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(33分)
罪を赦す権威のある方――屋根から降ろそう(11月13日礼拝メッセージ)
ルカによる福音書5章17節~26節
要 旨
苦しんでいる友人を助けてやって欲しいと4人が、屋根に穴を開けて(!)、寝たきりの友人を床ごとイエスさまの前に吊り降ろす。
家に人が詰めかけて、寝かせた人を運び込むなんてできそうにない具合だし、パレスチナの家屋の構造上、平らな屋上に着目するのは自然なことだったとはいえ、常識を打ち破ってでもイエスのところにお連れした実行力は天晴れでした!
中風で寝たきりの人に「起きて歩け」と言うのと、「罪は赦された」と言うは、どちらも難しい。罪の赦しは目には見えない。しかし、歩けるようになるかは一目瞭然です。シーソーの片方に罪の赦しを乗せ、もう片方に奇跡的な癒しを乗せて、罪の問題の“重さ”を推し量り得ることでしょう。
しかし何より、「あなたの罪は赦された」と言われた本人の内側には、その重さと共に、赦しのありがたさを噛みしめたことでしょう。
奇跡的な癒しも罪の赦しも、神に由来する真の意味でのエクスーシア(権威、10/30参照)の表れです。しかし、イエスにとっては、私たちの永遠のいのちを決する罪の赦しの方がはるかに大事な事柄なのです。
また、罪の赦しは、ご自身が十字架において身代わりとなられる犠牲において実現したことを私たちは忘れてはならないことでしょう。私たちは日々、そのことを感謝に覚えつつ、神と隣人に仕えて力いっぱい生きていくことができるのです。
子どもの時に聖書物語の本を買ってもらって、いろんな聖書のお話しを読みましたが、その中で忘れられない題がこうでした。
「屋根からおろそう」。
そうですね。今朝の聖書箇所の物語です。
家に、「みんなで聖書絵本シリーズ」(日本聖書協会発行)といういうのがあったので、それを持って来ました。子ども用だからと言って、こちらの解説などもかなり高度で、侮れない内容です。
この巻は、今朝の聖書箇所の出来事を記しています。
マルコの福音書も同じ話を扱っておりますが、絵本はそちらに準拠しております。
それでは今朝は先ず「屋根から降ろそう」のお話しをしてみたいと思います。
小さな子どもさんがいたら、こうやって礼拝の前の部分で、子どものお話をするのも良いかも知れないですね。それは、大人にとっても良いことかと思います、なぜなら、子どもにも分かると言うことは大人にも分かるからです。
子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない(ルカ18:17)
というわけですから、幼子に戻った気持ちでお聞き頂ければよろしいかも知れません。
---絵本を読む---
1
4人の人が、寝たきりの病人をイエス様のところに運んできました。
――そうですね。この4人は寝たきりの人のお友達だったんだね。
ところが、あまりに人が多すぎて、家の中に入ることが出来ません。
2
「どうしたらいいだろう」。4人は一生懸命考えました。
――さあ、イエス様がおられるお家に入りたいけど、家が満員で入れないんです。みんなだったらどうしたらいいと思いますか?
4人は思いつきました。
「そうだ! 屋根をはがして、大きな穴を開けて、そこから入れよう!」
そして、メリメリメリ!
屋根に上って大きな穴をあけて、
「よいしょ、よいしょ!」
力を合わせて、4人は、病気の友達をイエス様の前に降ろしてあげました。
3
さて、お家の中では、みんな天井を見上げてびっくりしています。
だって、
メリメリメリ、と音がしたかと思うと、
天井にぱっと穴が開いて、お日様の光がさっと差し込んで来たんですもの!
いったい何が起こったんだろうか?
なんとその穴から、お布団がゆっくりと降りてきました!
と思ったら、4人の友達が協力して、
そろそろと、病気の友達をお布団に寝かせて、それをロープでぶら下げて、イエス様のおられるところにそーっと降ろしてあげたのでした。
4人はイエス様に一生懸命お願いしました。
「イエス様。大事な友達が病気なんです。治してあげてください」
イエス様は、その4人が、深い信仰を持っていることが分かりました。
そして、病気の人に言いました。
「あなたの罪はゆるされました」
4
それを聞いていた りっぽうがくしゃたちは眉をひそめました。そして、
「罪を赦すことができるのは神様だけなのに!」と言いました。
イエス様は言いました。
「『罪が赦された』と言うのと『起きて歩け』というのとどちらが優しいと思いますか?
私は、この地上で、罪を赦すことが出来るのです」
5
そしてイエス様は病気の人に向かって「起きて歩きなさい!」と言いました。
すると、寝たきりだった人が立ち上がり、歩き出したのです!
