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主を喜ぶことが力――4000年の歴史に学ぶ方向転換の必要性


ネヘミヤ記8:9~18 新聖歌19/220/349

 おはようございます。
 夜などは虫の声が聞こえ、何とはなしに情緒といいうますか、季節感を感じております。
 気温が上がったり下がったりで、着るものの調整が難しかったりも致しますがいかがお過ごしでしょうか?

 さて、今朝は「主を喜ぶことが力」という題をつけさせて頂きました。
 「主を」「喜ぶ」ことは「力」。いい言葉ですね。

エルサレムの城壁

それでは、ネヘミヤ記8:9~10を一緒にお読みしましょう。
09総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。10彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。

 主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。
素晴らしいみことばですね!

 この言葉を言ったのは、9節の一番始めに出てくる総督ネヘミヤやエズラたちです。
 ネヘミヤは、紀元前460年頃のパレスチナ、今のイスラエルの地において、そこに住むイスラエル人、すなわちユダヤ人の間でリーダーシップを執りました。
 彼がリーダーシップを執ったのは、日本の戦後の混乱期のような、大変難しい、試練の、また激動の時代でした。

 一度徹底的に叩きつぶされてしまった自分たちの国を再建する、という困難な仕事に取り組んでいる最中なのです。つい身近なところで敵に囲まれ、さまざまな陰謀も渦巻いています。大変難しい舵取りを強いられています。
この場面は、祖国再建の中の大きなプロジェクトを一つやり遂げて、その1か月ほど後に開かれた大集会の場面です。イスラエル人たち数万人が集まっているのです。
そのプロジェクトは首都エルサレム市街全体を囲む、破壊されていた城壁を修復するものでした。その総延長は約5キロ! しかも、万里の長城のように分厚く高さも高いものです。

その修復工事を52日間で、総力戦でやり遂げてしまったのでした。しかもそれは、敵対勢力からのたくさんの妨害工作や攪乱にも立ち向かいながら、本当に再建できるのだろうかと何度も危ぶまれる中での完成だったのです。
しかもそれをやっても、考えてみれば何か華々しいものがあるわけでもありません。壊れていたものを当たり前に元に戻したというだけの、守りの仕事なのですから。また、それで全てが完成なのではなく、これから成すべき事は山積しています。

イスラエルの人々は、大変な城壁修復を完成させて、達成感や高揚感があったと共に、もう精力を使い果たしたというような疲れもあったのではないでしょうか。具体的な作業に一生懸命携わっただけに、国家の再建という事業の大変さを、改めて見に沁みてしまったかもしれません。
ここで必要なのは新たな力でした。力の充電がなされなければ、心が枯れ果て疲れ果ててしまうわけです。

私たちの人生にも、もっと力が欲しいと思うような、難しい、しんどい局面があるかも知れません。
どうやって、意欲を持ち続ければよいでしょうか? こころが電池切れにならないように、どうやってパワーを充電すればいいでしょうか?

リーダーのネヘミヤとエズラが語りかけた言葉はこうでした。
主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。

悲しむこと、が力の源ではありません。聖書を読みますと、9節の終わりのところに、民が「泣いていた」ことが記されています。そして、その泣いて悲しむことは大事なことでした。しかしそれで終わる必要はありません。終わってはいけません。
悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。
と、みことばは私たちに語りかけているのです。

また、悔しい思いや対抗心、なにくそ!という心は、私たちを奮い立たせるところがあるわけですが、力の源とはならないようです。

ましてや、怒りですとか憤りの感情というものは、力の「源」にはなり得ないでしょう。
 また、自分ががんばらなくっちゃ、と自分を励ますことも、限界があるようです。

主を喜び祝うことこそ、私たちの力の源なのです。

このイスラエルの民は、かつて、大きな繁栄を味わったことのある民でした。ネヘミヤたちの時代から500年前、ソロモン王の時代を経験したのです。ソロモンはエルサレムに壮麗な神殿を建て、また宮殿を建て、さまざまな巨大建築物を造りました。
国は富み、栄え、非常に強い経済力を誇っていました。
聖書の列王記上10:21に、
ソロモン王の杯はすべて金、「レバノンの森の家」の器もすべて純金で出来ていた。ソロモンの時代には、銀は値打ちのないものと見なされていた。
と記されている通りです。

