カテゴリー別アーカイブ: .

クリスマスの告知――待降節にヨセフを思う

マタイの福音書1:18~25
新聖歌69 エサイの根より

おはようございます。

今朝は、2本目のろうそくが灯りました。イエス様がこの地上にお生まれになったことを記念するクリスマスに向けて、その待降節、アドベントの第二主日の礼拝となります。

待降節、あるいは降臨節などともいいますが、待降節の待(たい)は待つ。降(こう)は、雨が降るの「降る」。それを組み合わせて降誕。その季節ということです。
アドベントというのはラテン語で、「到着する」という意味で、例えば「汝の乗りし船は、予定の如く駅に到着せしか」という風に、今でも欧米の文語体で使われる言葉です。

降るといえば、雨は空から降ってきます。雲という水蒸気の状態だったのが、液体の水になって天から降ってくる。
そして、水というものの、不思議な、美しい、よい性質をもって陸を潤し、海を満たし、生命を宿らせ、私たちの生命を生かしています。
降るという字は「くだる」とも読みますが、正に水という、世界にとって、世界のいのちにとって無くてはならないものが、空からくだってくるわけですね。
イエス様も、天からこの地上にくだって来てくださって、さまざまなことを成し遂げてくださいました。
そのおくだりを待つ待降節――。漢字文化の日本にキリスト教が入って来て、うまくそういう名前をつけたものだと思います。削除=(中国語では「将臨期」と言うようです)=削除

削除=ちなみに、人間のからだの半分から四分の三が、構成要素として水からできているそうです。空から降ってきた雨が、私のからだの一部になっていると考えると、ちょっと不思議な感じがしますね。=削除

「♪主我を愛す(節をつけて)」という古い賛美歌の2番で、そのことを歌っていますね。1番から歌ってみましょう。ご存知の方はご一緒に。
1 主われを愛す 主は強ければ われ弱くとも 恐れはあらじ
削除=わが主イェス わが主イェス わが主イェス われを愛す=削除
2番を歌います
わが罪のため さかえをすてて 天(あめ)よりくだり 十字架につけり(ここまで)
削除=(流れによって歌わないかも=わが主イェス わが主イェス わが主イェス われを愛す)=削除
「あめ」よりくだり、っていうのは「てん」よりくだりという意味ですね。

ねえ! イエス様は、父なる神と共にいらっしゃった「天」の栄えの座、「栄光の座」を捨てて2000年前、この地上に「くだって」きてくださり、私たちの救いのために必要な、さまざまなことを語り、行って、十字架にまでかかってくださったんですね! アドベントの期間、そのことを覚えたいと思います。=削除

削除=イエス様はただお一方の神である、三位一体なる神の第二位格である「子なる神」として、世のはじまる前、永遠の昔から存在しておられましたが、2000年の昔に、「この世界」に降(くだ)って来られました。=削除
そのくだって来たのは、気球に乗って降りてきたり、何か乗り物に乗って、ではなく、ほかの全ての人々と同じように、女性のおなかから、通常の、出産という方法で、赤ちゃんとして生まれてくださったのですね。

人が生まれる、誕生するということを考えてみましょう。
いまや、試験管ベイビーという言葉も聞き慣れたものとなったほど、サイエンスフィクションとして、お腹からではない人間の誕生といいますか登場をさえ「想像してみる」ことのできる科学の時代になりました。

そうであって、いやそうだからこそ今日、科学によって、自然や人間のからだの複雑さというものが、より明らかになりつつあるなかで、例えば母親のお腹以外で胎児が育って誕生に至るということを実現できるかどうか考えてみるとどうでしょうか。

このことを、経済性を度外視した、純粋な科学技術の問題として考えても、たいへん難しい、困難なことだろうなと私たちは察しがつくわけです。科学によって明らかになる最新知識を総動員すればするほどそうでしょう。おそらくロケットで人間を月に送ることより何千倍、何万倍も、科学技術として難しいプロジェクトになると思います。
もし仮に、科学技術の成果として、受精卵を作って、そこでヘソの緒を切った赤ん坊となるまで育てられる人工人間培養装置みたいなものが実現したとしても、それは自然の出産プロセスと、それに関わって起こっているすべての必要事項を徹底的に研究して、その真似をしたものしか作れないわけです。

