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死生学の教会講演

所属教会(尾上聖愛)の機関紙「希望」にレポートを書きました(2019年10月3日記)。
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 新聞記者として充実していた二〇代後半のある日、脳の血管の疾患に見舞われ突然に、寝たきりで手足も動かせず、意思表示もできないない日々を送った体験談から講演は始まりました。
 
 九月二十二日、日曜礼拝の午後に、死生学が専門の藤井美和さん(関西学院大学人間福祉学部教授)を迎え、『「死」から「生」が見えてくる』と題する講演会を教会が開きました。
 
 「自分が死ぬ」ことを生まれて初めて意識した瞬間、「あれほど打ち込んでいた仕事のことは全く意識に登りませんでした」。自分は何のために生きているのか? 自己実現だけではなかったのか。ひとのために何かしたか?家族のことさえ考えていなかったことを悟ったといいます。
藤井死生学
 
 寝たきりの病床なのに、好奇心一杯で、動かすことのできる目玉だけを動かして、同室の患者さんを観察していたさまは、同じ記者体験者として、凄みと共にユーモアを感じました。
 
 向かいのベッドの人が早朝、苦心の末に車いすに乗る。「トイレに行かれるのだろう。早朝だし看護士に遠慮したのだろう」と思って観察していると、自分の方に近づいて来た。
 そして、細い細い手が目の前ににゅっと伸びてきたかと思うと、その手には手鏡が握られていて、「どう? 見える? あれが『さんふらわあ』よ」。彼女は寝たきりの藤井さんに、見たくてたまらなかったそのフェリーを、神戸の港に入って行くまで見せてくれたのだった。
 
 人間として極限の体験を語りながら、「こういう思いを、このまま誰にも何も表現できずに死んでいく人がたくさんいるんだろうな」と思ったという。
 
 自分が寝たきりになることを医者に告げられた時、「今度はひとのために生きられるように」と思わず祈ったという。
 
 そんな体験談からスピリチャルペイン(霊的な痛み)の問題に入って行きました。身体的痛み、精神的痛み、社会的痛みはそれぞれ人との関わりのなかで解決がありますが、霊的な痛みを人は解決できません。
 
 その痛みは誰にでも起こり得るし、危機的な状況下でこころの表に表れてくる。また、他の人が関わってどうこうできるものではない主観的なものだと指摘しました。
 「お年寄りが、『自分はもう生きている意味がない』と思うのもそれだし、虐待されている子どもにとってもそういうものだろう。それは鬱病とかではない」
 
 そのスピリチャリティ(霊性)とは、「自分が生きていること自体が(神からの)ギフト(贈り物)なのだ」と思えるかどうかの問題だと解説しました。
 「老いて死が近づいて来るということは、赤ん坊が生まれた時に『生まれて来てくれてありがとう』という。そこに帰っていくということなのです」。
 
 また、病にあるような人に「寄り添う」ことの困難さを指摘し、その「あり方」を、段々と深めながら考えさせてくれました。
 
 このレポートの最後に、美和さんが寝たきりの間も「へらへらして」(美和さんの表現)、ユーモアや委ねることを絶やさなかったご母堂の信仰の祈りが、美和さんのこの講演と働きをさせているのだなぁと思わせられたことでした。
 
 学校の授業なら一年掛ける内容の“奥義”を、自分と同じクリスチャンの私たち向けにぎゅっと凝縮して語って頂いて感謝です。教会は初めてという方々を多く含む約100人の聴衆でした。
 三浦三千春