス様こそ、私たち人類の罪の身代わりになって死んで下さった救い主なのだ、ということを明確に伝えたのです。その時、ある人々にとってそのメッセージは、23節にあるように
ユダヤ人にはつまづかせるもの、異邦人には愚かなもの
として受け取られました。福音は、すぐにだれにでもさっと受け容れられる性質のものではないわけです。コリントでも信じない人はたくさんいた。
しかし、1:24に次のように記されています。一緒にお読みしましょう。
24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。

イエス様の十字架による救いの福音は、聞く人の民族性や文化の違いを超えて「召された者」には神の力、神の知恵なのですね。すなわち命を持っているのです。ですから、それが蒔かれたら、植えられたら、芽が出て来るのです。根が生えてくるのです25節から続けて一緒に読みましょう。
そこには、十字架の福音のメッセージを聞いて信じることができた人々、すなわち、コリントキリスト教会の人びとが、特に賢かったり、優れていたり、能力があったからメッセージが分かった。そういうことではない!むしろその逆であって、それは神様の知恵や憐れみ深さを表すためだということが記されています

46001025神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
46001026兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
46001027ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
46001028また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
46001029それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。

いいですね!痛快ですね、胸のすくおもいがします。
ですから、「私はパウロにつく。私はアポロに」なんていう不和になってしまうのは、神様中心の考えではない。29節にある
だれ一人、神の前で誇ることがない
というあり方と逆のあり方になってしまっているんじゃないの?とパウロはコリント教会の人々に言っているわけです。
パウロは31節で、
31「誇る者は主を誇れ」
と、エレミヤ書を引用して諭しているのですね。

そういう主を誇るのでなく、自分を誇る、あるいはそうしたいが為に自分が持ち上げている人物を誇るようなあり方の人のことをパウロは「肉の人」と言っています。
3:3に記されている通りです。あるいは「ただの人」とも記しています。これは2章を読めば記されていることですが、要は、「十字架の言葉が分かっていない」そういう人だ、とパウロは断じているのです。2:14に
14自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。
と記されている「自然の人」と同じことです。それはすなわち、1:23にあったように、十字架につけられたキリストのことを「つまずかせるもの」「愚かなもの」としか捉えることができない人びとです。

06キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
50002007かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
50002008へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順
(フィリピ2:6~8)
であって下さったことが分からない人ですね。

しかし、イエス様がそういう方だと分かった、悟らせて頂いた私たちは、聖霊の働きによってそれが分かった。私たちを愛する父なる神さま、また御子イエス・キリスト様のみ思いを分からせて頂いたから霊の人なのです。
そうあるはずなのです。肉の人、ただの自然の人であってはおかしいよ。「私はパウロに」「私はアポロに」などというかたちで紛争があるのは、そうなってしまっている現れなのではないの?とパウロは言っているわけです。

そうしてびしっと、キリストの十字架によって私たちが救われる!という福音の種に命があるのであって、それを育てたもうのは神なのであって、パウロは植えた者に過ぎない。アポロも水を注いだ者に過ぎない。
そして3:8にあるように
08植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。
パウロもアポロもそれぞれ、神様から自分への報酬を受け取ることになるのです。そして、続けて9節にありますように、では9節を一緒にお読みしましょう。
09わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

植える人、水をやる人は、神のために力を合わせている。それがパウロの心意気でありスピリットです。
そして、あなたがたこそ、その種が植えられた神様の畑じゃあないか。自分たちが、イエス様を救い主として信じて、父なる神さまに従って生きて行く。その信仰のいのちに成長することこそが、種が蒔かれた値打ちなのだ。そのことが、神様のご目的なのだ。
そして、植える者、水注ぐ者の喜びが、その点でもしあるとすれば、それは正に、あなたがたがイエス様にあって霊の人として成長し続ける姿を見ていくこと、知らされていくことではないか。そのように種植えびとの私も、水注ぎびとのアポロのことも喜ばせてやってくれよ、というのが、神様の栄光をのみ求める牧会者のこころだと皆さん良く知っておられる通りです。
お祈り致しましょう。