削除=どんなに科学技術が発展して、人工授精などと言いましても、それはすでにある自然のありさまを研究して、自然の出産というもののほんの一部分を、正確に真似しているに過ぎないわけです。=削除

削除=私たちは科学が発展すればするほど、ますます人間として謙遜な、敬虔な気持ちを持たなければならないと思います。=削除

削除=私が言いたかったのは、21世紀の今日においても私たちは、2000年前、いや、もっともっと昔の、原始の人々が生まれたのと同じ生まれ方で、この世に生まれて来たのだということです。
そして、そのように昔々から、人は女性のお腹から生まれることは変わらないのだが、それは人間が科学技術で真似することすらできない、すざまじいほどに高度な仕組みによって、私たち一人ひとりはこの世に生まれてきたのだ。しかもそれに当てはまらない人は一人もいない、人間というものの共通の事柄なのだということを申しあげたかったのです。=削除

そういう風に考えますと、生まれてからあと、普通に今、「生きている」ことも、いかにすごいことかと分かります。つまり、意識もしないで息を吐いたり吸ったりしていること。ものを聞いたり見たりしていること。ものを考えたり、感じたり、食べ物を食べて栄養にし、そのエネルギー源で動いている。あるいは、さまざまな栄養素が血液(など)に乗って身体の隅々まで流れ、身体を作る構成要素になっているなど、数え切れないほどの不思議なことが、自分のからだの中で、今この瞬間、人体の仕組みとして起こっているわけです。

ことに、病気でもしてみるならば、普通に「生きていること」が実は当たり前ではない、如何に「有り」「難い」ものであるかが分かります。
私自身、腎臓の調子が悪くなることで、血液の中の成分の構成が少し変わりました。そうすると、それが身体のいろんなところに玉突き式に影響して、心臓の具合が悪くなったり肺の方に影響が出たりということを経験しました。
いかに自分の身体が生まれた時に、削除=血液の成分のブレンド具合を含めて、=削除、いろんなことが巧妙に整えられて生まれて来たか、ということを思い知らされ、改めていのちを与えて下さった神に感謝してる次第です。

削除=元々、普通に生きているということが如何にすごいことか、私たち人類は人数がたくさんいますので、意識を致しません。それは例えばダイアモンドが非常に価値の高いものであったとしても、もし仮にダイアモンドがその辺の石ころと同じくらい、世間に数多く出回ったら、私たちはそれを価値あるものとは思わないだろう。そういうことと似ています。
人が、ということは自分が、生き物として生きているということがどんなに凄いことか、私たちは分からないで生きている、という実態があることを指摘しているわけです。=削除

私たちは、イエス様が生まれてくださったことを覚えるクリスマスに向けて、自分や家族が生まれてきて生きていること自体が、いかに神秘に満ちた不思議なことか、思いを致させられる期間でもありたいことと願い、祈るものです。

さて、イエス様が人として生まれ、生きてくださったということは、生物学的な問題だけではなく、人間として、ということで、それを可能にする人間の社会の存在があったということをも指摘せずにはおけません。人間の関係性の問題です。

今朝お読み頂いたマタイによる福音書第1章ですが、その1節から始まる系図が、そんな人間の社会性を示しています。
この、アブラハムから始まる系図は、正にユダヤ人という一つの社会を表しています。その系図によって、イエス様のお誕生は当時のユダヤ人社会という母体がなければあり得なかったし、またそのご生涯の全ても、削除=においてなさったり語られたりしたことも、イエス様お一人だけが、父なる神の力によってなされたのではなく、それは社会の中にあって、直接的にイエス様を助けるお弟子さんだけでなく、=削除当時の社会的背景、ローマ帝国の支配下にあるユダヤ民族社会がなければ、あり得なかったことを思い起こさせられるものなのです。

削除=マタイによる福音書は、四つの福音書の中で特に、ユダヤ人に向けて書かれたという風に言われる所以である系図です。
アブラハムから始まってイサク、ヤコブ、そしてヤコブの子のユダと、その兄弟たちと記されていることで、明らかに、その12部族のどれかに属しているユダヤ民族全体も意識されていることが分かります。
系図が大好きなユダヤ人読者のために、それを最初に持ってくるのもイキな計らいです。
しかし、ユダヤ人ならざる私たちにとってはどうでしょうか? それはひとえに、アブラハムが、まことの神様を信じ、従うことを神さまと約束したことにかかってきます。=削除