それだけでなく学問や文化も栄えていたのです。
イスラエルの国はソロモン王の時が絶頂で、その後衰退していきますが、それでもその後400年間、独立を保ち、自分たちの土地に家を建てて住み、経済的にもまあ成り立っていました。そして独立国の国民として、誇りをもって生きていたわけです。

ところが、ソロモンから400年後、すなわちネヘミヤたちの時代に先立つこと100数十年前、イスラエルの国は、強大な帝国であるアッシリアやバビロンに滅ぼされてしまいます。
そして彼らは、先祖代々、600年、700年にわたって住んだ土地も家も取り上げられ、ばらばらにされ、捕囚として遠いほかの国に連れて行かれて、異国の地で生きて行かなくてはならなくなりました。
敗戦民族として、身を縮めて生きなければなりません。また民族として、人間としての誇りも傷つけられたことでしょう。

彼らは思ったでしょう。アッシリアや、バビロンという憎き敵国から滅ぼされさえしなければ・・・。
正に、親の敵ならぬ国のかたきです。臥薪嘗胆という言葉がありますが、これは古代中国で、小さな国がひしめき合っている時代、自分の国がやっつけられて、その敵国に報復するため、夜寝るときも柔らかい寝床に入らずに薪の上に寝て痛さをこらえ、また苦い動物の肝を舐めることで、やっつけられた屈辱を忘れず、力を蓄えてついにかたきを取るという故事です。

イスラエルの人々も臥薪嘗胆して、アッシリアやバビロンへの仇討ちに心を燃やしたか?
そういう面は、もちろんなきにしもあらずです。しかし、聖書は、それとは違う面をもっともっとクローズアップします。

それは何かというと、ひと言でいうと、悔い改めです。
自分たちの国が滅ぼされたのは、自分たちが主なる神との契約を守らなかったからだ、という観点です。そして、そうであった先祖たち、また自分たちの生き方を悔い改めたのです。
   ◇
そのことをお話しする前に、イスラエル人の歴史をざっくりとおさらいしてみましょう。イスラエルの源流の先祖はアブラハムです。アブラハムが生きたのは今から約4000年前。紀元前2000年頃のことです。ネヘミヤの登場する時代より約1500年前のことです。
アブラハムは、天地をお造りになった神さまに導かれて現在のイスラエル地に来、その土地を与えられるという神さまからの約束を頂きました。
創世記17:7を一緒に読んでみましょう。
07わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。
01017008わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。

今読んだカナンの土地というのが、今のイスラエルがある場所です。アブラハムはそこで子を設け、その死後、孫たちが生まれて大家族、一族となっていきます。
その時代に、アブラハムやイサクやヤコブたちが、天地を作られた神さまから話しかけられ、自分たちもお話しし、今日で言えば、神さまにお祈りして、その祈りにいろんなかたちで応えて頂き、天地を作られた神さまってどういう方か分かる。
そういう活き活きした経験をしています。それは、人間同士が助け合ったり争いあったり騙し合ったり仲直りしたり、そういう日常の生活は現在の私たちと本質的に同じです。そういう中で、神さまが生きて働いていて下さる。その記録を創世記は記しているのです。創世記オモシロイですよ!