人々はとても驚きました。そして、
「こんなこと、今まで見たことない」と言って、
口々に、奇跡を起こしてくださった神様を賛美しました。
おしまい。
そして、まとめですが――
――イエス様は、困っているお友達のために一生懸命助けを求める4人の願いを聞いてくださいました。
私たちも、困っている人のために、お祈りして、イエス様にお願いしてあげることが出来ます。
イエス様は、私たちの祈りに耳を傾けていてくださいます。
さて、この出来事は、いろんなかたちでまとめたり、教訓を酌み取ることができると思います。
皆さんなら、どういう風に聞く人に向けてお話しをまとめるでしょうか?
さて、
今朝お読み頂いたルカの福音書の方では、5:18を見れば分かりますように、
すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
ということでありまして、人数が4人とは書いてありません。マルコの方は4人って書いてるんですね。マルコ2:4には
4人の男が中風の男を運んできた
とはっきり書かれています。
また、ルカではこれは5:12の
イエスがある町におられる時、
とあります続きの記事でありまして、どこで起こった出来事かは明記されていません。一方マルコでは
数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると
とありまして、これがカファルナウムの町でおこった。おそらくはシモン・ペテロの家での出来事であろうということが分かるわけです。
ルカは、いろいろ取材して聞いたけれども、必要な情報だけにぎゅっと絞って書いたのだろうと思わせられます。
そんななかで、ルカは5:1で、
ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。
と記しているところが非常に着目させられます。
ルカのここまでの箇所で、ファリサイ派の人々と律法の教師たちに該当する人々が登場するのは、実は2回目だと思います。
1回目は2:46に、
三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
ここに登場すると思います。イエス様がまだ12歳の幼少期の頃、エルサレムの神殿を根拠地にして教えていた律法学者たち相手に、まあ、論じあっておられたわけです。
その頃から、ユダヤ民族の復興運動に立ち上がるリーダーとして、若者イエスの成長を期待することは、律法学者たちの側からもあったのではないかと私は推測します。
しかし、これまでお話しさせて頂いたように、イエス様は、全ての人々の救い主としてお出でになったのであって、ユダヤ民族の政治的な救い、ということが真の救いの中心点なのではない。そうではなく、あらゆる民族、あらゆる国の人々が、その魂の内側奥深くから変革され、その結果、世の中も変わっていくような救いをもたらすことを宣言されたのでした。
それは、「いま」ローマ帝国に支配され、抑圧されているユダヤ人たち、イエスと同胞であるユダヤ人の多くの人々には理解できない話であり、そのことが、イエス様が、十字架刑によって殺されてしまうことの要因ともなっていったのでした。
そういうなかで、イエスの路線に反対する急先鋒、といいますか、イエス様が急先鋒になってしまうのかな?として、パリサイ派の人々、律法学者たちが描かれているという図式になろうかと思います。
しかし、案外、そういう図式も考えながら、冷静になって読んで見ると、ルカの描き方は、
そういうユダヤ人、パリサイ人、律法学者の描き方を敵として描いているのでは「ない」という感じが致します。
相当な配慮をもって、読者のなかにも、異邦人だけだけでなくユダヤ人も多くおられることを意識し、また律法重視型の見解の人々も切り捨ててしまわないで書いていることが伺えるところがいろいろあるような思いもするわけです。
ユダヤ人は民族性として、いまでも良い意味で、議論を闘わすことが好きで、そこから活力を生み出し、新しい自由闊達なアイデアを生み出すことがうまいと聞くことがあります。
「ユダヤ人が2人いれば政党が3つできる」という笑い話があるほどだと言います。
そう言う観点から、ここに記されたパリサイ人、律法学者たちの意見を聞いてみることもできるかも知れません。
イエス様がおっしゃっていることにいちいち楯突く不従順な連中、というような書き方は、ここにおいてルカはしていない気がします。
20節でイエス様は、中風の人に向かって、中風の男と書いてませんがおそらく男でしょう、
「人よ。あなたの罪は赦された」
とおっしゃっいました。それに対して、
律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
というわけです。まあ、私の感覚で言えば、文句言いというか、ぼやきというか、
元の言葉を見ますと、「非常に注意深く考えた」とあるのです。みちっと考えた、とでもいいましょうか。
そして、口に出しても言うたような感じの書き方です。
「罪を赦すやなんて神さんを冒涜してはるんちゃうか?」「いったいこのお方はどなたさんやねん」「誰が神さん以外に罪を赦すことができはるもんかなぁ」とぼやいたと、というわけでしょう。まあ、批判精神が旺盛なわけですね。
イエス様の方も、「黙らっしゃい!」などと言ったり、また、無視したりなさらず、彼らの注意深い考え方、批判の中心点の大事なところを悟りなさって、彼らに答えておっしゃったわけですね。
「なんでまた、あなた方は、心の中でみちっと考えてはるんですかいな?」関西弁で言ったわけではないでしょうが、思うことがあるんやったらはっきり聞いてくれたらどうや、と言わんばかりです。
そして、続けてこうおっしゃいました(5:24)。
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。
皆さんは、このイエス様の問いに対してどう思われますか?