2節に、アブラハムはイサクを「もうけ」と訳されていますが良い訳だと思います。アブラハムは男性だし、自分のお腹から生んだ、というわけではありません。アブラハムはイサクの父親となったという意味ですね。
そして、元の言葉を確認しますと、
アブラハムはイサクをもうけた。
と書かれ、それに続けて全く同じ表現をテンプレートに当てはめたように、
イサクはヤコブをもうけた。
と続き、以下同じ表現が続きます。例えば4節なら
アラムはアミナダブをもうけた。アミナダブはナフションをもうけた。
という具合に、イエスの父ヨセフに至るまで律儀に同じパターンが続いて行きます。
削除=2節の、ヤコブはユダとその兄弟たちをもうけ
というのも、同じかたちに兄弟たちが増えただけです。
また同じく2節の
ユダはタマルによってベレツとゼラをもうけ
というのも同じテンプレートに、もうけらたのがベレツとゼラであることに加えて、タマルによって=削除

さて、16節ですがまず、パターン通りに、
ヤコブはヨセフをもうけた。
と書いてあるのです。そしてヨセフを修飾する言葉として、
「すなわちマリアの夫」と言い、それに続けて、「彼女からキリストと呼ばれているイエスがもうけられた」と、受け身形で書いてあるのです。
これは、イエスが正統なユダヤ社会の末裔であり一員であることが言われていると共に、イエスの誕生と存在の独特さ、ということが同時に言われているのです。

イエスが重大で独特な存在なら、どこから出てもいいではないか。系図なんてどうでもいいじゃないか、とも思うわけですが、福音書の一番最初に系図が記されているのは、歴史上に実際に存在した人物であるイエス様だ、ということを私たちに明らかにしているのだと思います。だから、これから書かれてあることは、作り話なんかじゃない、心して聴けよ、という訳です。

1節のイエス・キリストの系図と訳されている系図、という言葉ですが、これは元の言葉で「ビブロス ゲネセオース」と記されています。ビブロスとは、今日のブック、本という言葉の元になったものですね。いわば文書です。そしてゲネセオースはゲネシスが、「ゲネシスの」というかたちに変化したものでゲネシスの文書というわけです。
このゲネシスってどこかで聞いた言葉だと思いませんか?
そうです。英語で言えばgenesis、創世記です。イエス様の時代の数百年前に、旧約聖書が、当時の世界語であったギリシャ語に翻訳された時、創世記という標題をゲネシスと訳したのですね。
ゲネシスとは、なになにの「初め」「始まり」という意味の言葉です。正に創世記はこの世界の「始まり」の記録ですよね。マタイは明らかに、その創世記、ゲネシスに習って、イエス・キリストのゲネシスの文書、と福音書を書き始めています。
削除=そして、系図の中で誰々が誰々をもうけ、と記された「もうけ」という動詞もまた=削除

それが証拠に、18節の
イエス・キリストの誕生の次第
と訳されている「誕生」という言葉もゲネシスです。
「イエス・キリストの始まりはこのようであった」
というわけですね。
ここで、拍子木でちょん、ちょん、ちょん、ちょんちょんちょんちょんちょんちょん・・・と打って、さあ、始まり始まり、と言いたいところです。

さて、18節の後半。
母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
この箇所は、もし私たちが当時のギリシャ語を読めはしないがしゃべることのできる人間であったとするならば、この箇所が朗読されるのを聴いて、まず耳に入るのは、
まず「婚約していた者」という言葉になります。続いてそれがイエスの母であり、名はマリアであり、続いて婚約相手はヨセフであることが分かります。ギリシャ語は英語よりもっと自由に単語の順番を並べ替えられますから、「婚約済みの者」というのはとても大事な、最初に言うべき言葉であることが分かります。

当時のユダヤ社会にあって、婚約は非常に重いものでした。社会的に、結婚とほとんど同じ重みを持ったものだったのです。

ですから、次に来る話の内容は非常に深刻な事態なのだということが分かります。
すなわち、
身ごもっていることが明らかになった。
そして、そのことについてすぐに、「聖霊によって」と、すぐに補足しています。