さて、ヤコブが年を老いてから、アブラハム一族はエジプトに移住します。それはエジプトや、周辺諸国も大飢饉に見舞われた危機の時でした。ヤコブの子であるヨセフが、非常に数奇な運命を辿って、当時超大国であったエジプトの、王から勅命を受けた総理大臣となり、エジプトや周辺諸国を危機から救います。
その時に、老ヤコブの一族はエジプトに下り、そこにしばらく住むことになります。しかし、しばらくのはずでしたが、それが何と、400年にもなってしまいます。そして人数が増えて、家族、一族ではなくちょっとした民族に成長していきます。
そして彼らは最初、エジプトを救った恩人であったはずなのに、時代が変わって400年経ったころには、エジプト人の奴隷となって酷使されるようになっていました。
そこでイスラエル人は苦しみの余り、天地の創り主なる神に祈り、苦しみを訴え、エジプトの圧政から解放されることを求め始めました。

その祈りは長年聞き入れられないと思われましたが、ついにモーセが現れて、イスラエルの民をエジプトから出エジプトさせます。それが紀元前約1300年。アブラハムの時代から700年後。そして、ネヘミヤに先立つこと900年です。
モーセに率いられてイスラエルの民は荒野で十戒を与えられ、律法を与えられ、改めて、天地の創り主なる神さまと契約を結びます。その荒野の40年の間に、神はモーセを通して多くの事をイスラエル人に語りかけます。それは彼らが守るべき律法です。そして、それを守ることをイスラエルの民は神に約束します。神様は、イスラエルのリーダーたちや民が、ご自分の教えを守って生きれば祝福を受けると約束して下さいます。

では、そのことを記録した箇所の一つ、申命記4:23から27まで一緒にお読みしてみましょう。
23あなたたちは注意して、あなたたちの神、主があなたたちと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい。
05004024あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。
05004025あなたが子や孫をもうけ、その土地に慣れて堕落し、さまざまの形の像を造り、あなたの神、主が悪と見なされることを行い、御怒りを招くならば、
05004026わたしは今日、あなたたちに対して天と地を呼び出して証言させる。あなたたちは、ヨルダン川を渡って得るその土地から離されて速やかに滅び去り、そこに長く住むことは決してできない。必ず滅ぼされる。
05004027主はあなたたちを諸国の民の間に散らされ、主に追いやられて、国々で生き残る者はわずかにすぎないであろう。

イスラエルの人々は、自分たち人類に命を与え、信じる者に祝福の約束を与えて下さった神を忘れ、神のみこころを損なうことをし続けるならば、せっかく入った約束の地に住み続けることができないという警告を前もって受けていたのです。
すなわち、27節に、
27主はあなたたちを諸国の民の間に散らされ、
と記されている通りです。

さて出エジプトと荒野の40年の後、イスラエルの民は、約束の地を獲得し、定着して、やがて王が起こり、ソロモンのような発展した時代を迎えていくわけですが、その歴史の中には絶えず、神様に対する不服従がありました。
ソロモンの時代を超えてからは、ますます坂道を転がるように多くは堕落の道を進んでいきます。

そういう中に、絶えず預言者が送られて、リーダーたちや民に、神様に帰るようにと警告を与えます。しかし彼らは聞き入れません。それでも神様は長い間、忍耐に忍耐を重ねて下さり、
27主はあなたたちを諸国の民の間に散らされ、
ということはソロモンから200年、300年経ても起こらず、イスラエルの国は命脈を保っていました。何という神様のご忍耐でしょう。その期間も過ぎて、ついに、アッシリアやバビロンに徹底的に打ち負かされ、捕囚の憂き目に遭う、という経過になってしまったのです。

 ところが不思議なことに、バビロン帝国の後にペルシャ帝国が興り、ペルシャは、他民族の宗教や文化に寛容な政策を執りました。そして、なおかつペルシャの王は、イスラエル人に対して非常に好意的だったのです。
 削除==その陰には、捕囚の苦難の時代に、まことの神を信じる者として立派な生き方、信仰のある生き方をしたダニエルやエステルのような人々の存在があるわけですが、今日は話す暇がありません。==削除