中風で寝たきりで、寝床に寝かせたまま運ばれなければならない人に「起きて歩け」と言うのと、「あなたの罪は赦された」というのとどちらが簡単でしょうか?
いや、そもそもなぜ、この二つのことを並べて質問されたのでしょうか?
そのこたえは後に回しとしまして、この聖書箇所の描写もルカは、丁寧に、しかし適格に、びしっびしっと描き込んでおります。臨場感あふれる描写です。
少しだけそれを見ますと、17節で
ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである
というのですが、これは、まあ、その頃の全般的な情勢として、彼らが「座っていたものである」という書き方でして、その日たまたま一日だけが、パリサイ人デーだったわけではないことが分かります。パリサイ人集合月間だったのですね。
その頃は、イエスの言動に探りを入れるためでしょうか、好奇心も大きいし、警戒感もあるのでしょうか。ご丁寧にも、ガリラヤ地方や、ユダヤ地方や、エルサレムから、まあ全国津々浦々から、パリサイ人や律法学者が集結し、うようよして、イエスの話に耳をそばだてている情勢であったことが分かります。その絵を思い浮かべると、私なんかは、少しおかしみを感じて笑ってしまう感じが致します。
そして、
主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。
直訳的に言うと、「主の力が、イエスが癒すことへと向かって、あったのであった」という風に書いているわけです。
おそらくルカがペテロに取材した時に、ペテロがですね聞いてる人たちに向かって、
「それはな、主の力がな、イエス様の方にもうどんどんどんどん!・・・」
と話して聞かせてやっている口調が思い浮かぶような思いがします。
そして、
すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
群衆のために家には入れないと言ったって、どんだけぎゅーぎゅーに詰め込んでるねん!と、これまた想像すると、なんとなくおかしみを感じててしまうような感じが致しまして、
混んでいる芝居小屋に入れなくたって、少しづつ奥へ詰めてもらえりゃあ入れる、そんなような気もするのですが、そういうわけにもいかなかったのか
――そりゃ、なんとか家に入るだけと、一番奥まで到達するのはずいぶん違いますから、
あるいは、パリサイ人たちが意地悪をして、
気持ちよく通らせてくれない、ということであったのかと思ったりもしたのですが、
やはり、「群衆に阻まれて」ということが書いてあるのは、物理的に入れなかったということのようなんですね。
といいますのが、よくよく見ますと、「運び込む方法が見つからなかった」と書いてあるわけです。
元の言葉を見ましても、ここで、「運び込む」というのは、「あるエリヤや構造物の中に、何かを運び入れること」というを意味する動詞が使われているのです。
つまり、上からいろんなかたちが落ちてくるゲームのテトリスといのがありますが、そのテトリスのように、かたちがひょっ、ひょっ、とはまらないと通っていけない、
そうです、お察しの通り、この中風の人は横に寝かせられているのであって、そのまま運んでいって上げなければならないので。それをひょいと「縦」にして運んでいくことはできないわけなんですね。
そして、寝かせたまま、人が詰めかけている家の中に運び入れていこうとしてみたた時に、それができる「であろう」ようには思えなかったので、という書き方が、ここではしてあるのです。実際にやったけど、入れなかったよ、というより、「こりゃ、無理はできんわな」と賢明な情勢判断をして、
より良い、可能な方法を考え出したことが伺えるわけです。
そして、しかし!なんたることか、
屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。
当時のこの辺りの家屋の絵です(絵を見せる)。
なんで、窓から入れなかったのでしょうか?