私たちはルカによる福音書をも読んだことがありますから、その「聖霊によって」という意味をすぐに理解することができます。すなわちルカ1:25から記されているように、天使ガブリエルが、ヨセフと婚約しているマリアのところを訪ね、マリアが男の子を産むことを告げました。そうするとマリアは
ルカ1:34
どうして、そのようなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。
と答えました。それは、ヨセフのことも、また当然、他の男性に関しても、という意味です。それに対して35節。
天使は答えた。「聖霊があなたに降(くだ)り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」

ですから、マリアは自分のことですし、事の真相を分かっているわけですが、どの男性が、そのように婚約者に説明されて、「はい、そうですか」と易々と受け入れることができるでしょうか。あるいは信じたフリをすることができるでしょうか。
ヨセフはそうではありませんでした。

マタイ1:18に「明らかになった」と訳された言葉は、見出す、知る、探知するという意味の言葉を受け身形にしたもので、お腹が身ごもっていることを、何かの拍子で婚約者に見出されちゃったわけですね。つわりでもあったのでしょうか。マリアはここで、説明をしたでしょうか、しなかったでしょうか? 記されていないから分かりません。

しかし、難しい局面であったことだけは確かです。世界中で、今も昔もただ一回きり、このマリアとヨセフというカップルにだけやってきた難しい、という以上の状況です。

マタイによる福音書のテキストに戻ります。1:19。
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、秘かに縁を切ろうと決心した。
ここは元の言葉では「彼女の夫ヨセフ」とていねいに書いてあります。そして、ヨセフは正しい者である、とまず来ます。だから「不義の女」と考えざるを得ない者を処断しよう、と考えたわけではありません。そうではなく、彼は正しいと同時に、あることを望んでいない者だ、ということが書いてあります。
あることとは何かと言えば、マリアをさらし者にすることです。あるいは見せしめにする。そんなことを望むヨセフではないし、また、マリアとの関係ではありません。

ですからヨセフは、
ひそかに縁を切ろうと決心した。
のです。この「決心した」は、考えに考えての末に、ぱっとその決心に至った瞬間が来た、ということが分かるような書き方がされています。そして20節に続くのですが、
それを元の言葉で生々しく見ると、
「それらのこと(すなわち、マリアの妊娠を知ってしまったこと。さあ、どうしよう。秘かにマリアを去らせるしかない、ということ)について彼は熟考(もう深く深く考え抜いていることを)していると」と書いてあります。しかし、見よ!

新共同訳では訳出されていませんが、正にここに、「見よ!」という感嘆詞(ああ!とか、おお!とかと同じ、驚きを表して思わず言う言葉ですね)が入っておりまして、「見よ、主からの使いが夢によって彼に見られ、その天使は話をしていた」と福音書は述べて、その天使が話している内容に入って行きます。

天使はまず「ヨセフ、ダビデの子よ」と呼びかけます。
ユダヤ民族である、すなわちアブラハムの末裔であり、その中でもとりわけ、その子孫から救い主が生まれることが預言されていることは、ユダヤ人なら誰でも知っているダビデ。その末裔であるヨセフよ、という呼びかけです。

天使は先ず命じます。「恐れるな!」
何を「恐れるな」なのかが続きます。「マリア、すなわちあなたの妻を受け入れることを恐れるな」
そして、「彼女の中のもうけられている者は聖霊による」。

ここで、お腹の中の者が「もうけられている」というのに使われた動詞は、アブラハムがイサクをもうけ、とマタイが書いたのと同じ単語です。

すなわち、マリアの胎の子は、アブラハム以来の民族共同体、信仰共同体の流れの中で、お前がもうけたものなのだ、と神の使いは宣言したわけです。しかも、繰り返して言いますが「マリア、すなわちあなたの妻」と天使はだめ押しのように言ったわけです。
そして天使はすぐに続けてこう言いました。
「彼女は息子を生む。そして彼にイエスと名付けよ」。これはもう否応なしです。夢で見ているわけですから、反対したり、質問したりすらできません。とんでもない話です。そして夢の中の天使は続けます。「彼は彼の民を救う。彼らの罪から」