 そして、イスラエル人はペルシャ帝国の統治下において、約束の地に帰ることができたのです。そのペルシャの王(シャーですね。ガンダムみたい 爆)キュロスから命令が出され、帰還が行われたのが紀元前538年です。
バビロン捕囚で完全に国を奪われ、神殿も破壊されてから実に50年が経っていました。母国に帰りたがらず、異境の地に残った人もたくさんいましたし、それ以前に、離散の果て流浪していって、その消息が辿れなくなった人々もたくさんいたのです。しかし、とにかくイスラエル民族がイスラエルの地に戻って来たのでした。
それは、ネヘミヤの時代の70年前のことでありました。
そして実はネヘミヤやエズラの時には、すでに神殿が再建されていました。

そういうとトントン拍子に事が進んだように聞こえますが、神殿ができるまでも、できてからネヘミヤたちがペルシャの首都から帰ってくるまでも、もの凄い妨害や障害があったのです。
しかもその再建された神殿はソロモンの時代とは似ても似つかぬ貧相なもので、ソロモンの神殿を見たことのある年寄りたちは、再建された神殿を見て悲しくなって泣いた次第でした。
その辺りはもう時間がありませんので次回に譲りたいと思います。

さてネヘミヤたちの世代となりました。
いまや、エルサレムの城壁の修復は完成しましたが、再建のためにこれからなすべきこと、また問題は山のようにあります。

そんななか、ネヘミヤやエズラのリーダーシップの元、イスラエルの民の大集会が開かれます。
そこで行われたことは何か? 8:1から一緒にお読みしましょう。

01民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。
16008002祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。
16008003彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。

そこまでに致しましょう。そうですモーセの律法の書の朗読があり、それを数万人の会衆は一緒に聞いたのです。「モーセの律法の書」。元の言葉ではトーラーです。
すなわち今日、旧約聖書と呼ばれる中のモーセ5書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。

結局彼らは、トーラーの朗読を聞くことを通して、民族としての自分たちの歴史をもう一度振り返ったんですね。
先ほどお話ししましたように、アブラハムから始まって、生きておられる神様との格闘とでもいうべき活き活きとしたコミュニケーションそれは創世記に心躍るストーリーとして記されています。
また、出エジプトの壮大な物語。そのなかで与えられた神との契約。それらがトーラーに記されているのです。

彼らは長らくそれを聞いたことがなかった。読んだことがなかった。それを聞いたのです! どれだけ心が躍ったことでしょうか?
その際に、8節にあるように、
008彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。
のです。
その時、何が起こりましたか? そうです。9節後半にあるように、
民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。
ということが起こったのです。
何故ですか? 彼らは、自分たちが信じている天地創造のまことの神様がどんなに素晴らしいことをしてくださったか。心躍ることをしてくださったか。先祖たちを力強く、忍耐深く守り、導いて下さったかを知りました。
それと共に、先祖たちが神様と交わした契約を知り、その約束を守ればどうなって、破ってしまえばどうなるか、前もって神様がおっしゃっていたことも知りました。

そして・・・きわめて悲しい、聞きたくもない話ではあるが、如何に自分たちの先祖たちが神様に背き続けたか。そのことを理解しました。
それでも神様は忍耐し続けていて下さったのに、悔い改めることをせず、かえって神に逆らい続けた自分たちの歴史を振り返り、実感してしまったのですね。
それは単なる後悔だけで終わるのではありません。そうあってはいけません。悔い改め、すなわち考え方の方向転換、神様に従う生き方への全面的な方向転換が必要なのです。
コリント信徒への手紙第二7:10に、
10神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。
と記されている通りです。

聖書のみことばという鏡に照らされて、何が正しいことなのかが分かるということは、自分はここが間違っていると分かってしまうことでもあります。それは悲しく辛いことである場合もあります。しかしそれだけで終わりません。それは救いに通じる道です。
また、そんな道筋の中を通っていくこととして、
主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。
という秘密が、私たちに教えられている事に感謝します。

お祈り致しましょう。

【続く】