それは、ここに解説が書かれていますが、「窓は小さく数は少なく、壁の上の方に作られた。それは、夏には涼しく冬には暖かくするためである」そのうえ「窓には格子戸をはめて侵入者を防いだりした」というわけです。
そして、屋根。一年中雨が降るわけではありませんので、この辺りの屋根は、今も昔もフラット、平らであることが原則です。
また、そこで農作業をしたり、暑い夜や、また昼寝の時にそこで涼しくして寝たり、そういうことに屋上は積極的に使われていたし、外階段もありました。
屋根の構造は、太い梁を渡しておいて、間をもっと細い枝なんかでふさいでいき、そして最後に、すきまを、泥と言いますか粘土でふさいだもので、時々メンテナンスしなければならないものであったようです。
ですから。梁と梁の間のものを取り除いて、天井に穴を開けてしまうことは容易でしたし、思いつき易いことでもあったのでしょう。
子どもの時に読んだ聖書物語「屋根から降ろそう」では、そのオチとして、「その壊れた屋根を誰が修理したか気になりますね」って、ユーモアを込めて書いていましたけど、
案外、それはペテロの家であったり、ペテロと気心の知れた仲間たちの仕業であったのかも知れないという連想が、当時の読者にも働いたのでないでしょうか?
そしてもう一つ。なんでまた、的をはずれないで、
人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。
なんて芸当が出来るものでしょうか? どんぴしゃりイエスの前に降ろした、という感じで書いてあるのであります。これも、この家がペテロの家だったりすると非常につじつまが合う、そのことが分かる書き方がしてあるわけです。
さて、イエス様は、ご自分の目の前に、寝床に乗せたまま釣り降ろされた中風の人と、釣り降ろした、屋根の上の4人と、群衆を前にしての場面ですね。20節。
その人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
のでした。これは、はじめにお読みした絵本で書かれていた記され方の解釈が的を得たものであるようで、
彼らが「そうできる!そうなる!」と信じ、期待していたことを察知しておっしゃったわけなのですね。
「人よ、あなたの罪は赦された」
そして、先ほどのパリサイ人、律法学者たちとの問答に戻ります。
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
あなたが」は、どちらが易しいと思いますか?
結局、どちらも難しいと言うことだと思います。その言ってる内容が本当のことであるならば「あなたの罪は赦された」と言うのも、「起きて歩け」というのも、言うこと自体はある意味、簡単なことであります。
しかし、「起きて歩け」と言って歩けなかったら・・・! それは目の前で見て結果がすぐに分かります。批判的に見ているパリサイ人、律法学者たちが、全国各地に散らばって、その結果は伝わるでしょう。そうなったら、もう、ジ・エンドです。あまりにリスキーです。
しかしイエス様はおっしゃった。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。
「起きて歩け」とおっしゃたのです。
罪を赦すことや、赦されたことは外から目には見えない。
だけどそれは確かなことである。
そのことは、この中風の人が自分自身、「あなたの罪は赦された」と、このイエス様に言われたその時に、その通りだと言うことが分かったことでしょう。
これまでの自分の人生が、さっと振り返られ、思い出す数々の愚かなこと、しでかしてしまったこと、体が不自由になってしまった以上に、
その心が、正しいことを求めないで、間違ったこと、人を傷つけ自分を傷つけることばかりしてしまうようなこの私の罪。
それが赦されている!
そのことをこの人は実感したことと思います。
そして、
その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。
これまで自分がそこに寝ていたものを、寝かされていたものを、こんどは自分が担ぎ上げて、担って、自分の足で立って歩いて行くのです。
でも、もしも、イエス様が起きて歩け、といったのにそうならなかったらどうだったでしょうか?
のるかそるかの大勝負ですね?!
いや、そうではなかった。
エクスーシア、イエス様の権威ということを前回、学びました。
それは神様からのものです。
自然界を支配する神の権威、エクスーシア。それをお持ちのイエス様です。
サタンの地上の支配下にあってさまざまな苦しみにさいなまれる人類。サタンはサタンのエクスーシア、自分の支配領域、領土を持っていますが、神のエクスーシア、権威は、究極的にそれを包み込んでしまっている。そのエクスーシアを正に支配していらっしゃるイエス様というご存在です。
イエス様の権威、エクスーシア、すなわち、神から由来するものとして、事柄をなす自由、権利、資格、能力、力、権能、主権をお持ちです。
それによって、中風の人に立って歩けとおっしゃれば必ず、そのおっしゃるようになるのであり、
罪を赦す、とおっしゃればそれは赦されるのです。
そして、結びにもっとも大事なこと。
その罪の赦しの方がイエス様にとっては大事なことでした。
それは使徒信条で唱えました。「罪の赦し、とこしえのいのちを信ず」
罪の赦しの問題は、永遠の運命と関わりがあるからです。
そして、イエス様は、私たちの救い主、メシアとして、ご自分が十字架にかかって、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださった。
そのお方が、「あなたの罪は赦された」と、正に権威を以ておっしゃってくださるのだということを深く心に覚えたいと思います。
お祈り致しましょう。