彼の民とは誰でしょう。先ず、ユダヤ民族であるはずです。そしてそれと共に、アブラハムが持った信仰と同じ信仰を、イエス・キリスト様のお陰でもった私たち異邦人も、その民に入っております。
罪、ハマルティアー、それは神さまなんてなくても生きて行けるわ、という「的外れ」の生き方です。イエス様はそこから私たちを救ってくださるのです。

天使はさらに、ユダヤ人であるヨセフに対して続けます。
「このこと全ては、起こるためである」。何が起こるためか?「預言者たちが語ることを通して語られたことが満たされることが起こる」。
ヨセフが直面しているこの全てのことは、「そのためだ」と夢の中の天使は述べます。そして、預言者が語った内容を明らかにします。「見よ(この「見よ」は、さっき登場した見よと同じです)。処女がみごもっている。そして男の子を産む。そして、人々は彼の名をインマヌエルと呼ぶであろう」。

そしてマタイによる福音書の著者は、「インマヌエル」というヘブル語を、聞き手のために解説します。それは同胞ユダヤ人でも、ヘブル語が不自由な者もいますし、また全くユダヤ人でない異邦人に対してもです。

イーマーヌーエル。エルというのは、エルシャッダーイ(全能なる神)、というように神のことを指す言葉です。
イーマーヌーエルを翻訳すれば、「我らと共に神」と翻訳されると、マタイによる福音書の著者は解説してくれています。英語で言えば「with us God」です。
「神は我々と共におられる」と新共同訳は訳していますが、それよりももっともっと、我らと神がくっついているのです。インマヌエルとは、神がそこまで私たち人間にくっついて下さる事態なのだ、ということです。何しろ、神さまご自身が人となって産まれて下さるのですから!
神は遠い遠いところにいるから人間のことなど分からない。そんなことはありません。イエス様はご自分が人になって下さったのだから、私たちの置かれた境遇や気持ちを良く分かって下さいます。

そして今、大変な状況に置かれたヨセフにも言われたと考えてみています。ダビデの子、ヨセフよ恐れるな! インマヌエルなんだ!と。

ヨセフは「インマヌエル」という語まで天使が語ったのを聞いたのか、「彼は彼の民を、彼らの罪から救う」までを天使から聞いたのか、いずれにせよ、24節、
彼はぱっと眠りから覚まさせられ、間髪入れずに天使が命じたとおりにした。すなわち、彼の妻を受け入れたのです。
しかし25節にあるとおり
男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった
のです。

このヨセフの置かれた状況はどんなものだったでしょうか?
ユダヤ人の社会の中で、不義密通がもし仮にあったとしたら、それはたいへんに重い。しかし、マリアがそれをしたとはどうしても思われない。
しかし、夫である自分に覚えがないのにマリアは確かに妊娠している。聖霊によるのだ、などとマリアは言う。
けれどもし、彼女をさらし者にするような気はさらさらない。
秘かに去らせよう、との決心に至る。

決心して、それらのことを熟慮していた時、それはマリアにどう切り出そうか、ということを考えていたのでしょうか、あるいはまた彼は思わず祈っていたのかもしれません。「神さま、どうしたら良いのでしょうか」。しかし、彼は祈りながら眠ってしまったのかもしれません。

祈りながら寝てしまい、大事なことを知らされるケースはユダヤ人的にはあったようです。なぜなら、使徒言行録の10:9でペテロが祈りながら寝てしまい、夢をみていますね。
それは、ユダヤ人が異邦人を、同じ信仰の仲間として受け入れることなど決してないはずのことであるのに、神さまから
神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない
と言われ、しかも、そのことを象徴するイメージを見せられ、そういうことが3回繰り返されてから目が覚め、彼は異邦人でイエス様を救い主として信じることを通して、父なる神に信じ従うことになった私たちのような異邦人を、同じ信仰共同体の仲間として受け入れることをOKという立場になったのですね。

ヨセフもあまりに明確な、神さまから来た夢をみて、マリアを受け入れました。そして、我が子としてイエスを受け入れました。

ヨセフの果たした役割を考えてみましょう。
イエス様が十字架にかかって亡くなった時点で、すでにヨセフは世を去っていたことが分かります。
イエスが30代の時に、ヨセフはもう死んでしまっていたのですね。
しかし、イエスは、「ヨセフの子」として世間に知られていました。それは大工であったヨセフの家業をきちんと継いだ。
それはすなわち、ヨセフがイエスを父親として訓練したことを表しています。

イエスは神の子だから、何も学ばなくても元々知っていたのでしょうか?
いいえ。イエス様が赤ん坊として産まれたということ自体、イエス様は、人間として、面倒を見られ、教育を授けられる必要があったことを示していると思います。

家庭において、母と父の許でしてもらい、教えられた数々のことがおありであったっと思います。
そして、父ヨセフは、どの時点でか、早くに亡くなってしまった。長男として、家庭を支えなければならないイエス。

しかし、自分には、神の国を述べ伝えるという使命があることが、どの時点からか、分かっていたイエス。家業の大工を弟たちに任せることになるプロセスもきっとあったことでしょう。

そして何よりも父なる神さまとの関係。
4つの福音書はイエスが、自らがあの、天地万物を創造された、全地全能なる神の子、宇宙が存在する前から存在し、父なる神と共に、三位一体の一位格として創造の業に当たられたお方ご自身であることを知っていて、それと同時に全く人間であられたことを記しているわけです。
イエスはいつから、自身が神であることが分かったのでしょうか? それはあまりにも神秘であるとしか言いようがありません。

しかしイエスが
「天にいらっしゃる私たちの父よ」(マタイ6:9)
とお祈りなさる時、
「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)
と語った時、ヨセフの元で育てられたことがどんな影響を及ぼしたかを想像してみることはできると思います。
そのヨセフとの関係は、良い関係、信頼関係、いつも「近くにいて」呼べば答えてくれる関係、助けてくれる関係。そして父を尊敬し、父の願っていることをして上げたい、と自分も思う関係だったのではないでしょうか。
そういうもの、すなわち、ヨセフの人格的な存在は、イエスの人間としての成長に影響したのではないかと考えざるを得ません。

また、父ヨセフが早く死んでしまったことがイエスに、「天のお父さん」ということをよりシャープに求めさせ、分からせたということなのかもしれません。人間はいなくなることでかえって、人に影響を与えることすらあるのですね。召された舛田先生もそうですね。

しかし、すべては神の御手の中にあります。
ヨセフは、その妻マリア、そして「我が子」イエスのことで、光栄ではあるのかもしれないけれど、他の誰も、人類が果たしたことのない大変な役割を担わされ、それを果たしました。

それも、一介の大工として淡々と、自分の子に、ユダヤ人として当然の神についての教え、また大工としての職業訓練、人としての生き方を、父親として果たすという役割を担いました。

そのわりには、聖書の中でも「影が薄い」という印象を覚えるヨセフです。しかし、神さまの目にはどうでしょうか。
「ヨセフよ。よく私からの自分の使命を果たした」とお誉めにあずかっているのではないでしょうか。

私たちは、ヨセフやマリアほど、人生で大変なこと、大きな出来事や選択に直面することは無いかもしれませんが、大なり小なり、有り難からざる局面にぶち当たることもあります。

しかし、かえってそういうことを通して、神さまの御業が何か進むのかもしれない。
もしそうでああるならば、神さまの御旨をしっかりと知らせて頂ける――夢を通してであれ何であれ神は教えてくださいます――ことを信じて、目の前の事柄に取り組み、祈りつつ進んでいきたいと思います。

非常に著名であったバプテスマのヨハネに比べて影の薄いように感じられるヨセフ。

しかし、誰も知らない大変な、しかしきわめて重要な役割を担わされていたヨセフ。私たちも、大きさこそ違え、そういう役割を担わなければならないこともあるかもしれません。また、そういう人が身近にいるかもしれません。
けれども、それは全て、神さまの御業が進むためです。

イエスが産まれ、彼は彼の民を救ってくださる!
神なんかいない!という自己中心な生き方から救ってくださる。
インマヌエル!神が私たちと共におられる。そのようにして下さる。

そんなクリスマスに向かって歩みを進めているく待降節、アドベントでありたいことと願います。